夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『如月』の2月に別れを告げながら、平年より寒かったょ、と微苦笑を重ねながら・・。

2013-02-28 15:19:32 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であり.
今朝ぼんやりとカレンダーを眺め、『如月(きさらぎ)』の2月も月末となってしまったか、
と苦笑したりした。

午前中のひととき、平素の買物の専任者の私は、いつものようにスーパーに向ったりすると、
陽射しは暖かく、3月下旬のような陽気かしら、と微笑んだりした。

帰宅後、付近に流れる野川の遊歩道を散策したが、
平年ならば白梅は満開となり、雑木も木の芽時(このめどき)となっているのに、
と少し溜息しながら歩いたりした。
               

私の住む地域は、昨年の12月頃から平年より寒く、2月を迎えた時は、
我が家の小庭の水仙(スイセン)も莟〈つぼみ〉も見えず、白梅(ハクバイ)、そして紅梅(コウバイ)は莟〈つぼみ〉が固く、
平年より数週間は遅れているのかしら、と苦笑をしたりしてきた。


そして橋を渡りながら、私の好きな景色を眺めても春の訪れはまただよねぇ、
と心の中で呟(つぶや)いたりした。
              

この後も遊歩道を歩きながら、桜の樹が多い桜並木の中を過ぎても莟〈つぼみ〉は固く、
櫻花の満開は3月下旬の頃かしら、と思ったりした。
                    

私は2月を迎えた時、古来より『如月(きさらぎ)』と称され、
暖かな日中に恵まれたり寒さを増す日々もある三寒四温の中、
私の住む地域は白梅、紅梅が満開となり、齢を重ねるたびに深く早春の美麗の情景を享受してきたので、
この2月は、『梅見月』だ、と秘かに断言したりしてきた。

しかしながら、2月の日々を過ごしてきたが、平年より寒さが続き、
天上の気候の神々の采配に戸惑い、どうしてなのょ、と空を見上げたりしてきた。
そして一週間前の20日に玄関庭にある白梅が、遅れてご免なさい、と言ったように、
恥じらいながら2輪ばかり咲いたりした。


このような思いを馳せたりし、付近の小公園も歩いたりしたが、
やはり雑木のそれぞれは木の芽時(このめどき)には少し早く、改めて今年の冬の寒さを感させられたりした。

澄み切った青空で陽射しは燦燦(さんさん)と、風もなく暖かい3月下旬のような陽気の中、
歩いたりして、花壇のコーナーだけは、春の便(たよ)りの情景となり、
私は思わず苦笑させられたりした。
               

帰宅後、主庭の白梅は数多くの莟〈つぼみ〉か大きく膨らんでいたので、
明日から始まる3月の初旬に咲き始め、遅ればせながら早春の美麗を見られる、と私は微苦笑したりした。

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コニー・フランシス、我が青春の中学、高校の時期に秘かに心酔して・・。

2013-02-27 14:47:22 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
昨夜、この【gooブログ】サイトに於いて、あるお方がお孫さんの中学二年生のうら若き女の子が、
音楽に関してはイギリス及びアイルランド出身の男性5人で結成されたグループの『ワン・ダイレクション』に心酔している、
と投稿記事を私は読んだりして、微笑んだりした。

私は音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤めて、2004〈平成16〉年の秋に定年退職したが、
この間は音楽を制作する分野でなく管理畑を中核に歩んできたが、何かとの洋楽に苦手であった。
そして定年後の年金生活の中では、音楽業界のことも疎(うと)くなり、
無念ながら若き男性5人グループの『ワン・ダイレクション』は無知であった。

今朝、私はいつものように何かと音楽業界について詳しいネットを見たりし、
《・・昨日(2月26日)ロンドンでIFPI(国際レコード産業連盟)による2012年の年次デジタル・ミュージック報告書が発表され・・
敬愛している【高橋裕二の洋楽天国】で具体的に解説された中に於いて、アルバムのベストテンを掲載していた。
1位)アデル「21」 830万枚
2位)テイラー・スウィフト「レッド」 520万枚
3位)ワン・ダイレクション「アップ・オール・ナイト」 450万枚
4位)ワン・ダイレクション「テイク・ミー・ホーム」 440万枚
・・》
このような記事を読みながら、『ワン・ダイレクション』は昨年も世界的に破竹の勢いで、CDや音楽配信で、
アルバムが売れている、と学んだりし、私の勤めていたライバルのレコード会社の所属だ、と苦笑したりした。

もとより音楽のCD、配信の購買層は10代、20代が多く、
昨今の10代の女の子は、こうした若き男性5人グループの『ワン・ダイレクション』に熱中するのか、
と思ったりした後、私が中学、高校生の頃は・・、と思いを馳せたりした。


私が都心の高校に入学したのは1960〈昭和35〉年の4月であり、
小学4年生の頃から映画館に独りで観たりした映画少年で、
相変わらず映画を観たりしてきたが、洋画中心になっていた。

そして小・中学生は劣等生だった私が遅ればせながら高校に入学してまもなく、
突然に読書に目覚めた・・。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力であった。

この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読すると同時に、
授業を学ぶ楽しさも初めて体験し、成績も向上した。

こうした中で、音楽も聴き始め、
ポピュラーとして、真っ先に浮かんだのは、コニー・フランシスであった。

私がコニー・フランシスを初めて意識的に聴いたのは、
確か高校2年前後の1962年の頃であったと思う。

ラジオから甘くせつない声がながれてきた。
この頃、実家の居間にはテレビがあったが、自分の個室はラジオぐらいで、
ラジオは殆ど付けっぱなしであった。

中学時代は、テレビでザ・ピーナッツを視聴したりし、
ラジオではコニー・フランシスの何となく甘くせつなく、色合いのある声を聴き、
『マイ・ハピネス』、『カロリーナの月』、『泣かせないでね』等であったと思う。
そしてレコードまでは買えなかったけれど、良くラジオから流れ、聴いたりしていた・・。

その後、『可愛いベイビー』の日本語も流れ、日本の歌手では中尾ミエが歌うようになった。


私が50代になった時、業務の忙しい中、
休日の時、急にコニー・フランシスの唄声が聴きたくなった。

そして私は、CDアルバムを7枚ばかり購入して、聴き入っていた。
その後、人事異動をしてある部署に勤めていた時、
洋楽畑の人から、私がコニー・フランシスのファンであること知り、セット物のCDを頂いた。

アメリカ市場の流行のブック形式で、豪華な解説書ある直輸入の商品であった。
日本の発売に併せ、豪華な日本語の解説書が加わった、CD4枚組であった。

       今回、ブック形式のジャケットの表を記念に撮った

私はアメリカの本国で曲の編成に興味もあったが、
何よりあの当時のコニー・フランシスはどのように評価を受けていたのか、と解説書を精読した。

《・・彼女は、ナンシー・シナトラ、ペトゥラ・クラーク、ディォンヌ・ワーウィック、
そしてブレンダ・リーなどといった競合するライバルを遥かにしのぐレコード売上げで、
1960年代最も成功した女性ヴォーカリスト・・》
と綴られていた。

私はコニー・フランシスを聴くたびに、ときには甘くせつなく、色合いのある唄声に魅了されるが、
やはり私の中学、高校時代の想いでも重なるので、
人一倍、その一曲、一曲は心にしみて聴こえてくる・・。
そして、『トゥルー・ラブ』を繰り返して、聴いたりすることもある。

