夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

脳梗塞の予防にも効果 安くて栄養豊富な『サバ缶』、遅ればせながら『サバ缶』の効力を私は学び、やがて微笑み・・。

2018-05-31 13:39:20 | ささやかな古稀からの思い
 先程、長らく愛読しているネットの【NIKKEI STYLE】を見ている中で、
『 脳梗塞の予防にも効果 安くて栄養豊富なサバ缶レシピ  』と見出しを見たりした。

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

こうした中で、食事に関しては、私は牛肉、豚肉、鶏肉、ラム肉などの肉類が大好きで、
その日の夕食に応じて、愛食している。

魚類に関しては、50代の頃までは、ときおりイワシ、アジなどの青魚を食べたりしてきたが、
定年退職後の年金生活を始めた頃、私は幼年期に農家の児として育った為か、魚特有の生臭さを敬遠し、
せめて外食の時には、焼き魚を食べたりしてきた。

或いは近所のお寿司屋さんより、三週間に一度ぐらい配達してもらい、
私は家内と共に食べたりしてきた。

こうした中、私は友人と居酒屋で談笑する中、
青魚を食べないと、何かしら身体によくない、と私は教えられたりした。

            

まもなく家内が日頃愛用しているある味噌メーカーに味噌を通販で注文し、
やがて予定通り配達された中に、ひとつのサバ缶が添付されていた。
ご賞味頂ければ・・と添え書きが明記されていた。

そして私は、このサバ缶を食べた瞬間、サバ特有の匂いが、味噌煮に消されて、
何かと味噌味が大好きな私は、この味噌メーカーのサバ缶に魅了されて、
これ以来、私の朝食の友のひとりとなって、ほとんど毎日一缶を頂いて、7年が過ぎている。

しかしながら身体によい、と漠然としながら愛食してきたが、具体的な効力は無知だったので、
『 脳梗塞の予防にも効果 安くて栄養豊富なサバ缶 』のフレーズに誘惑させられて、
記事を読んでしまった・・。

            

この記事は、【NIKKEI STYLE】の2018年5月30日に配信され、
記事の前半部分を無断ながら転載させて頂く。

《・・サバ缶の人気が高まっています。
安さに加えて、昨年秋ごろからテレビ番組で取り上げられることが増え、
高い栄養価も広く知られるようになったのが人気の背景。

下処理がいらず、手軽に使えて和風でも洋風でも楽しめます。(略)

「青魚の王様」といわれるほど、栄養豊富なサバ。

管理栄養士の藤橋ひとみさんは
「サバには、良質な脂質が豊富に含まれており、
話題のオメガ3の一種であるEPA(エイコサペンタエン酸)や
DHA(ドコサヘキサエン酸)を効率よく取ることができます」と説明します。


EPA(エイコサペンタエン酸)は、血中のコレステロールや中性脂肪を減らして
血液をサラサラにしてくれる働きがあり、脳梗塞や心筋梗塞の予防をサポートするといわれています。

また、DHA(ドコサヘキサエン酸)は、
脳や神経の機能を助け、脳を活性化する働きがあることがわかっているそうです。


「サバは劣化が速く、DHA(ドコサヘキサエン酸)やEPA(エイコサペンタエン酸)は、
酸化しやすい性質があるので、新鮮なうちに調理をすることが大切。

サバ缶は、近年の加工技術の発達により、新鮮なまま調理加工がされているため、
実は生のサバよりも、栄養価が高い傾向にあります。
下処理の手間もかからず、とても便利に使えます」と藤橋ひとみさん。


サバに含まれる栄養はEPA(エイコサペンタエン酸)やDHA(ドコサヘキサエン酸)以外にも、
カルシウムの吸収を助けるビタミンDや、貧血予防・改善に役立つビタミンB12などいろいろあります。

ただしサバに限らず、なんでも食べすぎは逆効果。
サバ缶の場合、食べすぎるとカロリーや塩分の取りすぎになってしまうので、
ひとり1日1缶までを目安に取るとよいそうです。(略)・・》


注)記事の原文をあえて改行を多くした。
            

私は記事を読み終わった後、サバ缶の効力・・三か条を学んだ。

第一条《・・血中のコレステロールや中性脂肪を減らして、血液をサラサラにしてくれる働きがあり、
    脳梗塞や心筋梗塞の予防をサポートする・・》

第二条《・・脳や神経の機能を助け、脳を活性化する働きがある・・》

第三条《・・カルシウムの吸収を助けるビタミンDや、貧血予防・改善に役立つビタミンB12などある・・》

            

私は確か5年前の頃に「ピンピンコロリ」は難しい、とネットの記事で学んだりした・・。

がん医療の権威で終末期医療に詳しい大野竜三医師(愛知県がんセンター名誉総長)は、
『・・ピン・ピン・コロリ。それは中高年なら、誰もが願う生き方でしょう。
でも、そう簡単なことでは、ありません。

現実的に60歳以上の日本人がコロリと逝くとしたら、心筋梗塞か、脳出血か、脳血栓かと思いますが、
救急搬送されれば、救命措置が施されるでしょう・・』
と私は学び、苦笑したりした。
          
そして『急性心筋梗塞』の場合は、《“バットで思い切り、胸を叩かれた感じ”、
“熱した鉄棒を、左胸のあたりに、突き刺されたみたいだった”と口にしていた。
・・手足をバタつかせて、もがきながら、救急車内で搬送中に、心肺停止するケースもありました」・・》

このようなことを学び、何かと小心者の私は、動顛しながら勘弁してほしい、と思ったりしてきた。

ここ数年は会社時代の少し先輩、或いは後輩の68歳が、いずれも大病で入退院を繰り返した後、この世を去ったり、
ご近所の私と同世代の知人が、突然に脳梗塞で死去されて、数か月の先は誰しも解らない、冷厳なこの世の実態に、
私は震撼させられたりしてきた・・。

                                  

こうした中、私は殆ど毎日、我が家の3キロ範囲にある遊歩道、公園などを散策し、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
ひたすら歩き、ときおり大股で歩いたり、或いは足早に歩くことが多くなっている。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、

歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフ健康体の三種の神器として思い、やがて信愛を重ねて過ごしている。


今回、遅ればせながらサバ缶の効力を学び、愛食している私は微笑んだりした。

そして今後も愛食して、
第一目標として、今年の9月の誕生日に74歳、その後は何とか75歳を迎えたいなぁ・・
と思い深めたりしている。

私の念願として、80歳の誕生日を心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命で迎えられたら、
と時折祈願する時もある。

こうしたことは、もとより自助努力も欠かせないが、こればかりは仏様か神様が采配することだよねぇ・・、
と何かとプラス思考の私でも思ったりしている。
コメント (4)
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物忘れに効く、脳によい生活の送り方、高齢者の男性の私でも、こっそりと学び、やがて微笑み・・。

2018-05-30 15:25:51 | ささやかな古稀からの思い

先程、長らく愛読しているネットの【NIKKEI STYLE】の『ライフ』コーナーを見ている中で、
『 物忘れに効く、脳によい生活の送り方 』と見出しを見たりした。

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、
私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごして、早や14年目となっている。

こうした中、
私は65歳の頃から体力の衰えを実感させられたり、恥ずかしながら70歳を過ぎた頃から
物忘れが多くなった、と改めて気付き、
独り微苦笑する時もある・・。

たとえば家内とテレビの旅番組を共に視聴したりしている時など、
あそこも行ったよねぇ、と私は家内に言ったりした時、その地の情景などは鮮やかに重ねることができても、
肝心の地域名が言葉に出来ないことが、もどかしさを感じることがある。

こうした深情を秘めている私は、『 物忘れに効く、脳によい生活の送り方 』を学ぼうと思い、
クリックして、記事を開いてしまった・・。

                         
        
             
そして驚いたことには、【NIKKEI STYLE】の中に初めて見る【WOMAN  SMART】が、
明示されて『ライフスタイル』の中のひとつと判り、女性専用の記事と知り、溜息をしてしまった・・。

やがて女性専用の記事だって、『物忘れに効く、脳によい生活の送り方』は、男女、そして年代を超える課題であり、
こっそりと私は学ぼうと、記事を読み始めたりした・・。

この記事の原文は、『日経WOMAN』2015年11月号増刊の『日経WOMANsoeur』の記事のひとつであり、
ライターの佐田節子さんが再構成されて、関連の基幹サイト【NIKKEI STYLE】に於いて、
2015年12月15日に配信されていた。

そして少し古い記事であるが、物忘れに関しては、すべて時空を超越するょ、
と私は思い、
無断であるが記事の大半を転載させて頂く。
 

              

《・・40代から自覚が増えてくる「物忘れ」は、実は更年期によくある症状のひとつ。
物忘れへの対策をとれば、将来の認知症の予防にもなり、一挙両得です。

脳によい生活の送り方を専門家に聞きました。

更年期の物忘れは、工夫次第で、十分に対応可能だ。
物忘れが多くなったと嘆くだけでなく、攻めのアクションを取ること。
これが脳を元気にするコツといえそう。

「更年期の物忘れの中心は、脳の『ワーキングメモリ』の機能の低下ですが、
これは脳によい生活を送ることで、比較的簡単に回復させることができます」
と話すのは、TVでもおなじみの脳科学者で人間性脳科学研究所所長の澤口俊之さん。