私はアメリカで編成されたコニー・フランシスの4枚組のCD、
全118曲を聴いてたりした後、
私は中学2年頃に『マイ・ハピネス』、そして『カラーに口紅』を確かに聴いていた、と教えられたりした。

この当時の私としては、《カラーに口紅》という意味合いから連想して、
少年心に、口紅を付けた素敵なお姉さん・・ワンピースを着た人・・
と勝手な思いで想像していた14歳の男の子であった。

コニー・フランシスの『渚のデート』、『大人になりたい』、『ヴァケイション』、
『ボーイ・ハント』等を聴いていると、
まぎれなく、甘くせつない色合いの唄声は、
あの中学生の時代の頃は、大衆文化の移り変りの早かった時代である中、
思春期の私は、アメリカの文化の香り、豊かな経済力、と共に心酔し、
そしてコニー・フランシスのような素敵なお姉さんにあこがれていた、と思われる。

私はワンピース、或いはツー・ピースを着た女性に、何かしらときめきを覚える。
そしてスカートのすそ先が少し揺れ、胸元がまぶしく、
中学生の時から、齢ばかり重ねた今でも、このような女性に対しての思いは変わらず、
ときおり私は独り微苦笑をしたりする。

こうしたことの原点は、コニー・フランシスから感じたことが始まりである。

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日本列島は広くて奥深い、と齢ばかり重ねた私でも、改めて実感させられて・・。

2013-02-26 14:57:58 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の身であり、
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

こうした中で、私たち夫婦は国内旅行が共通の趣味のひとつであり、
特に雪の舞い降る情景に魅せられて、新年を過ぎた頃に、雪恋し、と思い、
過ぎし1月20日より北海道の帯広市の郊外にある十勝幕別温泉の中のひとつの観光ホテルに、
5泊6日で滞在し、周辺を周遊してきた。

       十勝川の周辺を散策した時、十勝中央大橋の歩道から撮った

そして早朝、夜になるとマイナス15度前後、日中の最高気温はマイナス5度前後が多かったが、
周辺をひたすら歩き廻ることが多かった。

        雪が降った翌日の朝 宿泊した観光ホテルの前で撮った

 
そして帰宅後、私の住む地域は朝の6時前後は3度前後、昼下がりは10度前後で、
やはり東京の郊外は暖かいなぁ、と実感させられた。
この後、いつものように自宅の付近を散策したりした。

       自宅から45分ばかり歩いた神代植物園


       自宅の近くに流れる野川の遊歩道

何かと運動不足の私は、ひたすら歩き廻ったりした。

こうした中で、日本列島の南海も久々に観て見たいわ、と家内は私に言ったりした。

そして旅行通販会社の大手のクラブツーリズムに於いて、
フリープランのひとつとして、石垣島フリープラン5・10・14日間が掲載されて、
《 離島桟橋まで徒歩3分の大浴場付きホテルに連泊 》と見出しがあり、
私たち夫婦は、石垣島の島内をゆっくり周遊するのも良いかしら、と思い申し込んだりした。

結果的には2月7日より9泊10日で、きまぐれに観光めぐりをしてきた。

        石垣島の川平湾

そして離島の新城島(あらぐすじま)を島内の集落、浜辺を散策したり、
小浜島(こはまじま)と竹富島(たけとみじま)の観光ツアーなどに参加したりしてきた。

            竹富島            

こうした中、朝夕は18度前後、昼下がりは25度前後で、日中は半袖のスポーツシャツの容姿で、
私たちは歩き廻ったりした。

そして帰宅すれば、もとより私の住む地域は寒く、寒いじゃないの、と身勝手なことを言いながら、
冬用の厚いスポーツシャツを着こんだりした。

たまたま一カ月の中で、北は北海道の帯広の周辺、中核は自宅地域の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅み、
そして南方の石垣島と周辺を過ごしてきたので、
日本列島は広くて奥深い、と改めて実感させられたりした。

こうした心情の私は、ネットで日本列島について検索したりして、
ひとつのサイトにめぐり逢えた。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9410.html
☆【図説・海洋国日本:世界の排他的経済水域】☆

そして齢ばかり重ね何かと無知なことの多い私は、精読したりした・・。
《 日本は島国であるとともに、周辺海域の大きな海洋国家でもある。
  (略)
  日本は人口規模では世界第10位であり、国土面積では、世界第61位である。
  (略)
  ここでは、領海を含めた排他的経済水域の面積を掲げているが、
  日本は、447万平方キロと国土面積38万平方キロの約12倍と大きく、世界第6位となっている。
  日本は海洋国家としては大国であることが理解される。
  (略) 》

このようなことを少なからず学び、日本列島は広大で、四季折々の情景に恵まれて奥深い、
と一時間ばかり学びながら、これまでの訪れてきた旅路の情景に思いを重ねたりした。

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『今月は28日で終わりかょ』、と少しボケた私は心の中で呟(つぶや)き・・。

2013-02-25 07:55:37 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
今朝、パソコンの置いてある机の前の椅子に座り、ほんやりとした後、
机の中のカレンダーを取りだして見たりした・・。

このカレンダーはある旅行会社から頂いたもので、
年金生活の私でも特記事項をメモ書き代わりに殴り書きをしている。
               
そして少しボケた私は、今月は28日で終わりかょ、と心の中で呟(つぶや)きながら、
微苦笑した・・。

私は民間会社の中小業で35年近く奮闘し、
何とか定年退職できたのは、2004(平成16)年の秋であった。

その後、年金生活に入り、ときおり暇にまかせて、つまらないことを考えたりする悪い癖がある。

例えば、この2月は、どうして平常月より日数が少ないの、といったようなことである。

私は小学生の時は劣等生ながら、疑問のひとつであり、
家の中にあるどのカレンダーを見ても2月は平常月より短く、
大人の世界の常識と思い、こんなことを訊ねたらこの児本当にバカなんだ、と危惧したりし、
恥ずかしくて60年近く訊(き)けなかったのである。

この難問が解明できたのは、定年後の半年ばかり過ぎた頃で、
知識人のひとりの藤野邦夫・著の『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)を再読していたら、
《・・
前43年に初代ローマ皇帝になったアウグストゥスのご機嫌をとって、
元老院が彼の誕生月の8月を『アウグストゥス』と改称し、
それまで30日だったこの月の日数を増やすために、
2月から1日を移した
・・》
と明記されていた。

私はローマ皇帝に対し、時の元老院の人々のふるまいに、呆れながらも驚いたりした。

このように東洋の片隅にある日本に於いても、
地中海文明の華やかしきローマ帝国の遥か2000年前の決定事項を
1873(明治6)年の頃から、歴然と受け入れている不思議さに、私は微苦笑してしまったのである。


このように思いを秘めている私は、あと4日で2月も終わってしまうので、
必須事項は『国民健康保険』と『固定資産税』の支払いぐらいかしら、とぼんやりと思ったりしている。

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陽は昇り、齢ばかり重ねた私は、思わず感謝しながら手を合わせ・・。

2013-02-24 08:53:52 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の身であり、
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

我が家の小庭は陽射しが射し込むのは、ご近所より少し遅い、と思われる。
隣接に大きなマンションが建っている上、我が家の前のお宅の樹が大きく、
その上に住宅街の片隅みにあるので、日の出から一時間ぐらい過ぎないと、
我が家には陽射しが射し込まないのである。

今朝も7時過ぎに陽が視えて、今日は快晴かしら、と微笑んだりした。
やがて7時半過ぎに、主庭に陽射しを射し込んできたので、
私はテラスに下り立ち、朝の陽射しを浴びている・・。