ワーキングメモリは、「作業記憶」と呼ばれるもので、
会話や料理、計算、予定などいろいろな作業や目的を遂行するために、
一時的に記憶したり、記憶を引き出したりする機能のこと。

「その機能をできるだけ多く使うこと、そして運動や食事で脳を守り、鍛えることが重要。
更年期の物忘れ対策も将来の認知症予防も、結局やるべきことは同じですから、
脳にいい生活習慣を今から身に付けておくことをおすすめします」(澤口さん)

              

■対策1 運動

体にも脳にも効果 ちょっときつめのウオーキングを

「物忘れ対策のイチ押しはこれ」と澤口さんが太鼓判を押すのが、ウオーキングなどの有酸素運動。

「認知機能を改善させたり、認知症を予防したりすることが、いくつもの研究から明らかになっています。
ウオーキングで、認知機能テストの点数がアップしたという報告もあります」と澤口さん。

運動をすると体全体の血流がよくなり、脳を巡る血液量も増える。

ワーキングメモリの中枢である「前頭前野」や記憶を司る海馬は、
もともと血液量が特に多い場所なので、血流が低下すると、老化も進みやすくなるそう。
それを防ぐためにも、日常的な運動が欠かせないのだ。

「いろいろな研究結果を総合的に判断すると、多少汗ばむくらいの早歩きを1回20分程度、
週に3回以上続けるのが効果的。
エアロビクスなどの有酸素運動でもOKです」(澤口さん)

また、日光を浴びて、運動するとより効果的。
「光を浴びると、認知症の発症率を下げるビタミンDの合成が促されます。
ビタミンDには、うつ病のリスクを下げる効果もあるので、
日中の屋外でのウオーキングをぜひ習慣化して」と澤口さん。

              

■対策2 食事

ビタミンDやベリー類、コーヒーは認知機能に効果あり

生活習慣病を防ぐようなバランスのよい食事が基本だが、
個別の食品や栄養素の効果も明らかになっている。

「近年の研究で、認知機能への効果が確認されているのは、
コーヒー、ブルーベリーなどのベリー類、ビタミンDが代表的です」と澤口さん。

コーヒーは、カフェインが脳によいそう。
1日1杯以上飲むと、認知機能の低下が約半分に抑えられたという報告も。

「飲む目安は1日1~3杯程度。
ただし、甘くしすぎてはダメ。
過剰な糖分は、ワーキングメモリの機能をを下げてしまいます」(澤口さん)

イチゴやブルーベリーは、抗酸化作用が、認知機能にプラスに働くそう。
またビタミンDは、不足すると認知機能の低下が早まるという報告がある。
魚を積極的に食べたり、日光に当たったりしてビタミンDをしっかり補おう。

最新の研究では、腸内細菌と認知機能との関係も指摘されているという。
「脳のためにも、腸内環境をよくしておくといいでしょう」(澤口さん)

              

■対策3 会話

人と話す、孫の世話をする 孤独は脳の大敵

脳の機能を低下させないためには、脳を使うに限る。

その代表がコミュニケーションだ。
「友人や家族との会話は、とても重要。
ワーキングメモリを存分に使いますから、脳も自然と活性化します。

また、孫の面倒を見ることが、女性の認知機能アップに貢献するという報告もあります」と澤口さん。

ほかにも、本を読んだり、旅に出たり、いろいろな体験を積んだりすることも大切。
これらは「認知的蓄え」と呼ばれ、多ければ多いほど、認知症になりにくいともいわれている。


一方、よくないのは、孤独。
一人で、ぼーっとするのは、脳の大敵。

「人間は社会的な動物ですから、人と交わるのが基本。
人と直接話すのはもちろん、フェイスブックで、たくさんの友人と交流したりすることも、
脳にはよい刺激になります」(澤口さん)・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

              

私は定年後に、多々の理由で年金生活を始めたりした・・。

そして定年前のサラリーマン時代の私は、数多くの人たちと同様に多忙で、

家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買物、料理、掃除などの家事で、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた。
         
そして定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩すのは天敵と確信し、
平素の買物専任者を自主宣言したりした。

そして家内から依頼された品を求めて、自動車も所有できない我が家は、
私は独りで歩いて7分前後にある最寄のスーパー2店か、
或いは最寄駅まで15分前後歩いて、数多くスーパー、専門店で買い求めたりしている。

最寄駅までは、利便性ある路線バスは頻繁に走行しているが、季節のうつろう情景を眺めたり、
歩くことは何よりの健康の源(みなもと)と信愛している私は、原則として路線バスに頼らず、
ひたすら歩いて往還している買物メール老ボーイとなっている。

帰宅後、やはり私は独りで、我が家から歩いて3キロ範囲にある遊歩道、小公園を散策をし、
四季折々の季節のうつろいに心も身もゆだねている。

こうした根底として、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
ひたすら歩き、ときおり大股で歩いたり、或いは足早に歩くことが多くなっている。

                         

やがて帰宅後、昼食だけは、お互いに制約することなく、自由な時間で、
お互いに殆ど我が家で、きままに食べたりしている。

そして午後の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

このような年金生活の一日を定例事項のように過ごしてきた・・。

              

例外として、家内のボディガード、お供そして荷物持ちで、3週間に一度ぐらい駅前で買物、
或いは年に3回ぐらい都心の新宿にある伊勢丹、小田急、京王などのデパートに買物、
そして庭の手入れ、国内旅行、懇親会、冠婚葬祭などで小用がない限り、定年後の13年半を過ごしてきた。

そして家内は、ときおり家内の母宅に介護に6泊7日前後で行き、我が家は私が『おひとりさま』になるが、
殆ど平素の日常生活と変わらないで、過ごしたりしている。

              
  

私は亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖におしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

そして私は、遊歩道、公園などを散策していると、見知らぬ男性、
女性グループの御方たちと、話しかけられたり、或いは話しかけたりして、談笑し、
殆ど毎日過ごしている。

或いは、知人とか友人と時折お逢いする時は、しばらくねぇ・・、と私は笑いながら逢ったりして、
日中はコーヒー、夕暮れからはビールか水割りのウィスキーを飲みながら、談笑をしたりしている。

ときおり国内旅行を私たち夫婦は幾たびか重ねてきたが、
旅先でも、私は食事処、ロビーなどて隣席した見知らぬ方でも、話しかけて談笑したりしている。
                          
こうした中で、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

              

今回の『物忘れに効く、脳によい生活の送り方』に於いて、対策として運動、食事、会話の三か条を学び、
多々教示されたりした。

そして食事の中で、イチゴ、ブルーベリーは家内は好きで良く食べているが、
私は殆ど食べていないことに、苦笑したりし、これ以外は殆ど合格かしら、と微笑んだりした。

しかしながら、この世はまさかの出来事もあるので、私はやがて物忘れが多くなり、
いつの日にか認知症になることを恐れているので、
初心に戻って、運動、食事、会話の三か条の実践を深めて、第一目標として、
何とかボケないで後期高齢者の入門75歳を迎えたいなぁ・・と思い深めたりしている。
コメント (2)
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私のブログの投稿文、丸13年半が過ぎて、早や14年生に進級し、独り微苦笑して・・。

2018-05-29 14:25:47 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、
私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごして、早や14年目となっている。

過ぎし2004年(平成16年)の秋、私は民間会社の中小業のある会社に35年近く勤めて、定年退職となり、
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

そして遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。

            

そして年金生活を始めてまもない時、偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、
私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。
 

この本は『はじめよう! みんなのブログ』(インプレス)と題された、
別冊インターネット・マガジンであった。
     
そしてブログの世界は、多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
それぞれの御方が自由に、私生活の出来事から、政治、外交、軍事、経済、社会などの分野まで表現でき、
日本でも2002年(平成14年)の頃から急速に普及し、
誰でも発信できる人類史上初めての時代が到来している。

この少し前の時代は、もとより各専門知識のある有識者が、雑誌、新聞などに寄稿文を掲載することができる時代で、
私のように無名で素人の身は、せめて新聞・雑誌などの読者コーナーで、記事を投書できる範囲であり、
そして掲載の判断は、編集部の意向で決められていた。

こうした結果として、私は自在に私の生活のことから、政治、経済、社会などに専門知識がない私でも、
私なりの思いを発露でき、何よりブログはホームページより手軽に開設、運営できると感じ、
ブログに加入しょうと決意した。

                      
        
そして2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入し、
早や丸13年半が過ぎて、14年生を迎えている。

しかしながら、この後、2つばかりのブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)1月19日に加入したりした。

そして、この後に他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり【gooブログ】を中断したが、
2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    
       
このような軌跡で、ブログの世界を知って丸13年半が過ぎて、早や14年生に進級し、
結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。