そして私は思わず陽射しに迎い、そっと手を合わせる・・。
陽射しが恋しくなるこの時節、感謝のひと言である。

こうした私は朝の陽射しの出る日の出の情景には、
何かと劣等感を秘めている。

たまたま国内旅行をした時、日の出が視える旅先に於いては、
愚図の私でも早起きしてしまう習性がある。


2010年5月下旬、旅先の竜飛岬の観光ホテルの一室から、津軽海峡の対岸の北海道から日の出

私は夢のひとつは、平原のような大地の彼方から陽が昇る日の出の情景であるが、
無念ながら、見果てぬ夢、と齢ばかり重ねた私は感じたりしている。

ここ10年、寒い時節に旅先の観光ホテルなどで、早朝から陽射しが燦々と照らす部屋に宿泊できた時、
この世で最高の贅沢かしらと思ったりしている。
もとより貧富の差もなく、平等に太陽は恵みを与えてくれる、と私は微笑んだりすることが多い。

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『所得税の確定申告書』の作成、提出は、年金生活の私でも真摯に・・。

2013-02-23 14:31:00 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の身であり、
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

過ぎし1月下旬の頃に所属地域の武蔵府中税務署から、
『所得税の確定申告書』の用紙等在中の郵送物が我が家の郵便受け箱に入っていて、
私は表紙を見たりして、
《 申告書の提出は、2月18日(金)から3月15日(木)までです 》
と明記されていた。
               
そして私は、たまたま家内との共通趣味のひとつの国内旅行がまじかであったので、
2月月末頃まで所得税の確定申告書を作成し、郵便で送付すればよい、と思ったりした。


もとより税金に関しては、幾数1000年の古今東西のどの国家に於いても、
国民に対してどのくらい負担して頂くことは、最も悩ましい難題である。

しかし国家の形成維持、発展をするには、ある程度の税金を国民に負担しなければ、
社会インフラ、社会保障、教育、国防等は成立しないので、
国民は程ほどの負担の責務があるし、ましておこがまし脱税などは非国民と確信している。

問題はどの方に、どの世代に負担の増減が最大の問題となる。

私のような年金の方たちの世代を一方的に軽減すれば、
現役で働いて下さる肝要な諸兄諸姉の多くの人々に加重負担となるので、
これは健全な生活を営む上で、絶対に避けなければならない。

むしろ私は、ここ10数年の社会風潮に於いて、
孫の世代が、祖父、祖母に何かしらの金銭にすがる状況、
或いは孫に懐(なつ)いでもらいたい余り、
祖父、祖母が優先的に金銭を与える風潮をなくしてもらいたい、
と余計なことを思ったりしている。

程ほどの年金を蓄えて、孫の世代に渡すより、
祖父、祖母は、生きた知恵を孫に教示するのが、望ましいと思考している。

ここ数年、国家の財政は益々悪化し、年金世代が一方的に国にすがるのは、
孫の世代に破綻をまねくと憂いたりしている。

私の日常の生活は、多くの高齢者と同様に、
年金の収入では足りないので、程ほどの貯金を取り崩している。
そして、清く貧しく美しくのモットーで日常を過ごしているが、
海外の主要国から見れば、日本の年金世代の人々は豊かである、と確信を深めたりしている。


このように思っている私は、国民の責務と確信しながら、
年金生活の私は真摯に毎年、所得税の確定申告書を作成している。

2004(平成16)年の秋に定年退職する以前の現役のサラリーマン時代は、
12月初旬に社内の担当部署に年末調整の書類を提出すれば、
医療控除、不動産等の用件がない限り、簡易であった。

この後は、私は年金生活の身となり、私は厚生公的年金、企業年金、個人年金、
家内は我が家を新築した後、3年ばかり勤めて支援してくれた以外は専業主婦の期間であり、
過ぎ去り年に60歳を過ぎた後、厚生公的年金、企業年金をわずかな額であるが頂いているので、
私たち夫婦は共に年金を頂く夫婦となっている。

私は高齢者の少しボケた身なので、
それぞれの関係先から昨年の12月頃に送付されてきた源泉徴収票を指定の封筒に入れて保管している。
そして医療費控除に関しては、私たち夫婦のどちらかが歯の治療費が多く、
病院の医療費、これに関連した治療の薬代金、
或いはドラッグ・ストアーで買い求めた薬代金などの領収書を保存している。

我が家は私が高齢者4年生の68歳、家内は63歳の身となり、
私は小心者であり体力は衰えてきたが、気力だけは若者に負けたくないと思っているが、
家内は体力は私よりあると私は実感しているが、胃腸に弱く、何かと薬のお世話になることも多い。

私は所得税の確定申告書を作成する前に、こうした領収書を整理し、電卓で算出している。

この後は、ネットの国税庁のホームページの『確定申告書等作成コーナー』をパソコンで開き、
源泉徴収票などの書類に基づいて、入力している。

そして、『所得税の確定申告書』の用紙の最後のページに添付されている『下書き用』に記入しているのが、
平年の習わしとなっている。

私は幾年過ぎても『収入金額等』、『所得金額』、『所得から差し引かれる金額』、『税金の計算』などの各項目、
そして算出方法が解からないので、
この国税庁のホームページの『確定申告書等作成コーナー』を頼りにして、項目、計算結果を転記している。

この後は、『下書き用』から本書の『所得税の確定申告書』に転記して完成をさせて、
添付するべき源泉徴収票などの書類を同封して、郵送したりしている。


2月20日過ぎに、我が家の郵便受け箱に市報の『ちょうふ』が入っていて、
トップ記事として、《市・都民税、所得税(国税)の申告は
あらかじめ作成し、提出はお早めに》と大きく題された記事を見て、私は苦笑したりした。
               
確かにこの記事に明記している通り、
《3月に入ると市役所、税務署の窓口は大変混雑します。
申告書の提出は比較的すいている2月中をお勧めします。・・》
と明示されているので、明日は小用があったりするので、
遅ればせながら来週の25日の月曜日に作成し、26日の火曜日に郵送しょうかしら、
と高齢者の私は決意したりしている。

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春を思い馳せれば、つたない私でも夢の中で、春の情景にめぐり逢い・・。

2013-02-22 14:38:13 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
今朝、めざめた後、新聞を取り込みながら外気にふれると、
少し寒いじゃないの、と心の中で呟(つぶや)いたりした・・。

この後、地元の天気情報を見たりすると、
朝の6時はマイナス3度、昼下がりは8度前後、夜の6時は6度前後、
快晴の一日を迎えますが、平年より3度前後寒く・・、
と報じて、私は微苦笑したりした。

世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の私の住む地域は、
昨年の12月頃から平年より寒く、過ぎし1月初旬に『小寒(しょうかん)』であり、
『寒の入り』の時節を迎えて、
1月下旬に『大寒(だいかん)』、そして2月4日は『立春(りっしゅん)』となってきた。

そして『寒の内』が終わりを告げて、耐寒も終りとなり春かしら、と期待を託(たく)しても、
やはり日本の各地で行われる女の子の祝賀祭の3月上旬の『ひな祭り』を迎えるまでは、
三寒四温の日々となり、東京郊外でも数センチぐらいの雪が舞い降る日もあったりした。