                 
                                                               
こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

或いは年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
                    
私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、
そして年金生活の日々の心情を脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、
あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。

そして恥ずかしながら数多くの駄文を綴ってきたが、
ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。

              

こうした中で、投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。
或いは6年半前の頃から、何とか写真を添付することが出来たので、

乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。

そして私の投稿文の最初の一行に於いては、殆ど私の住んでいる地域を明記している。
このことは私が投稿文の中で、散策、買い物したりする場合、日本のどの地域なのか、
初めて読んで下さる方に理解して頂く為である。

         
私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、真摯に、ときには楽しく綴ることもあるが、
不勉強の為に筆力が乏しいながら、最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしている。

しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、読み返したする時、つたない綴りが多いので反省する時もある。

              

私はブログの投稿文を綴ることの内容は、誰しも光と影を有しているので、
つたない私でも、ときには書くことのためらう影の内容を秘めたりしている。

たとえば幼児の時は、何かといじけたことが多く、
やがて小・中学生は通信簿『2』と『3』の多い劣等生であったりした。

そして私は若き20代の前半に文学青年の真似事した時期、新人賞に応募し、
最終候補6作品の寸前で3回ばかり落選し、敗退したりした。

或いは母は生まれてまもなく里子にだされて、やがて成人して、
里子先で結婚されて、私たち兄妹の母親となったりした・・。

または次兄が自営業の資金繰りに失敗し、自室で睡眠薬を多量に飲み自裁した。

この当時の私は、住宅ローン返済で苦慮していたので、
次兄から私を資金に関しては無力と感じとられて、結果的には私としては何の役にも立てずにいた・・など、
私なりに心に秘めてきた屈折した出来事を、余すことないように投稿してきた。

こうした出来事のことは、小心者の私としては、匿名であることで初めて発露できたことであり、
心のわだかまりを吐露しなければ、私としては一歩先でも進めない時もあったりした。

                       

このような心のうめごきをリアルな現実の日常生活では、
たとえ私が言葉にしても、対人の受け止めることに困り果てることもある、と感じたりした。

小説、随筆などは、あくまで間接のワンクションンとして読者は受け止めることができ、
ブログの匿名で公開する内容も、ある意味合いに於いては同じかしら、と思ったりしている。

このような理由も重ねて、私はここ11年近く、発信名は『夢逢人』と命名したりした。

私の綴ってきたことは、まぎれなく私の知る限り真実を発露してきたので、
リアルな現実でお逢いするのは、私の心の裸身を見られたように恥ずかしく、
文字通り、夢の世界でお逢いしたいですね、と思いながら発信名の『夢逢人』としたりした。

            

こうした中、私のブログの内容に関しては、家内は一切知らないでいる。

居間の片隅にある机の上に固定型のディスクトップのパソコンがあり、
私は綴ってきたが、居間で家内はテレビを視聴したり、雑誌を読んだりしている時、
私が微笑みながら綴ったり、或いは真剣なまなざしで綴っていることは、知っている。

しかしながらどのような内容に関しては、感知することなく、今日に至っている。

もとより私は、自身が考えていること、或いはその日に感じた心の思いを綴ってきたので、
たとえ家内と寝食を共にしてきた結婚生活42年間でも、
家内の心の内面までを私が完全に理解していることは叶わない、と同じだよねぇ・・
と独り微苦笑する時もある。
       

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女優・吉行和子さんの人生航路の深淵、私は学び、数多くの人生の機敏を多々教示されて・・。

2018-05-28 15:47:52 | ささやかな古稀からの思い

昼過ぎ、ときおり愛読している朝日新聞社系の基幹サイト【AERA dot.】を見ている中、
【 吉行和子「結婚が幸せなものというイメージはなかった」 】と見出しを見てしまった。

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の73歳の身であるが、
若き20歳前後に文学青年の真似事を一時期していたので、
当然ながら作家の吉行淳之介さんの数多くの作品を読んだりしていた、

こうした中で、妹さんがふたりいて、やがて吉行和子さんは劇団『民藝』で女優さん、
もうひとりの妹の吉行理恵さんは作家となり、芥川賞を受賞され、私は購読したりしていた。

やがて私が50代の頃に、映画の作品に出演された吉行和子さんを鑑賞したり、
ここ10数年、テレビの番組に数多く出演された吉行和子さんに好感を増したりしている。

このような女優・吉行和子さんに関しては、余り詳しくないが、
何かと知的好奇心が強い私は、どのようなことですか、と思いながら精読してしまった。

              

この記事の原文は、週刊朝日が連載記事として、
《・・もし、あのとき、別の選択をしていたなら──。ひょんなことから運命は回り出します。
人生に「if」はありませんが、誰しも実はやりたかったこと、やり残したこと、
できたはずのことがあるのではないでしょうか。

昭和から平成と激動の時代を切り開いてきた著名人に、人生の岐路に立ち返ってもらい、
「もう一つの自分史」を語ってもらいます。・・》

こうした主旨で石原壮一郎が、今回は女優・吉行和子さんにインタビュされて、
『週刊朝日』の2018年6月1日号に掲載された記事で、
【AERA dot.】に於いて5月28日に配信され、無断であるが転載させて頂く。

              

■恋心ですか? 死ぬまで持っていたいですよ


やり残した夢や、もう一つの夢って、とくに思い浮かばないんですよ。
本当にいい職業を選んだなって。


今の年だから、できるという役が必ずある。
いつも新しいことができて、退屈せずに済む。
これから先、もっと年を取るんですが、その年の自分に合う役がくるって信じてます。


だから、ちょっとでも若い役をやりたいなんて思っちゃダメ。
それは悲劇の元ですね。
年は取っても、まだ悟っていない、好奇心いっぱいな、そういう役をやってみたいですね。


時代にも、助けられてますよね。
高齢化社会になって、映画を作る側が、年寄りにスポットを当てるようになった。

おかげでいろんな人生をやらせてもらっています。
これを「もう一つの自分史」と言ってもいいかもしれません。
若いときは想像もしていませんでしたから。


――女優生活は60年を超える。
  一つの転機は、42歳のとき。大島渚監督の「愛の亡霊」(1978年公開)に出演した。
  夫のある女性が、若い男を命がけで愛してしまう情念の物語だ。

  大島監督は当時、「愛のコリーダ」の大胆な性描写で物議を醸していた。
  「愛の亡霊」はその次作とあって、当然、周囲は心配したという。


今はそうでもないけど、当時は30代、40代になった女優には、
面白い役は、まわってこなかった。

女として、評価されなくなるのよね。
このまま近所のおばさんみたいな役ばっかりやってくのかな、
それもつまんないなって思っていたとき、「愛の亡霊」に出合ったのです。


「ここに女がいる!」と心を揺さぶられて、ぜひ出たいと思いました。
大島監督は、ほんとはもっと年上の大スターで、
たとえば山田五十鈴さんクラスの方に、やってほしかったみたいですね。

でも、過激なシーンも多かったから、そういう人は、出てくれない。
「まあ、しょうがないか」という感じだったんじゃないですか。
あの映画で、あらためて演じる面白さを知ることができました。


あのころ、テレビや映画の仕事だけじゃなくて、
自分で企画して、定期的に舞台公演をやっていたのも、救いになりましたね。

話題にもならないし、お金にもならないけど、自分としては、やりたい役がやれている。
腐っちゃわないためには、絶対に必要でした。


              

――今では女優という仕事に満足し、楽しみながらやっているが、
  小さいころから女優を夢見ていたわけではなかった。
  子どものころは病気ばかりしていて、夢はなかったという。


中学生のときに観た劇団民藝のお芝居に感動して、
衣装とか舞台美術とかの係をさせてもらうつもりで受験して、研究所に入ることになったんです。


女優を目指したわけではなかったのに、舞台に出ることになり、
厳しくしごかれて、時にはいじめられて、つらいことばかりでした。

やめなかったのは、責任感と、あとは意地ですね。
ヘタだったから、陰口もさんざんたたかれたけど、それでやめるのは悔しかった。


よく頑張ってるわね。
つらいだろうけど、踏ん張りなさい。
それは後々、絶対に役に立ってくるから。

当時の自分に、そう言ってあげたいかな。
あのときを乗り切ったから、今があると思います。


若い人に何か一言を、と言われたら、
嫌なことも逃げないで、ぶつかってね、と言いたいです。
人生は長いのですから。


結婚して旦那さんに養ってもらうつもりは、最初からありませんでした。
クラスメートは、小中学校のころから、結婚式は着物がいいか洋服がいいか、
どんな旦那さんがいいかって話してたけど、私はぜんぜん結婚に、興味がわかなくて。


私が小さいころに、父が亡くなって、母が働いて、ひとりで私たちを育ててくれました。
だからかもしれません。
おまけに、11歳年上の兄の夫婦関係のゴタゴタも見ていたから、
結婚が幸せなものというイメージは、なかったんですよね。

              