こうした中で、我が家の小庭の水仙(スイセン)も莟〈つぼみ〉も見えず、白梅(ハクバイ)、
そして紅梅(コウバイ)は莟〈つぼみ〉が固く、平年より数週間は遅れている、と私は微苦笑してきた。
そして一昨日の20日に玄関庭にある白梅が、遅れてご免なさい、
と言ったように、恥じらいながら2輪ばかり咲いたりした。


この間、私たち夫婦は、国内旅行が共通の趣味のひとつであり、特に雪の舞い降る情景に魅せられて、
この時節になると、雪恋し、心情となり、
過ぎし1月20日より北海道の帯広市の郊外にある十勝幕別温泉の中のひとつのリゾートホテルに、
5泊6日で滞在し、周辺を周遊してきた。
朝夕はマイナス15度前後、日中の最高気温はマイナス5度前後が多かったが、
周辺をひたすら歩き廻ることが多かった。

そして帰宅後、私の住む地域は朝の6時前後は3度前後、昼下がりは10度前後で、
やはり東京の郊外はあたたかいぁ、と実感させられた。

この後、日本列島の南海も久々に観て見たいわ、と家内は私に言ったりした。

そして旅行通販会社の大手のクラブツーリズムに於いて、
フリープランのひとつとして、石垣島フリープラン5・10・14日間が掲載されて、
《 離島桟橋まで徒歩3分の大浴場付きホテルに連泊 》と見出しがあり、
私たち夫婦は、石垣島の島内をゆっくり周遊するのも良いかしら、と思い申し込んだりした。

結果的には2月7日より9泊10日で、きまぐれに観光めぐりをしてきた。
朝夕は18度前後、昼下がりは25度前後で、日中は半袖のスポーツシャツの容姿で、
私たちは歩き廻ったりした。

そして帰宅すれば、もとより私の住む地域は寒く、寒いじゃないの、と身勝手なことを言いながら、
冬用の厚いスポーツシャツを着こんだりした。


家内は旅行する前日、台所を洗い清めたり、洗濯物も残さず、
そして冷蔵庫の肉類、魚類、野菜物、牛乳など殆ど空の状況にしないと満足しないタイプなので、
帰宅後、平素の買物の専任者の私は、スーパーなどで食料品、そして洗剤などを買い求めに多く、
そして散髪屋(理容店)に行ったりした。

その上に、このブログサイトの投稿する写真を選定しながら、投稿文を走り書きのように、
何とか『八重山諸島きまぐれ周遊記』と題して、13回ばかり連載をしたりし、
愚図の私は忙しかったのである。


昨夕、八甲田山系にある青森市・酸ヶ湯(すかゆ)温泉の近くで、積雪が515センチとなり、
現在ある気象庁の観測地点(330地点)の中で国内最高を記録した、とテレビのニュースで報じていた。

私たちは過ぎし2010年に私達夫婦の結婚して35年目となり、
記念旅行と称して北東北地方の青森県の一部を9泊10日間で周遊した時、
酸ヶ湯温泉に宿泊して、周辺を散策した。

そしてこの年の12月になると、酸ヶ湯温泉の近くの蔦(つた)温泉などで8泊9日で訪れたりして、
酸ヶ湯温泉に寄ったりした。
そして豪雪地帯と聞いたりしていたが、バス停の近くのトイレは、雪の中に埋まり、
私は館内の売店が買い物を終え、路線バスのバス停に戻るまで、私たち夫婦は積雪の高さに驚いたりしていた。

このようなささやかな思いもあり、今回の積雪が5メートル以上に、
少なくとも酸ヶ湯温泉の館内のスタッフ、青森市から十和田湖までの道路を管理する自治体の関係者など、
労苦は大変だなぁ、と感じたりした。


今朝の10時過ぎ、ぼんやりと昨夜の夢がおぼろげながら、思いだされた・・。


私は思い込みが強く深く感じる為か、このような自宅の近くに流れる野川の遊歩道で、
昨年の春の3月下旬の情景が、ひとつの夢の中の情景となった。


そして続いて、このような野花の情景となり、
平素は週に少なくとも2回ぐらいは、この野川の遊歩道を散策して季節のうつろいを享受しているが、
つたない私でも、心の片隅みでは春を待ち焦がれているのかしら、と目覚めて4時間後に微苦笑したりした。

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八重山諸島きまぐれ周遊記《13》 最終章 旅の終りは『八島人工島公園』 

2013-02-21 16:00:38 | 
     最終章 旅の終りは『八島人工島公園』

2月16日(土)
私たちは旅路も最終日を迎えて、石垣空港で午後6時前の航空機で離陸するまで、
それまでの間、どこで過ごそうかと話し合ったりした。

たまたま今回の旅は9泊10日となり、滞在したホテルは市内の中心街にある『ホテルグランビュー 石垣』であり、
              

大通リの四つ角のひとつにあり、正面に視えた四つ角のひとつには、『730』記念碑があり、
             

もうひとつの角は食事処であり、残りの角は廃店となり、この交差点は通称『730交差点』と称されている。

私は朝夕、ときには夜も、この交差点を眺めていると、石垣の銀座四丁目だ、と家内に言ったりしてきた。

竹富島(たけとみじま)、西表島(いりおもてじま)、小浜島(こはまじま)、
新城島(あらぐすじま)、黒島(くろしま)、波照間島(はてるじま)、鳩間島(はとまじま)の八重山諸島の船の発着が集結された
離島ターミナルに近く、
石垣島の名所めぐりに、バスで周遊するにはバスの発着の基幹のバスターミナルにわずかでありし、
繁華街の『公設市場』を中核とした食事処、衣服店、お土産売り場などを含めて、
高齢者がゆっくりと歩いて10分足らず行ける利便性のあるホテルであった。

私は家内のボディガード、そしてお供で幾たびに滞在中に通ったり、
疲れたら『公設市場』の休憩所で座ったりしていた。
               

或いは離島ターミナルに近い『手作り館・工房海美人本店』の横にある『お菓子のマルシェ』に入店して、
お菓子などは婦女子の食べ物、と公言してきた私でも、
乙女が好感するシュークリームみたいな食べ物を最後まで食べて、家内は微苦笑してきた。
      

こうした中で、ホテルの横には、愛(いと)しき花に慰められたり、
               

そしてホテルの館内の可愛らしいマスコットに私は励まされた・・。
                   

今回の旅で、私が好感した居酒屋の『島の美食や「なかゆくい」』以外で、
食べ物に関して絶賛したのは、家内が旅行前に調べてきたカマボコ屋の『かみやーき小かまぼこ』であった。
やいやま大通りにある小奇麗な店で、カマボコの中におむすびとなったピパーズ、ポーポ、アーサーなどが美味しく、
私たちは幾たびか寄って、買い求めてきた。

そして私は街の食事処より良い、とホテルの部屋で、
軽食はもとより、二夜ばかり夕食代わりにビールを呑みながら頂いたりした。
こうしたことは旅先では、私としては異例なことであった。


石垣島の各名所も訪れ、離島の新城島(あらぐすじま)、小浜島(こはまじま)、竹富島(たけとみじま)も日中のひとときに訪れたり、
石垣湾の近くをサンセット・クルーズとして、生まれて初めてヨットに乗船したり、海中観光船に乗船したりしてきた。
こうした旅路を重ねたりしてきたが、
12日に偶然に訪れて、圧倒的に魅了された『八島人工島公園』に再訪しょう、と私は家内に言ったりした。

市内の中心街から外れた所に大きな橋があり、『サザンゲートブリッジ』と称せられている。
               

この橋の中心に石垣島を中心で、各離島が表示され、確か東京まで1970キロと明記されていた。

そして私たちは、やはり東京の郊外に住む私たちは、八重山諸島は遠い処だよねぇ、と家内に言ったりした。

この後、歩きだすとやがて海が視えた・・。
      

そして私たちは、東屋の中のベンチに座り、一時間ばかり海を眺めたりしていた。
過ぎし12日は快晴で、海の色あいも鮮やかであったが、曇り空の中では明晰が欠けるが、
周遊したきた日々の疲れもあり、静寂なひとときにやすらぎを感じたりした・・。

やがて私は名残りもあったが、この『八島人工島公園』に別れを告げた。
      

そして街中に戻り、ひとつの花に心を寄せたりした。
               

その後、私たち夫婦は航空機に身をあずけて石垣空港、そして那覇空港、やがて羽田空港で着陸し、
家路に向かったのは午後9時半過ぎであった。

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八重山諸島きまぐれ周遊記《12》 第11章 小浜島、竹富島の観光ツアー 

2013-02-20 21:42:31 | 
     第11章 小浜島、竹富島の観光ツアー 

2月15日(金)
昨日の日中、私たち夫婦はパナリ島と称せられる新城島の
『おもいっきり新城島散策&シュノーケリングツアー1日コース』に参加した・・。

私の事前の勝手な思いとして、私たち夫婦は、シュノーケリングはできないが、
その間の時間帯は、家内は波打ち際で貝を拾ったり、私は浜辺から観え情景をデジカメで撮ったりした後、
参加者の方たちと島内めぐり散策をすれば、良いかしら、と選定した。

そしてシュノーケリングをされる方たちは、若き男女の人たちと思い、
彼らの容姿を想像すれば、私たちも少なからず長ズボンの裾を膝ぐらいまでまくりあげて、
ビーチ・サンダルを履いて、波打ち際でたわむれなければ、バランスがとれないよねぇ、
と私は思いこみ、結果としてホテルの売店で少し高価なビーチ・サンダルを私たちは買い求めたりし、
私たちは夢を膨らました・・。

結果としては、私たちだけの参加となり、余りにもかけ離れていたので、困惑していた。

ホテルに帰館後、何かしら心身の露払いのようなお清めをしょう、と私は家内に提案し、
私たちが市内で最も魅了された居酒屋の『島の美食や「なかゆくい」』に、
11日(月)に続いて、ふたりだけの夕食兼や親睦会として、行った。

そして地魚、貝などを中核に私たちは食べながら、私は盛んにビールをお代わりしていた・・。

こうした時、明日はどこに行こうかしら、と話し合い、
これまでのツアーの3回も私たち夫婦だけの貸切も、少し寂しいじゃないの、
と私は家内に言ったりした。

そして小浜島は未知であり、竹富島は過ぎし18年前に訪れていたが、
結果として、『小浜島、竹富島の観光ツアー』に決定した。
もとより 竹富島は八重諸島の離島の中で、最も人気のある島で、多くの方と周遊できるかしら、
と私は家内に微苦笑しながら言ったりした。


そして15日、『小浜島、竹富島の観光ツアー』に参加する為に、
石垣港を朝の10時半に出港の30分前に離島ターミナルに私たちは着いた。

私は今回の旅路で幾たびか離島ターミナルに来て、馴染となったが、
旅の記念に離島ターミナルの情景を撮ったりした。
      

そして桟橋の情景も撮ったりした。
               

この後、予定通り観光船は小浜島をめざし着岸したら、
『島めぐり』ツアーとして、マイクロバスが待機して、案内人の誘導に基づいて、
小雨降る中を私たちは乗り込んだ。

そして私たち夫婦と同世代のご夫婦が、二組同行となったので、
安堵したことは事実であった・・。

50代の男性がドライバーをしながら、解り易い解説をして下さり、
さとうきび畑が広がるシュガー・ロードと称される一本路を走行したり、
或いはNHKのテレビドラマの『ちゅらさん』(2001年度上半期)のロケ地に、
この島は使われた、と解説して下さり、このドラマのロケ地を周遊したりした。

私はこの放送された当時は、サラリーマンの現役時代で多忙の身であったので、
無知であったので、せっかく案内して下さっても興味がなかったので、
周辺の情景を見たりしていた。。

まもなく50代の男性がドライバー兼案内人は、この島はハブが多く島民は困苦していたので、
有志の人が孔雀(クジャク)を放った所、孔雀(クジャク)は予測した以上に繁殖し、目的のハブは激少したが、
肝要な島民の農作物まで食べて、困っている、
確かに孔雀(クジャク)は表面上は美麗であるが、獰猛である、と話して下さったりした。

そして島民の勇士が、この孔雀(クジャク)を食べた所、まずくて二度と食べたくない、
と話して下さり、私は微苦笑したりした。


この後、昼食は星野リゾートの『リゾナーレ小浜島』で松花堂のお弁当を頂きながら、
私はビールを吞んだりした。
               

南国の優雅なリゾートホテルで、多忙な働いて下さる諸兄諸姉が、
休暇の時に数泊して、ゆったりと滞在するのに最適、と思ったりした。
このようなことを思い馳せたりすると、ビールのお代りをボーイさんに所望した。

そして島内を二か所寄った後、島内観光は終了となり、
私たちは小浜島の港に行き、そして観光船に乗り、小浜島に別れを告げた。
      
               
私たちの乗船は、小雨降る中を一路『竹富島』にめざした。
               

この後、『竹富島』の港ら接岸した直後、
グラスボートに乗船し、サンゴ礁と魚が遊泳している状景を家内たちは歓声を上げながら視たりしていた。

その後、島内観光の案内して下さる50代ぐらいの女性がワゴン型の車で待機していた。
そしてこの方の案内で、私たち3組の夫婦が導かれて、『星砂の浜』、街の中心街などを解説して下さった。
      

私は18年前の頃に家内と『竹富島』に来島してきたので、
      
さりげない実の花、サンゴ礁の石垣に咲く花に見惚(みと)れたりした。

この後、竹富島の桟橋で午後3時45分に遊覧船に乗船し、わずか15分で石垣港に帰港した。

小雨が降ったり止んだりして慌ただしい日中であったが、
マイクロバス、そしてワゴン型の車で、私たちは移動して観光ができたので、
ホテルでぼんやりと過ごすより、遥かに有意義だったわ、と家内は言ったりした。


                                       《つづく》
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八重山諸島きまぐれ周遊記《11》 第10章 パナリ島ツアー 

2013-02-20 09:47:13 | 
     第10章 パナリ島ツアー 

2月14日(木)

私たち夫婦が今回の旅を立案している1月下旬、家内が魅力ある観光ツアーがある、
と私に教えてくれた。

何かしらネットで八重山諸島のことを調べていたら、
こうした企画のツアーがあることを知った、と家内は言ったりしていた。
http://panari88.com/
☆【パナリ島観光(新城島)公式サイト】☆

そして私は、この公式サイトの『魅力』、それぞれの『ツアー』を見て、
家内と話し合い、結果としてはツアーとしては『おもいっきり新城島散策&シュノーケリングツアー1日コース』が、
最適かしら、と思ったりした。

私たち夫婦は、シュノーケリングはできないが、
その間の時間帯は、家内は波打ち際で貝を拾ったり、私は浜辺から観え情景をデジカメで撮ったりした後、
参加者の方たちと島内めぐり散策をすれば、良いかしら、と選定したのである。