■家族の味を初めて知った映画


――母の吉行あぐりは、戦前から美容師として活躍し、
  NHK連続テレビ小説「あぐり」(1997年)のモデルにもなった。

  兄は、女性関係が話題になることも多かった人気作家の吉行淳之介。
  父の吉行エイスケも、妹の吉行理恵も作家。
  ちょっと変わった家族に囲まれて育ち、家庭の味というものは、女優の仕事を通して知った。


お誕生日を祝ってもらうとか、お正月にお節やお雑煮をみんなで食べるとか、
そういうことがまったくありませんでした。
みんながそれぞれ好きなことをしてる感じで。
自分では普通だと思っていましたけど、ちょっと変わった家族ですよね。


映画「家族はつらいよ」シリーズは、「妻よ薔薇のように 家族はつらいよIII」(25日公開)で3作目。
その前の「東京家族」(2013年公開)も入れると4作、
ずっと同じメンバーでやっているので、家族の疑似体験をしているみたいです。

家族の味というものを、初めて感じることができました。
ありがたいですね。


私が演じている富子は、貞淑な妻と思わせておいて、じつは、自分で人生を切り開いていくタイプ。
1作目では、夫に離婚届をいきなり突き付けたし、
今回は、夫に「同じお墓に入りたくない」って言っちゃってます。


山田洋次監督は、役者のことを本当によく見てらっしゃいます。
きっと私の性格や本質を見抜いたんでしょうね。
バレたか、という感じ。

もし今、自分に夫がいたら、
富子と同じように「同じお墓に入りたくない」と言っていると思います。

              


――自身は28歳のときに一度結婚したが、4年ほどで離婚。それ以降は、独身を通してきた。


結婚していたころは、まだ若かったし、
相手に対して「なんで、わかってくれないの」っていう思いが強かった。

私が何でも自分で決めちゃうから、どうして相談しないのって、驚かれたこともあったけど、
そもそも自分のことを誰かに相談するっていう発想がなかったんです。



そういうところは母の影響かしら・・・。

結婚してみて初めて、自分がいかにマイペースで、
相手のことを気にしないかが、わかりました。
相手がどういう人だったとしても、長年連れ添うのは無理だったんじゃないかしらね。


恋心ですか? 
もちろん、死ぬまで持っていたいですよ。
恋心は、自然とわいてくるもの。異性にドキドキする気持ちは、大事だと思います。


恋愛感情を抜きにしても、男の人って面白いじゃない。
考え方や感じ方がぜんぜん違って。

もちろん、女友達も大切につき合っています。
頼りになります。


男の人には、たくさん教えてもらえましたよ。
もう昔の話ですけど、嫌な思いをさせられて、
自分は、こんなに醜い言葉を口走るのか、と思ったことも。

そんな男の人でさえ、自分の嫌なところ、駄目なところ、
自分にはこういう面もあるのだ、と教えてくれたのですから。


思い出したくないことも、ひっくるめて、男たちよ、ありがとう!と言いたいですね。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

              


私は記事を読み終わった後、ぼんやりと若き青年時代を思い馳せたりした・・。

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、
大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。
                                                    
そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をしたりした。

やがて養成所の講師の知人の新劇のある長老を介して、
少しだけであったが、新劇の男優、女優さんを紹介されたりしていた。

この当時の新劇の世界は、『劇団 民藝』、『文学座』、『俳優座』などの主流の男優、女優さんが、
舞台で公演されたり、劇団維持、生活費の為に映画、テレビのドラマに出演されたりし、
満天の星空のように輝いていて、新劇の全盛期の時代であった。

今回、女優・吉行和子さんは、1957年に劇団民藝の舞台「アンネの日記」で主演デビュー、
と私は学び、あの当時も『劇団 民藝』もそうそうたる男優、女優さんがいる中、
ご苦労されただろう、と新劇に無知な私でも、少しだけ理解できたりした。

今回、初めて女優・吉行和子さんの人生航路の深淵を私は学び、
数多くの人生の機敏を多々教示され、感銘させられた・・。

              

そして《・・今の年だから、できるという役が必ずある。
いつも新しいことができて、退屈せずに済む。
これから先、もっと年を取るんですが、その年の自分に合う役がくるって信じてます。
・・》

《・・時代にも、助けられてますよね。
高齢化社会になって、映画を作る側が、年寄りにスポットを当てるようになった。

おかげでいろんな人生をやらせてもらっています。
これを「もう一つの自分史」と言ってもいいかもしれません。
若いときは想像もしていませんでしたから。
・・》

私は女優・吉行和子さんが長年に於いて、英知と切磋琢磨される中、ここ20数年、テレビに出演され、
多くの方に知られて、賞賛されている今日、謙虚さも失わず、恐れ入りました・・、
無名な私でも、心の中で呟(つぶや)いたりしている。

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中曽根康弘・元首相は100歳を迎え、長寿の秘訣を73歳の私は学び、やがて中曽根首相時代を思い馳せて・・。

2018-05-27 15:58:22 | ささやかな古稀からの思い

今朝、私は配達された読売新聞の朝刊を読んでいる中、
『 中曽根氏100歳 「最後のご奉公」 
          長寿の秘訣は・・「探究心、好奇心」 』と見出しを見たりした。

そして私は中曽根康弘・元首相が27日、100歳の誕生日を迎えたことを知り、
百歳ってことは、大正時代に生を受けられて、昭和の時代、今日の平成の時代、
そして来年は新たな時代となるのだから、大きな4つの時代を過ごされることになる、
と思ったりした。

昨今、世の中は人生100年の時代などと風潮されている今日、
具体的に実践されて100歳の誕生日を迎えられた中曽根康弘・元首相は、
賢人の上、人生の達人だなぁ・・と私は感じたりした。

             

そして記事の中に、健康長寿の秘訣(ひけつ)について掲載されて折、
「規則正しい生活に加えて、常に森羅万象に関心を持つことも大事。
飽くなき探求心と知的好奇心こそ肝要だ」と述べられていた。

私は民間会社の中小業のサラリーマンを卒業して、年金生活をしている73歳の身であるが、
やはり中曽根康弘・元首相は、首相時代も剛腕で実践力のある御方だったので、
長寿の秘訣を明言されることも、賢人の行動力のある御方と感じ深めたりした・・。

中曽根康弘・元首相は、周知の通り、1918年(大正7年)に生まれて、
1947年(昭和22年)の衆院選で初当選し、やがて要職を幾たびか歴任され、1982年(昭和57年)11月に首相に就任し、
1987年(昭和62年)まで5年の長期政権を担った稀な御方である。

そしてソ連との冷戦時代に、アメリカのレーガン大統領と信頼関係を構築して、日米安全保障体制の強化にも努め、
日本の安全と国民の生命、財産を守った御方である。

そして内政では、国鉄、電電公社、専売公社、日本航空の民営化の難題に、
それぞれのできる御方を配置させて、民営化を達成した剛腕と英知に優れた御方でもある。

少なくても中曽根首相の功績を、このように私は評価してきた・・。

             

そして私は、中曽根首相の1982年(昭和57年)11月より、1987年(昭和62年)まで5年間の頃を、
ぼんやりと思い馳せたりした・・。

この当時の私は、あるレコード会社で、コンピュータを活用した情報畑に勤務し、
コンピュータ処理委託をしていた時代から、自社処理となり、開発、運営業務で睡眠時間を削り、
日夜奮闘していた時期であった。

確か1982年(昭和57年)のこの頃、心がはずみ上機嫌な心情を表現した『ルンルン』が、
林真理子さんの著作本などから、世の中は使われた、と思いだしたりした。

そして音楽は、岩崎宏美さんの『聖母たちのララバイ』、あみんさんの『待つわ』が、
街に流れていた。

1983年(昭和58年)のこの当時、サントリー・ウィスキーのCMに於いて、
女優の大原麗子さんが、確か着物の姿で、『少し愛して、なが~く愛して・・』流れていた、
と思い馳せたりした。

そして音楽は、細川たかしさんの『矢切の渡し』、大川栄策さんの『さざんかの宿』などが、
流行(はや)っていた・・。

テレビの連続ドラマは、橋田寿賀子さんの原作、脚本の『おしん』が放送されて、
突出した視聴率になった、と私は聞いたりしていた。

1984年(昭和59年)になると、タレントの所ジョージさんが、
大したことでもないのに、驚いたり誉めたりする時に、
『す、ご、い、で、す、ねえ・・』とテレビ番組で言って、流行させたりしていた。

音楽は中森明菜さんが『北のウィング』、チェッカーズさんの『涙のリクエスト』だった、
と記憶している。

1985年(昭和60年)になると、8月中旬に『日航ジャンボ機』が御巣鷹山に墜落して、
私はテレビのニュースを視聴して、動顛させられたりした。

音楽に関しては、井上陽水さんが『いっそうセレナーデ』、吉 幾三さんが『俺ら東京に行くだ』が、
心象として残っている。


1986年(昭和61年)になると、テレビのあるCMに於いて、
『亭主元気で留守がいい・・』と偶然にテレビを視聴して、私は微苦笑していた。

音楽に関しては、テレサ・テンさんの『時の流れに身をまかせ』、小林 旭さんの『熱き心に』などを、
私はよく聴いたりしていた。

1987年(昭和62年)になると、国鉄が分割して、JRグループが発足して、
私はサービス向上に好感したりしていた。

そしてソ連のゴルバチョフ書記長が、再編、改革、再構築の意味合いのロシア語で、
『ペレストロイカ』をニュースで私は視聴して、注視したりしていた。

音楽に関しては、瀬川瑛子さんが『命くれない』、吉 幾三さんが『雪国』が、
心象として残っている。

             


このようにぼんやりと思い馳せたりしてきたが、
この当時、
私たちが過ごしてきた時代は、日本の多くの人たちは一生懸命に働けば、年収も毎年増え、
そして家族全員で、明日に希望が持て、実感できた総中流社会であった。

こうした中で、私たち年代を含め多くの先輩、後輩の男性は、
一家の主(あるじ)、或いは夫として、もとより家計の責務で奮闘して働いていた。

そして妻の多くは後方支援となり、育児、料理、掃除、洗濯、交際など専業主婦として奮戦し、
昭和妻の責務を果たしてきた。

             

やがてバブルが終息し、そして平成元年(1989年)11月10日からベルリン市民に寄る『ベルリンの壁崩壊』した後、
まもなくソ連が崩壊し、世界の諸国の政治はもとより、外交・軍事・経済、やがて社会が一変した。

そして世界の経済が自由主義経済の一色となり、やがて日本は失われた15年で、
主要各国や躍進してきた中国などに国際競争力に敗退し、かっての高度成長の総中流社会の再現は、
見果てぬ夢となった。
          
そして殆どの民間会社は、社員が一家を養(やしな)うだけの給与を支払う余裕もなく、低下してきた。

今、改めて中曽根首相の1982年(昭和57年)~1987年(昭和62年)まで5年間を、
振り返ると、殆どの国民が幸せな時代を過ごせた、と思い深めたりしている。

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ある国がネットを強制的に遮断し、突然「インターネット」が使えなくなった事例、私は学び、やがて震撼させられて・・。

2018-05-26 15:17:33 | ささやかな古稀からの思い

先程、月に一度ぐらい愛読しているネットの【 ITmedia 】を見ていたら、
『 突然「インターネット」が使えなくなったら?
          ネットを遮断された「英語圏」の地域は、どうなったのか 』
と題された見出しを見たりした。

我が家はインターネットに関して、固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
私は据え置き型のパソコンを利用している。

そして私は恥ずかしながらガラケーと称される携帯電話、
ましてスマホと省略されているスマートフォンも使えなく、
家内だけは、遅ればせながら一昨年の春以来、携帯電話を買い求めて利用している。

このように私はフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンにも無縁であるが、
せめて私は据え置き型のパソコンで、ネットを通して、世の中の出来事などを学んだりし、
日常生活に欠かせない存在となっている。

              

このような実態であり、《・・突然「インターネット」が使えなくなったら?・・》と明題に強く関心させられ、
記事を精読してしまった。

そして記事を読み終えた後、やがて現世でネットを強制的に遮断することは、
まさに『悪魔の選択』だよなぁ・・と震撼させられたりした・・。

この記事の原文は、国際情勢や社会問題、サイバー安全保障を中心に国内外で取材・執筆をされている、
ノンフィクション作家・ジャーナリストの山田敏弘さんの寄稿文であり、
【 ITmedia 】に2017年6月23日に配信され、無断であるが転載させて頂く。 

《・・突然「インターネット」が使えなくなったらどうなるか? 
SNSやメールが使えなくなるだけでなく、金融や医療機関などでも、大きな支障が出るはずだ。(略)

              

私たちの生活に「インターネット」は欠かせなくなった--。

6月13日、内閣府が調査した2017年版「子供・若者白書」が閣議決定され、
その内容が話題になった。

調査は2016年12月に15歳~29歳までの男女6000人を対象に行われ、
「若者にとっての人とのつながり」が白書の巻頭で特集されている。

この調査では、若者の62.1%が、ネット空間を自分の居場所だと考えていることが分かったという。
学校が自分の居場所だと答えた人は49.2%で、職場と答えたのが39.2%、地域が58.5%だったことを踏まえると、
若者の多くが実社会よりも、ネット上につながりを感じているようだ。

ただネットは、SNSをはじめ匿名で利用できるバーチャルな空間まで、使い方は多岐にわたる。
ざっくりとひとくくりにすると、回答者の意図を見誤りそうな調査ではあるが、
いずれにせよ人類の生活に、ネット空間の存在が欠かせないものになりつつあることは確かだろう。

そんなネットが、今、私たちの生活から、突然消えてしまったら、いったいどうなってしまうのだろうか。
いきなり使えなくなることを想像したら・・一度知った便利さを捨てるのは、容易なことではないはずだ。

              

実は最近、約3カ月にわたって特定地域で、ネットが使えなくなったとして、
世界的なニュースになっていた国があった。

アフリカ中部のカメルーンである。
スマホの普及などでネットの利用が広がっているこの地域は、いったいどんな状況に陥ったのか。


 
☆英語圏地域のネット接続を遮断

そもそも、この「ネット遮断」の背景自体が、興味深い。
カメルーンの公用語である「フランス語」と「英語」にまつわる争いが、きっかけとなっていたからだ。

カメルーンは、もともとドイツの植民地だったのが、フランスや英国に分断統治され、
1972年にカメルーンという名の国が誕生した。

現在、人口は2277万人だが、植民地時代の名残から、
国民の大半は、フランス語を話し、政府も「フランス語政府」となっている。

一方、もともと英国領だった北西と南西地域では、現在も英語が使われており、
その英語圏の住民数は、人口の5分の1を占める。

英語を使用する国民は少数派で、建国以来、フランス語を使う政府が、英語圏の地域を差別してきた。

英語圏の人たちは、フランス語が中心の教育や司法システムの中で除外され、
国内で「準国民」のような扱いを受けてきたと主張してきた。

そして最近、英語圏地域の分離独立を主張する動きが再燃している。

2016年10月、英語圏の弁護士や教師たちによる大規模なストライキが勃発。
きっかけは、フランス語を話す判事が、英語地域に赴任することになったことで
英語圏国民の怒りが爆発したからだった。

              

抗議デモは、どんどん激しさを増し、死者が出るほどまでに発展。
治安当局とデモ隊が衝突する動画が、ネット上にアップされ、さらに住民の怒りを増幅させた。

そこで独裁的なポール・ビヤ大統領の率いる政府は、
さらなるデモなどの情報が共有されないように、また国民を刺激する情報が拡散されないようと、
2017年1月、英語圏地域のネット接続を全て遮断するようプロバイダー(ネット接続事業者)などに
命令を下したのである。

そこから93日間にわたり、同地域では、それまで住民が日常的に利用していたインターネットが
一切使えなくなった。

人権的な見地から言えば、人がインターネットにアクセスできないのは、
基本的人権と自由の侵害に当たり、さらに表現の自由を制限するものだと、
国連などの世界的組織が指摘している。

そんな人権侵害が起きたのである。

              

☆これが「未来の抑圧」の姿

遮断によって、どのようなトラブルが、発生したのだろうか。

まず行政機関や学校などが利用できなくなり、社会生活に支障が出た。
経済的にも、銀行などが、ネットワークにアクセスできずに、ビジネスや個人の送金ができなくなり、
市民が現金を引き出すこともできなくなった。

また病院など医療分野にまで、その影響は及んだ。

英BBC放送は、地元からのリポートで、
コミュニケーションが滞り、ニュースにアクセスできないために、
世界で何が起きているのかも分からない、と嘆く地元民の様子を伝えた。

またネットが遮断されたことで、まるで牢屋の中にでもいるかのように
周辺地域や外部から孤立してしまっているのに、カネがないために、移動すらできないという声もあった。

またアフリカのニュースサイトは、ある若い医師の声を拾っている。

この医師は、遮断前までは、さまざまな疾患についての最新情報や処置方法を得たり、
離れた場所にいる同僚医師らからのセカンドオピニオンなどアドバイスを聞くために
ネットを日常的に活用していた。

だが遮断されて、それができなくなり、数時間かけてネットがつながるフランス語圏にまで
移動せざるを得なくなったという。

メールをチェックするためだけに、5時間も移動したことがあったらしい。

そんなことから、「途中から、フランス語圏に暮らす友人たちに
パスワードを教えてメールをチェックしてもらうようになった・・プライバシーも何もなくなった」と取材に答えている。

              

そんな状況で英語圏地域の市民は、「ネット難民」と化した。
そして、彼らを受け入れるために「難民キャンプ」が設置されるという動きも起きた。

英語圏からネット接続が可能な地域まで行くのは、あまりにも遠く時間がかかるため、
有志が英語圏からそう遠くないフランス語圏側の村に、ネットが利用できるスペースを提供した。