そして今回の旅路の始めの7日、滞在するホテルに到着した後、
ホテルのフロントの一角にある観光専門スタッフにツアー参加を14日申し入れ、
やがてツアー施行と聞き、私たちは夢を膨らました・・。

その後、やはりシュノーケリングをされる方たちは、若き男女の人たちと思い、
彼らの容姿を想像すれば、私たちも少なからず長ズボンの裾を膝ぐらいまでまくりあげて、
ビーチ・サンダルを履いて、波打ち際でたわむれなければ、バランスがとれないよねぇ、
と私は思いこみ、結果としてホテルの売店で少し高価なビーチ・サンダルを私たちは買い求めた。

当日の14日、ホテルのロビーで私たち夫婦は午前9時少し前に待機していると、
30代前半の男性が現れ、やがてツアーの案内人と知り、送迎車で離島ターミナルまで行く間、
今回のツアー参加者は私たちだけと知った。

サンセット・クルーズ、そして海中遊覧船も私たち夫婦だけで、
今回も私たちだけとなり、私は微苦笑しながら、何となく悪い予感がしたことは事実であった。


この後、予定通り石垣港を観光船は9時半に出港し、西表島の大原港を経由して
新城島(あらぐすくじま)の上地島の港に着岸したのは10時15分であった。
この間、人気のある西表島までの乗客は100名前後であったが、
その後は上地島の港に向かう乗客は私たち観光客を含めて6人であった。

そして私たち夫婦は、今回の案内人の30代前半の男性に導かれて、
港から歩きだし、上地島の集落を見ながら、やがて一軒の家に着いた。
      

このように看板が明記された家で、案内人が庭にあるテープルに大きなパラソルを掲げた。
                

その後、今回のツアーはあなた方ふたりだけですので、ご自由に過ごして下さい、
浜に行くのでしたら、この先の路を歩いて下さい、
まっすぐな一本道ですから、15分ぐらい歩けば、浜崎という浜辺に到着しますから、
このような意味合いの言葉を案内人は私たちに言った。

そして私たちは、浜崎の浜辺をめざして、1キロぐらい路を歩いた。
               

やがて海が見えて、曇り空の中、白い砂浜が広がっていた。
     

そして家内は波打ち際で貝などを拾い、私は砂浜から周辺の情景を撮ったりした。
      

私はぼんやりと押し寄せる水色の波、そして前方の蒼い海面、そして波の彼方に視える西表島を見たりしたが、
私が想定していた今回のツアーと余りにもかけ離れていたので、困惑していた。

やむなく家内の貝を探している情景を見たり、白い砂浜を見たりしていると、
ひとつの歌を小声で唄いだした・・。

♪あした浜辺を さまよえば
 昔のことぞ 忍(しの)ばるる
 風の音よ 雲のさまよ
 寄する波も 貝の色も
【『浜辺の歌』 作詞・林古渓、作曲・成田為三】

かぼそい声で唄ったりしたが、余りにも人気もなく確かに静寂であるが、
少し寂しいじゃないの、と心の中で呟(つぶや)いたりしていた。

こうした中で2時間ばかり過ごし、パナリ島ツアーの休憩所に戻り、
昼食を頂いた後、案内人に導かれて島内を散策したりした。
そして高台から、島内の見れば、
               

この後、私たちは恋路ケ浜と称せられたお洒落な名前の浜に行き、2時間ばかり過ごした。
      

そして家内は相変わらず波打ち際で貝などを拾い、私は砂浜から周辺の情景を撮ったりした。
                

この後、午後4時過ぎにパナリ島と命名された上地島に別れを告げて、
石垣港に帰港したのは午後5時15分過ぎであった。


帰宅後の今、家内は波打ち際で拾った6つの貝、私はデジカメで撮った数多く写真・・
ぼんやりと私は見ながら、微苦笑している。

                                       《つづく》
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八重山諸島きまぐれ周遊記《10》 第9章 桃林寺、宮良殿内、八重山博物館 

2013-02-19 17:51:04 | 
     第9章 桃林寺、宮良殿内、八重山博物館 

2月12日(火)
海中観光船で私たちは、それぞれ心を充たされ後、街中の食事処で遅い昼食を頂き、
やはり『桃林寺(とうりんじ)』、『宮良殿内(みやらどぅんち)』、そして石垣市立『八重山博物館』を
訪ねるべきか迷ったりした。

今回の旅路の前に、少しばかり石垣島の歴史を学んできたが、
つたない私は理解できないことが多くあり、気楽な観光地を周遊して方が適切と思ったりした。

しかしながら帰宅後に、あすこを見ておけばよかった、と後悔するのも無念であり、
意を決して鑑賞することにした。

私たちは晴れ渡った少し熱さを感じながら、『桃林寺』をめざして街中を歩いた。
そして簡略な地図を頼りに着いた。


『桃林寺』は《・・石垣市にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は南海山。本尊は観音菩薩。
1611年鑑翁西堂の開山により創建された寺で、1771年には大津波の被害を受けている・・》
と解説されている。


私は寺院を恥ずかしながら鑑賞できる知識もなく、
本堂などの建物を短絡に見て、感じる程度しか持ち合わせいない。


そして境内を眺めて、退散した。


この後、『宮良殿内』を簡略地図を見ながらめざしたが、方向音痴な私たち夫婦は、
街中を彷徨(さまよ)い、何とかたどり着いたというのが実情であった。


そして息を静めて邸内に入り、鑑賞料を支払い、私たちは邸内を鑑賞させて頂いた。

この後、家内はご高齢の男性の解説して下さる方の丁重な説明を受けている間、
私は勝手に邸内の庭を鑑賞したりした。


私は旅路の前に解説を読んだりしてきた。
《・・殿内とは地頭職の者の邸宅の敬称であり、宮良殿内は首里の士族屋敷をまねた建築とされる。
宮良家8世の宮良当演が宮良間切の地頭職(八重山頭職)にあった嘉慶24年(1819年)頃に建造された。

琉球王国時代の住宅は、階級により厳重な規格があったため、
この住宅も八重山の頭職(かしらしょく)には不相応として、5回にわたって取り壊しを命じられたが従わず、
光緒元年(1875年)、検使の譴責により茅葺への葺替えが命じられた。

1893年(明治26年)には石垣島を訪れた笹森儀助が宿泊し、家屋や庭園は沖縄県下で希である、と記している。
1899年(明治32年)には再び瓦葺となった。

構造としては、462坪の屋敷を石垣で囲い、南面には四脚門と、瓦と土を積んだ仕切り屏(ヒンプン)がある。
ヒンプン中央の中門は、重要な祭事や慶事、凶事の際のみに用いた。

母屋はイヌマキを主材とした木造瓦葺・平屋建で、部屋数は12間。
一番座と呼ぶ客間の東側には、石灰岩などで構築した、
首里の庭師・城間親雲上の作という和風の枯山水庭園があり、国の名勝に指定されている。
・・》
このように解説されたことを思い馳せながら、やはりサンゴ礁を配置した素朴な庭・・この程度しか私には解らなかった。


この後、10数分ぐらい庭の樹木を見た後、この『宮良殿内』を辞した。

そして少し疲れを感じたので、石垣市立『八重山博物館』は明日に訪ねようと、
と私は家内に言ったりした。


2月13日(水)
私たちの滞在しているホテルから、数分先に石垣市立『八重山博物館』はあり、
私たちの指定された部屋から『八重山博物館』の建物は視えていた。

入館した後、私たちはそれぞれ鑑賞したが、私は昨日『宮良殿内』に訪れた為か、
『宮良殿内』の模型の展示品を見たりした。


そして、精密な建物の縮図品を眺めたりした。


この後、近世代の布地が展示され、無知な私は見たりした。


そして無念ながら知識もなく、こっそりと解説を見て、これが『芭蕉布』か、
と拙(つたな)い私は教示された。














このように初めて学び、こうした布地で仕立て上げたのか、と多々教示された。

この『八重山博物館』は、「考古・歴史」、「美術・工芸」、
そして「民俗」のテーマに沿った文化財資料の収集や展示されているが、
私はこのくらい学べば充分であり、これ以上は知恵熱がでるので、退館しょうと、
家内を待ちわびたりした。
                                       《つづく》
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八重山諸島きまぐれ周遊記《9》 第8章 海中観光船に乗船すれば

2013-02-19 12:39:25 | 
     第8章 海中観光船に乗船すれば

2月12日(火)
午前中のひととき、私たちは石垣港のはずれにある《サザンゲートブリッジ》を渡り、
その先に広大な公園が視えて、そして公園の先は海辺の情景が拡がり、
圧倒的に魅了された・・。

この後、市の中心街に戻り、離島タミーナルに行った。
この離島タミーナルは、竹富島(たけとみじま)、西表島(いりおもてじま)、小浜島(こはまじま)、
新城島(あらぐすじま)、黒島(くろしま)、波照間島(はてるじま)、鳩間島(はとまじま)の八重山諸島の船の発着が集結された
利便性のある処であり、いつも住民、観光客で賑わっている所でもある。

そして後日、私たちは新城島(あらぐすじま)に訪れるので、船の入港、出港を眺めたりしていた。

こうした中で左岸に海中観光船と風変わりな観光船が観えて、
何かしら船内の下部が分展望室となり、サンゴ礁、魚が観ることができる、
と家内が観光バンフレットから私に伝えた。

家内はサンゴ礁、魚などを観ることが好き、私は石垣港の周辺を観光船から観ることができるので、
お互いに乗りましょう、と即時に合意し、乗船を申し入れた。

そして観光船に乗っても、船長の操縦する以外は、乗客は私たち夫婦だけで、
一昨日の10日にヨットでサンセット・クルーズを乗船した時も、乗客は私たち夫婦だけであったので、
『XXちゃん・・またもや貸切専用船のようになってしまったょ・・
何か船長に申し訳ないよねぇ・・』
と私は微苦笑しながら家内に言ったりした。
       

そして船室の一部に、定員52名、と明示版を私は見て、どうみても採算度外視だ、
と私は苦笑したりした・・。

そして私は船室の椅子に腰かけて、海を眺めたりしていた・・。
               
こうした時、船室のスピーカから歌が流れた。

BEGIN(ビギン)の『島人ぬ宝』、夏川りみの『涙そうそう』であり、
そして喜納昌吉の『花』、宮沢和史の『島唄』、そして吉川安一さんが作詞された『芭蕉布』が聴こえた。

私は沖縄に旅をした時、最も魅了された歌は、恥ずかしながら『芭蕉布』であった。
こうした旅先の海上の情景を見ながら聴いたりすると、
高音も素敵な女性歌手に導かれるように、私はかぼそい声で唄ったりした・・。

♪海の青さに 空の青
 南の風に 緑葉(みどりば)の
 芭蕉(ばしょう)は情(なさけ)に 手を招く
 常夏(とこなつ)の国 我(わ)した島沖縄(うちなー)
【 『芭蕉布』 作詞・吉川安一、作曲・普久原恒男 】

この間、家内は船内の下部が分展望室で、サンゴ礁、魚が観に行っていたので、
音痴の私でも、続いて二番、三番をかぼそい声で唄ったりした・・。

やがて観光船は石垣港に帰路に向った。
               

そして桟橋に戻ると、私は海上の情景と好きな歌ばかりで少し高揚していたので、
船長に記念として写してもよいかしら、
と承諾を得た後、逆光でも一葉を撮ったりした。
               

                                       《つづく》
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八重山諸島きまぐれ周遊記《8》 第7章 サザンゲートブリッジの先は美景

2013-02-19 08:48:15 | 
     第7章 サザンゲートブリッジの先は美景

2月12日(火)
今回私たちが7日に石垣空港から滞在するホテルにタクシーで向かう途中で、
大きな橋が石垣港のはずれに架かっていて、その先は何かしら、と気になったりしていた。

いつも賑わっている市内の中心街の離島ターミナルの桟橋からも見られ、
たまたま市内の郊外を散策し、この大きな橋を歩いてみよう、と私たち夫婦は話し合ったしてきた。

幸いに晴れ渡ったこの日に、滞在しているホテルの前から私たちは歩きだした。
               
市内の中心街からはずれ、港の片隅のひとつを歩いたりした。
      

やがて大きな橋が見えて、
               
まもなく大きな橋に登る階段が見え、私たちは階段を上がりきると、
橋の中核に広い道路、両肩沿いに歩道があり、この歩道からは埋め立ての整備された所が一望できた。
そして、この大きな橋は、《サザンゲートブリッジ》と命名されていることを知った。

やがて《サザンゲートブリッジ》を渡りきると左前方に、広大な公園が視えて、
海辺の状景が観られるかしら、と私たちは足を向けた。

そして公園の先は海辺の情景が広がっていた・・。
               

この後、近くに八重山、沖縄諸島に観られる東屋があり、
私たちは休息も兼ねて木のベンチに腰かけたりした。
               

そして前方は海が大きく拡がり、彼方まで一望でき、
海を観る展望台でもあり、私たちは瞬時に魅せられて、長らく見つめていた・・。

やがて私たちは公園の歩道を歩きだし、魅了された海を観る展望台の東屋を振り返ったりした。
               

そして園内の片隅まで歩いたりしていると、
               
この公園は、《八島人工島公園》と知った。
八島は地域名であり、この周辺は今でも埋めてて整備されているが、
《人工島公園》の命名では、美麗な公園に相応しくなく、余りにも痛々しく感じたりした。

しかしながら東屋の付近から観た海の圧倒的な美観は、
数多くの人たちに至福のひととき享受できるので、公園名はどうでも良い、
と私は苦笑しながら微笑んだりした。

そして今回の旅路で、もう一度訪れたいなぁ、と思いながら、この公園を立ち去った。
                                       《つづく》
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八重山諸島きまぐれ周遊記《7》 第6章 自然村を訪ねて

2013-02-18 17:18:50 | 
     第6章 自然村を訪ねて

2月11日(月)
昨夜の10日、私たち夫婦は八重山の植物が集約された『八重山自然村』を知り、
本日訪れようと話し合い、バス・ターミナルからの路線バスでわずか12分足らずで、
最寄りのバス停車で下車した。

大きな門には、『八重山自然村』と明記されていたが、台風を受けたせいか『八』の字が欠けて、
               
私は家内にお気の毒、と言ったりした。

そして開かれた道は直線400メートル前後を歩いた先に、大きな樹があり、
      
その近くに館があり、入園料の購入売り場の近くに、動物好きな家内は『エサ』を買い求めたりした。

何かしらこの『八重山自然村』は、古来からの数多くの植物はもとより、
ウサギ、サル、アヒル、ニワトリ、カメ、ブタなども園内のコーナーにいるらしく、
家内は植物を素早く鑑賞しながら、この動物に盛んにエサを与えたりしていた。