結局は、国際社会からの批判などを受けた政府が、3カ月後に英語圏のネット接続を再開した。
ただ遮断されていたことによる経済損出の合計額は、
少なくとも450万ドル(約5億円)にもなったと見られている。

こうしたカメルーンの状況を見て、元CIAの内部告発者であるエドワード・スノーデンも、
これが「未来の抑圧」の姿だ、とロシアからツイートした。

              
☆日本でネットが遮断される可能性

実はカメルーン以外に、いつでもネットを遮断することができる国がある。

例えばエジプトは、2011年に「アラブの春」が起きた際、活動家らの動きを封じるために遮断、
イランもトルコも、突然遮断したり、アクセス制限を行なっている。

中国も、いつでも遮断できるようにしている、と報じられている。
また米国もかつて、大規模サイバー攻撃への防衛策として、
ネットを瞬時に止めることができるようにすべきだ、との法案が検討されたこともある。

政府がやらずとも、事故が起きる場合もある。
通信データの99%は、海底に敷かれたサブマリンケーブル(海底ケーブル)を通って行き来する。
そのケーブルが破損したり切れたりすると、突然切断されてしまうこともあるのだ。

実際に、2006年には台湾沖で発生した地震で、ケーブルが使えなくなり、
台湾、中国、香港、フィリピンで、通信遮断が起きた。

2008年には、エジプト、イラン、インドで、
2011年には、中東、東南アジアで、それぞれケーブル破損が原因で、遮断が起きている。


では、日本でネットが遮断されるような事態は、起きるのだろうか。

              

世界的に見ても高度にデジタル化・ネットワーク化されている日本では、
ネット遮断によるダメージは、想像できないほど大きくなるだろう。
社会機能だけでなくビジネスも著しく滞ることになる。

理論的には、海底ケーブルが切断されたり、すべてのプロバイダーがサービスを停止するなどすれば、
ネットは、利用できなくなる。

ただ、独裁的な指導者が鶴の一声で、反政府的な地域に対する遮断命令を出せるカメルーンのような国とは違う。
民主主義国家の日本では、現実にはネットをすべて遮断させることは難しく、
カメルーンのような遮断が実施されることはないだろう。
もちろん、3カ月もアクセスできない状態が続くことは考えにくい。

日本の若者の約6割は、ネット空間が自分たちの「居場所」と考えているが、
いまのところそこは安泰のようだ。・・》

記事の原文に、あえて改行を多くした。
              

私の年金生活のひとつとしてパソコンを愛用した生活をしていたので、
突然にバソコンが故障したので、修理依頼をしている間のパソコンのない空白の日々、
或いはやむなく買い改めたりする空白の日々、まるで『パソコン迷子』のような体験をしたことがあった・・。
                                  
私は2004年(平成16年)の秋に定年退職後、まもなくブログの世界を知り、
私は無我夢中に毎日数通は投稿し、そしてブログ上のコメントで知り得た8名の人と、
お互いにコメントを交わしていたブログ熱中時代の時であった・・。

そして定年後の生活に備えた肝要のパソコンは、2006年(平成18年)9月中旬に、予告もなく突然にダウンして、
まもなく年金生活2年生を迎えようとしていた私は、
『10年ぐらい利用しょうと思ってたのに・・どうして突然に故障するのよ・・』
と心の中で呟(つぶや)きながら、長らく黒い画面を見つめ大いに落胆したりした。

やむなく買い求めたパソコンの量販店に修理を依頼したが、1週間後に我が家に来宅することをなり、私は困窮した・・。
我が家は無念ながらパソコンはたった一台しかなく、この来宅するまでの1週間の間、
どうしょうかしら、と悩んだりした。

この当時の私は、ブログ上で盛んにコメントで交流を重ねていた時代で、
コメントを頂いたりし、半日以内に必ず返信していたが、
もとより返信が出来なくなり、相手の御方はどうしたのかしら、と戸惑うと思いながら、悩んだりした。

もとよりリアルの交流であったならば、電話でお詫びの連絡もできるが、
ブログの世界は匿名が多く、連絡できる方法がないのである。
もとより匿名の世界であっても、何よりも信頼が大切なのに、と困苦したりした・・。

このような2週間ばかり『パソコン迷子』となり、当然ながら私の場合はインターネットも使えず、
平素より多く、居間で読書をしたり、映画を鑑賞したり、音楽を聴いたり、散歩する時間も長くなったりして、
過ごした苦い個人的な体験があったりした。        
        
              

まして日本に於いては、何らの理由でネットを強制的に遮断し、
突然「インターネット」が使えなくなった場合は、壊滅的な被害となることは、
少しボケた私でも、充分に予測できる。

やがて飛躍した妄想をすれば、アメリカ、ロシア、中国が、それぞれの国の根幹的な国益に反することを、
日本がした時は、それぞれの国は日本に対して、過酷なサイバー攻撃を執拗にして、
やがて甚大な被害となり、壊滅するまで実行するだろう、と私は妄想を重ねたりした。

そして現世では、もとより核も怖いが、ある国に対して、
ネットを強制的に遮断し、突然「インターネット」が使えなくすることは、
『悪魔の選択』と妄想したりしている。

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下重暁子さんの『孤独と寂しさは別物』、高齢者の『ひとり遊び』が多い私は学び、瞬時に賛意をして、微笑み・・。

2018-05-25 14:07:30 | ささやかな古稀からの思い

先ほど、ときおり愛読しているネットの【NEWS ポストセブン 】を見たりしている中、
【 「孤独本」が大ブーム 下重暁子氏「孤独と寂しさは別物」 】と見出しを見たりした・・。

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、
大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。
                                                    
そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をしたりした。

やがて養成所の講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、
映画で生活をするは大変だし、まして脚本で飯(めし)を食べていくは困難だょ、
同じ創作するなら、小説を書きなさい、このような意味合いのアドバイスを頂いたりした。

そして警備員などの契約社員をしながら文学青年の真似事をして、
純文学の新人賞に投稿していたが、三回ばかり最終候補6作品の寸前で敗退した。

こうした落胆していた時、親戚の叔父さんから、
今は良いとしても、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、 と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折し、
やむなく安定したサラリーマンの身に転向を決意した。   
               
そして何とか大手の企業に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
          
やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。

まもなく音楽事業本部の大手レーベルのひとつが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられ、中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
この間に幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。

そして最後の5年半は、リストラ烈風が加速される中、あえなく出向となったり、
やがて私は出向先で2004年(平成16年)の秋に、何とか定年退職を迎えることができた。

              

そして、私は出向身分であったので、リストラ烈風の中、
会社の首脳部が社員を自主退職させる希望退職優遇制度などの免れたのも事実であり、
定年前にやむなく退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

しかしながら根底の実情は、この当時は大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もなく、
何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまった。

このような拙(つたな)いサラリーマン航路である上、           
そして定年退職するまで半生期は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりした・・。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、2人だけで第二人生の歳月を過ごすので、
結果としては定年後の長い人生は、お互いの趣味を尊重して、堅実な生活を過ごせば、
年金生活でも何とかなると、定年後に年金生活を始めたりした・・。

              

そして定年前のサラリーマン時代の私は、数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買物、料理、掃除などの家事で、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた。
         
そして定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩すのは天敵と確信し、
平素の買物専任者を自主宣言したりした。

そして家内から依頼された品を求めて、自動車も所有できない我が家は、
私は独りで歩いて7分前後にある最寄のスーパー2店か、
或いは最寄駅まで15分前後歩いて、数多くスーパー、専門店で買い求めたりしている。

最寄駅までは、利便性ある路線バスは頻繁に走行しているが、季節のうつろう情景を眺めたり、
歩くことは何よりの健康の源(みなもと)と信愛している私は、原則として路線バスに頼らず、
ひたすら歩いて往還している買物メール老ボーイとなっている。

帰宅後、やはり私は独りで、我が家から歩いて3キロ範囲にある遊歩道、小公園を散策をし、
四季折々の季節のうつろいに心も身もゆだねている。

こうした時は紳士バックを園児のように真似て、斜め掛けして、颯爽と歩いたりしていることが多いが、
大半はデジカメをネクタイのように首から掛けて、歩いている中で瞬時に魅了された情景を、
一期一会ねぇ・・と思いながら、記憶のかたみとして撮ったりしている。

こうした根底として、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、

いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
ひたすら歩き、ときおり大股で歩いたり、或いは足早に歩くことが多くなっている。

                         

やがて帰宅後、昼食だけは、お互いに制約することなく、自由な時間で、
お互いに殆ど我が家で、きままに食べたりしている。

そして午後の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

こうした中で、家内は料理、掃除、洗濯など専業主婦の延長戦をしてくれるので、
せめて家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、
日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。


このような年金生活の一日を定例事項のように過ごしてきた・・。

              

私は一日の中で、ひとりで過ごす『ひとり遊び』が多く、心も身も楽しんだり、
或いは本の作品、映画の作品、音楽の曲などの解釈を新たに深めたりしてきた・・。

このような状況なので、世間でいわれる孤独のみじめさとは無縁で、
独りで過ごす孤独の時間を友としてきた。

例外として、家内のボディガード、お供そして荷物持ちで、3週間に一度ぐらい駅前で買物、
或いは年に3回ぐらい都心の新宿にある伊勢丹、小田急、京王などのデパートに買物、
そして庭の手入れ、国内旅行、懇親会、冠婚葬祭などで小用がない限り、定年後の13年半を過ごしてきた。

そして家内は、ときおり家内の母宅に介護に6泊7日前後で行き、我が家は私が『おひとりさま』になるが、
殆ど平素の日常生活と変わらないで、過ごしたりしている。

              

このような深情のある私は、御歳を召されても麗(うるわ)しき下重暁子(しもじゅう・ あきこ)さんが、
『孤独と寂しさは別物』のフレーズに、私は魅せられて、記事を精読してしまった・・。

この記事の原文は、『週刊ポスト』の2018年6月1日号
に掲載された記事のひとつであり、
関連の【NEWS ポストセブン 】に2018年5月21日に配信され、記事の大半を転載させて頂く。

《・・
妻や家族に囲まれた一見“孤独とは、縁遠く見える人”、
あるいは“今後の生活で孤独を恐れている人”たちである。

『極上の孤独』の著者・下重暁子氏はいう。

「孤独を肯定する本が受け入れられているのは、
それだけ孤独と向き合う必要性を感じている人が多いからだと思います。

日本人には“孤独嫌い”が多く、
孤立、孤食、孤独死と、孤独には、あまり良くないイメージがつきまといます。

しかし人間とは、たくさんの人に囲まれてさえいれば、幸せなのでしょうか。
多くの友達と交際している社交的な人が、精神的に満たされているとは限らないでしょう。

           
人は皆、本質的には、“ひとり”なのだと思うのです。
特に定年になって、会社や組織を離れれば、ひとりで過ごす時間は、必然的に増え、
高齢になるほど、妻や家族、友人たちとの別れにも直面します。

その中で、“孤独とどう付き合っていくか”と考え始める人が多いのではないでしょうか」


下重氏が語るように「老い」と「孤独」は切り離せない。

しかし、現実には「孤独でいること」に対する世間の風当たりは強い。

様々なメディアで「子や孫に恵まれ、頻繁に連絡を取り合う仲良し家族」や
「友人たちに囲まれて、趣味を楽しむ充実した老後」の素晴らしさが喧伝される一方、
そうでない人は「かわいそう」という目で見られたり、「変わり者」扱いされることも多い。


「会社時代の同僚や昔からの友人との間にしか、“生きる世界”がないというのは、あまりにも寂しい。
歳をとってからは、人間関係に一喜一憂するより、自分の内面に向き合う時間をつくるべきです。


『孤独』と『寂しさ』は、まったく別物。
孤独を愉しむことを知っている人は、ひとりでいられる時間に喜びを感じ、
人生をより愉快に過ごせると思うのです」・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

              

私は『ひとり遊び』が多く、齢を重ねるたびに上手になってきた、と独り微苦笑する時もあるが、
『寂しさ』を感じる時もある・・。

私は亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖におしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

そして私は、遊歩道、公園などを散策していると、見知らぬ男性、
女性グループの御方たちと、話しかけられたり、或いは話しかけたりして、談笑し、
殆ど毎日過ごしている。

或いは、知人とか友人と時折お逢いする時は、しばらくねぇ・・、と私は笑いながら逢ったりして、
日中はコーヒー、夕暮れからはビールか水割りのウィスキーを飲みながら、談笑をしたりしている。

ときおり国内旅行を私たち夫婦は幾たびか重ねてきたが、
旅先でも、私は食事処、ロビーなどて隣席した見知らぬ方でも、話しかけて談笑したりしている。
                          
こうした中で、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

こうした平素の生活をしているが、家内が家内の母の介護で行き、
私は独りぼっちの『おひとりさま』の生活を過ごす時、寂しさを感じたりしている・・。

              

平素は、少なくとも朝夕の食事の際は、私は談笑しながら、家内と共に頂いている。

或いは私は何かと単細胞の為か、家内に少しボケかと思われない為、
若き自衛隊の諸兄に負けないように、ときおり元気な声で言ったりしている。

たとえば我が家の戸締りの責任者は、もとより主(あるじ)の私である。

こうした中、夜の9時過ぎには、玄関、台所、お風呂場などを点検する時、
『ハイ、OKです!』
と指差し確認し、大きな声で言ったりしている。

この後、居間でテレビを視聴しているか、雑誌を読んでいる家内に、
『戸締り・・終了致しました!』
と私は家内に報告したりしているのが、年金生活の当初からの習性となっている。

こうした時に、話し相手、報告する相手がいないと、やはり寂しさを感じたりしている・・。

              

このような定年後の年金生活を過ごしてきた私は、
下重暁子さんの今回の『孤独と寂しさは別物』、私は瞬時に賛意をして、そうですよねぇ・・
と微笑みを重ねたりした。

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ときおり『おひとりさま』になる私、13年半を迎えて、独り遊びが上手になってきた、と独り微苦笑して・・。

2018-05-24 15:47:10 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住んでいる。

そして私たち夫婦は、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
                              
私たち夫婦の両親は、今や家内の母だけとなり、遠方の地に一戸建てに住み、
私より14歳年配で87歳の身となっている。

過ぎし年、私が民間会社のサラリーマンの定年退職した2004年〈平成16年〉の秋の直前に主人に病死され、
我が家より2時間半を要する千葉県のある市で独り住まいの生活をされて、早や13年半となっている・・。

              
       
これ以来、家内は季節が変わるたびに、独り住まいとなっている家内の母宅に、
季節の変わり目の支度で、6泊7日前後で行ったりしてきた。

やがて家内の母は、80歳過ぎた頃から膝(ひざ)を悪化して、まもなく杖(つえ)を突く身となって、        
こうした後、整形外科、内科、眼科に通院している中、膝(ひざ)と腰に激痛が感じ、
一昨年の5月より少し遠い大学病院で検査、そして入院、退院後の検査が加わりした後、
リハビリで近くの病院に行ったりして『要介護2』となってきた。

そして家内は付き添う為に、家内の母宅で駐在することが多くなってきた。

まもなく家内の妹が強力な援軍となり、家内と家内の妹が交互に、
家内の母宅に殆ど宿泊して、家内の母の食事、洗濯、掃除、或いは通院の付き添いなどしている。

そして昨年の5月より、家内の母はデイ・サービスに通った成果で、市の福祉課が再審査を得て、
『要介護2』から『要支援2』と回復して認定されたりした。
           
このように、家内は家内の妹と逐次連絡しあって、家内は独り住まいの家内の母宅に行っている時は、
私は我が家で『おひとりさま』の生活となっている。

              

たまたま本日の朝、家内は独り住まいの家内の母宅に行く日となり、
私たち夫婦は朝食後、やがて軒下に降り立った。

そして私は、門扉の近い道路に降り立って、
『お義母(かあ)さんに、よろしく・・』
と私は家内に言った後、家内を見送くったりした・・。

こうした関係で、ときおり私は我が家で、独りぼっちの『おひとりさま』の生活を過ごし、
早や13年半を迎えている・・。

いつの日にか私たち夫婦も、どちらかが片割れとなる『おひとりさま』になる時が来るので、

私としては『おひとりさま』の特別演習かしら、と思いながら過ごす時もある。
    
こうした中、ときおり『おひとりさま』になる私は、勝手きままに過ごしたりしている。

恥ずかしながら、私のこの時節の『おひとりさま』の定例となった生活の実態を発露する。

              

朝、目覚めた後は、やがて台所にある調布市から配布されたカレンダーを見て、
『燃えるゴミ』、『ベットボトル』、『古紙・新聞』、『燃えないゴミ』などの指定日を確認して、
これに対応して、調布市から指定された道路に面した門扉に置いたりしている。

やがて朝食は、家内は炊き上げた十六穀米の入った白米のご飯を、
半合単位にラップに包んで、冷蔵庫の片隅に保存してくれているので、
私は電子レンジで温めて、頂いたりしている。

こうした中で、私の朝食の前菜は、
新タマネギと生ワカメとあえたりした常食をミッカンぽん酢とお醤油をかけて、
大きな皿に盛大に食べたりしている。

この後は、電子レンジで温めた十六穀米の入った白米のご飯、インスタントのワカメの味噌汁、
納豆、しらす干し、コブの佃煮、ラッキョの塩漬け、福神漬け、サバの味噌煮の缶詰としてきた。

この後は、我が家の最寄りのスーパーに行き、夕食用のお惣菜(総菜と同意語)売場で数品を選定したり、
野菜、果物売場で少し買い求めて帰宅することが多かった。

昼食はヨーグルトを箱の二分の一を食べた後は、アンパンをひとつを頂いたりした。
その後は、台所で鼻歌を唄いながら皿洗いなどをして、水遊びをした。

                           