私はこうした動物は苦手で、ゆっくりと植物の数多い樹木を観ながら、散策した。
          

こうした小路を過ぎゆく時を友としながら歩くのは、私は好きである。
                    

そして簡素な東屋で休息していると、歌が聴こえてきた・・。
               
BEGIN(ビギン)の『島人ぬ宝』、夏川りみの『涙そうそう』のなどの歌であった。

私は今回の旅路の前に、もとよりBEGIN(ビギン)、夏川りみは、石垣島ご出身でなので、
程ほどに聴いたりしてきたので、ゆっくりと時が流れる簡素な東屋で座って聴き惚れていると、
やはり八重山の情景が想い重ね、
こうした植物の中、より強く旅路の思いが心に沁みてきた・・。

こうした中、『涙そうそう』の歌に関して、
作詞・森山良子、作曲・BEGIN(ビギン)であることは5年前の頃から、遅ればせながら知っていたが、
《・・森山良子が、ライブで共演したBEGIN(ビギン)と意気投合し、沖縄の曲を依頼した。
BEGIN(ビギン)から送られたデモテープのタイトルに書いてあった「涙そうそう」は、
沖縄の言葉で「涙がぽろぽろこぼれ落ちる」という意味であると聞き、
森山良子が若くしてこの世を去った兄を想う歌詞をつけた・・》
と学んだりした。

或いは三人で構成されているBEGIN(ビギン)のメンバーは、同級生で、
夏川りみの姉がBEGIN(ビギン)のメンバーと同級生の間柄で、
こうした関連からは森山良子、BEGIN(ビギン)、夏川りみの3組は、
何かとコンサート、歌の番組などで出演が多いと知ったりした。

このようなことを思い重ねて、BEGIN(ビギン)の『島人ぬ宝』、夏川りみの『涙そうそう』のなどの歌を
聴いたりした・・。

そして付近にあるスピーカーがあり、館内から歌を流していることが、
この後、知ったりした。


この後、私は園内の樹木をゆったりと観たりし、歩道のはずれを見ると、
あえて放置された情景を見て、この周辺の自然の情景は、こうした景観だったろう、
               
と深く学んだりした。

そして私は小さな花を眺めて、野に咲く花、瞬時に魅了され、
               
家内と待ち合わせている場所に急いだ。

                                       《つづく》
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八重山諸島きまぐれ周遊記《6》 第5章 サンセット・クルーズ、初めてヨットに乗船

2013-02-18 13:48:15 | 
     第5章 サンセット・クルーズ、初めてヨットに乗船

2月10日(日)
私たち夫婦は昼過ぎまで、 陽射しを燦々とする中で、川平湾の風光明媚な情景を観たり、
食事処のサンテラスで、バラソルの下で私は煙草を喫いながら、ビールを呑んだりし、至福のひとときを過ごしたりした。
家内はトロピカル風のジュースを飲んだりして、前日までの不安定な天候の中、
雨時々曇り、ときおり風強しが多く、苦い日々を過ごしてきたので、お互いに爽快の時を共にした。

この後、路線バスを利用して、石垣市の街中を散策したし、喫茶店のような所で休息していた時、
『XXちゃんさぁ・・夕方に《サンセット・クルーズ》ツアーの追加をしてみない?』
と私は家内に問いかけた。

私たちが滞在しているホテルのフロントの一角にある観光専門スタッフが常駐しているが、
初めて到着した7日の夕食後に、このコーナーの横にある観光ツアーのパンフレットで、
《サンセット・クルーズ》を知り、私たちは瞬時に魅了されて、
このスタッフの方に13日の水曜日のツアーを申し入れ、やがて確定した。

しかしながら《サンセット・クルーズ》は、夕陽に恵まれないと意味はなく、
私たちは今回の旅路で、何かと雨時々曇りで、ときおり風も強い、
淡き陽射しが射したら、まもなく曇り、小雨となり、本日が初めて陽射しが安定した日であった。

このような状況であったので、天候か観光オプション・ツアー施行先の事情で中止も考えられるので、
私は家内に言ったりしたのである。

そして家内は承諾し、やがては観光専門スタッフに急遽本日の追加を申し入れ、
結果としては本日の午後6時から7時半の《サンセット・クルーズ》となった。

私は過ぎし55歳のサラリーマンの現役時代に於いて、会社でハワイ旅行が施行され、
私はオプションのひとつとして《サンセット・クルーズ》に参加したが、
大きな観光船の上、何よりも曇り空で無念の思いの体験があったりした。

私たちは午後5時過ぎに、ホテルのロビーで待機していた時、
何かしらヨットで《サンセット・クルーズ》と聞いていたので、
私たちのような観光の乗船客は6名前後かしら、と私は家内と談笑していた。

まもなく欧米人のような方で細身の長身の容姿の40代の男性が、
私たちの近くに来て、
『XXさんですか? 私が本日の《サンセット・クルーズ》担当するXXXXです』
と私に日本語で挨拶した。

私は観光ツアーの方は日本人の男性で船長のアシスタントの若き男性を想定していたので、
少し驚いたが、家内は全く予測していなかったので驚いた、と後で私に言ったりした。

そしてこの欧米人風の男性に導かれて、送迎車に乗り、やがてヨットが係留されている桟橋に行った。

やがてアシスタントもいなく、この欧米人風の男性がたった独りで操縦、案内人と知り、
私たちは最後部の椅子席に腰かけた。
               
私たちか何よりも驚いたのは、乗客の観光客は私たち二人だけで、
貸切船で贅沢この上もなく、と私は感じたりした。

そして桟橋を離れて、海上保安庁の巡視船(?)が視られると、
        
『何かとお忙しくて・・大変ですねぇ』
と操縦士兼案内人の欧米人風の男性は私たちに言ったりした。

まもなくして私は、
『海がお好きなようで・・ヨットの経歴は長いのですか?』
このような意味合いの言葉を操縦士兼案内人の欧米人風の男性に重ねた・・。

『私は(アメリカ)テキサスの北部の生まれで・・20歳の少し前にヨットに魅せられました・・。
そして1997年から・・この地で《サンセット・クルーズ》しています』
とこのアメリカ人の40代の方は言ったりした。
                
私は若き頃からヨットに魅了され、各国の海をヨットでクルージングされ、
やがてこの石垣港で、《サンセット・クルーズ》ツアーを施行された、と知った。
       
そして私は映画の『ジャイアンツ』(1956作品)でテキサスの時代の変貌、
或いは『大いなる西部』(1959作品)で牧場の経営者の娘の婚約者が、
初めて広大な牧場に訪れ、牧童頭に案内される時、
「この牧場は広いだろう・・」と言われて、
「海の方が広いょ」と婚約者の海の男が応えたシーンを
アメリカ人の40代の方に映画のタイトル、主演のスターを英語で話しかけたりした。

やがて私たちは、たまたま同じカメラ、そして住んでいる処の思い、家族のことなども含めて、
親睦を深めて談笑した。
               
                  そしてご当人の承諾を得て、私は記念に撮った。

この後、海をこよなく愛し、少し寡黙な男を《ヨットマン》と秘かに名付けたりした。

そして私たち三人は移ろう時の海上の波、夕暮れの陽射し、雲の流れを見つめたり、
        
こうした中で、私の好きな光景のひとつは。
     
その間に、私と《ヨットマン》デジカメで情景を撮ったりした。

このような光景は、海上のヨットの低い角度から、初めて撮れる一葉と思ったりしている。



                                       《つづく》
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