午後の時間は、いつものようにブログの投稿文を送信した後、
私が愛読している御方のブログの投稿文を読ませて頂いたりし、
或いは本を読んだり、音楽が聴きたくなった時は、音楽棚からDVDを取り出して、
ライブ盤などはテレビを通して、視聴したりしてきた。

やがて夜の8時前後に入浴した後、家内が温めて食べられる料理を数多く準備してくれているのを、
夕食として食べたりしている。

そして健康の源(みなもと)は、程々の食物から形成されると学んだりしてきたので、
前菜として、ニンジンを千切りにして、電子レンジで少し温めて、
ゴマドレッシングに少しお醤油をかけて、食べている。

そして家内が4泊以上になる時は、家内が準備してくれた料理は品切れとなり、
私がスーパーのお惣菜(総菜と同意語)売場で買い求めた品を並べて、
食べているのが実態となっている。

こうした中で、話し相手がいない私は、ウィスキーを濃い水割りを数杯を呑みながら、
殆ど映画棚から、その日に観たい作品をテレビを通して、視聴したりしてきた。

              

洗濯に関しては、洗濯から乾燥できるまでの洗濯機に頼り、

せめて下着、タオル、パジャマぐらいはしょう、と当初は私は思ったした・・。

しかしながら家内より、着替えはたくさんあるでしょう、私が帰ってからします、
と強い口調で私は言われてしまい、助かるよぅ・・と私は即答したりしてしまった・・。

このような洗濯機の機能も知らずに、今日まで至っている軟弱な私となっている。

掃除に関しては、多少の埃(ほこり)がたまっても・・とグウダラな心情で、
二日に一回・・電気掃除機を曳いて、掃除したくらいである。


こうした中、私は亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖におしゃべりが好きで、
平素は何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

そして私は、遊歩道、公園などを散策していると、見知らぬ男性、
女性グループの御方たちと、話しかけられたり、或いは話しかけたりして、談笑し、
殆ど毎日過ごしている。

そして私は、ときおり『おひとりさま』になる時は、家内が留守の為か、
ご近所の奥様、ご主人などと長話になることが多くなったりしている。
       
このように私は手抜きの『おひとりさま』の生活
をしているが、
家内は料理、掃除、洗濯などの家事は優等生であり、私などはいつまでたっても初心者以下あり、
もとより落第生だよなぁ・・と微苦笑を重ねたりしている。
            
                                   
                          

私は平素は亡き母の遺伝を受けて、男の癖におしゃべりで、何かと家内とは談笑を重ねているが、
『おひとりさま』の生活をしていると、話し相手がいなく寂しいのが、本音である。

しかしながら、人は誰しも孤独を感じる時がある、と学んできた私は、
平素の日常生活でも、ひとりを愉しむ時を過ごしている。

こうした楽観なプラス思考を深めたのは、過ぎし2010年8月下旬の頃に、
医学博士で病院長の帯津良一(おびつ・りょういち)さんの本を読み、多々教示されたりしてきた。

やがて2011年〈平成23年〉の秋に、氏の『楽々往生 ~老いを輝かせる12の心得』(ベスト新書)を購読したりした。
                
               
そして精読しながら、私は何かと大いに励ましを受けた一冊であった。
               
この本の帯に明記されている『楽々往生のための心得』として、
《 ◎いくつになっても、ときめきをもつ
  ◎「定年」で終わりにしない
  ◎ひとりを愉しむ
  ◎自分なりの「養成法」をもつ
  ◎敗れることも必ず想定に入れる
  ◎できるだけ身軽でいる 》
このように記載されていることを私は多々教示されて、私のセカンドライフの格言としている。
(意味合いが想像して、ご理解できない方は、この本をお読みください。)

                                      

私は中小業の民間会社に35年近く奮戦して、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職し、
多々の理由で年金生活を始めて、早や年金生活13年半となっている。

私が年金生活を始めて最初に配慮したことは、
家内の従来の専業主婦の日常のペース、ささやかな憩(いこ)いひとときなどの過ごし時を配慮して、
私は独りで外出して、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受し、
本屋、古本屋に寄ったりしている。

こうした根底には、歩きながら観える景観に良いし、
四季折々の季節のうつろいに心も身もゆだねて、何よりも健康にもよい、と固く信じてして歩いてきた。

何よりも歩けなくなった時は、もとより自由な時が制約され、何よりも困苦するのは自身だ、
と秘めながら殆ど毎日のように歩いている。

              
 
こうした中で家内は少なくても料理、洗濯、掃除などがあり、
私は現役のサラリーマン時代から、小庭の手入れをするぐらいであったので、
せめて退職後の年金生活に於いては、日常の買物ぐらいと思い立ち、私は自主的に買物の担当となったりした。

そして家内から依頼された品を求めて、自動車も所有できない我が家は、
私は独りで歩いて7分前後にある最寄のスーパー2店か、
或いは最寄駅まで15分前後歩いて、数多くスーパー、専門店で買い求めたりしている。

最寄駅までは、利便性ある路線バスは頻繁に走行しているが、季節のうつろう情景を眺めたり、
歩くことは何よりの健康の源(みなもと)と信愛している私は、原則として路線バスに頼らず、
ひたすら歩いて往還している買物メール老ボーイとなっている。

こうした後、私は高校生より都心で学び、その後も大半は都心の空気を共有してきた為か、
人出の多い都心は、定年後の年金生活で苦手となっている。

そして独りで我が家から歩いて3キロ範囲にある遊歩道、小公園をひたすら歩いたりしている。

こうした時は紳士バックを園児のように真似て、斜め掛けして、颯爽と歩いたりしていることが多いが、
大半はデジカメをネクタイのように首から掛けて、歩いている中で瞬時に魅了された情景を、
一期一会ねぇ、と思いながら撮ったりしている。
           
それでも小心者の私は、引け目を感じて、家内の茶坊主に専念し、
家内がコーヒーが飲みたい雰囲気を察して、私は日に5回ぐらいは淹れたりしている。

このように家事に関しては、恥ずかしながら殆どしてこなく、
ときおり庭の手入れは、現役時代から私の専任者となっているぐらいである。

              
                             
平素の私たち夫婦の年金生活は、ご近所の方の奥様たちから、仲良し恋し、
と何と社交辞令を頂いている私たちでも、いずれは片割れとなり『おひとりさま』となる・・。

そして残された方は落胆し寂寥感を深める中、強い趣味があれば、やがて失墜感は薄らいで、
命果てるまで生きがいのひとつとなると思い、お互いの趣味の時は大切にしている。
          
そして時折、友人と居酒屋など逢ったり、家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。
                       

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

                                             

このような家内と平素の生活を過ごしてきた私は、ときおり『おひとりさま』となる生活は、
男の癖におしゃべりな私として、何かと家内とは談笑を重ねているが、
話し相手がいなく寂しく感じたりしている。

そして平素も買物とか散策で出逢ったり、或いは自治会の回覧板を廻す時、
ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑しているが、
『おひとりさま』を過ごすと、少し長話になったりし、後で独り微苦笑したりしている。

或いは私がブログを綴って投稿時間、そして愛読しているブログを読ませて頂く時間が、
まばらになったりしている。

買物する時間帯も午前中から、夕方になったりし、お惣菜コーナーの売り場などで、
探し求めたりすることもある。
            
このような年金生活を13年半ばかり過ごしてきた私は、ときには独り愉しむ時を享受し、
独り遊びが上手になってきた、と独り微苦笑をしたりしている。

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90歳の女性、『 好きなことは、酒とたばこと夜遊び 』、老ボーイの私は学び、やがて脱帽して・・。

2018-05-23 14:33:34 | ささやかな古稀からの思い

先程、ネットでニュースを見たりしていた中、
『 今日で90歳! 自撮りおばあちゃん「好きなことは酒とたばこと夜遊び」』
と見出し記事を見たりした・・。

私は90歳の女性が、好きなことは、酒とたばこと夜遊び・・と瞬時に魅了されて、
好奇心に負けて、記事を精読してしまった。

この記事は、初めて知るネット【 telling,】に於いて、telling,の編集部が、
「自撮りおばあちゃん」として名高い西本喜美子さんにインタビュされた記事であり、
2018年5月22日に配信され、無断ながら大半を転載させて頂く。

《・・
自身がゴミ袋に入ったり、車にひかれたりする写真がSNSで話題となり、
「自撮りおばあちゃん」として人気を呼ぶ西本喜美子さん。

2016年にフォトエッセイ本『ひとりじゃなかよ』を出版し、全国で個展や講演会を開くほか、
2017年には、アドビシステムズ社のアートディレクターを務めました。

本日(5月22日)卒寿(90歳)を迎えて、
ますますアクティブに活動中の自撮りおばあちゃんの、元気と魅力の秘訣とは―ー?
            

写真を始めたのは、72歳になってから。

アートディレクターの長男が、地元の熊本で写真塾をしていて、
その生徒さんに誘われたのがきっかけです。

「お母さんも一緒にやってみましょうよ」って。
面白そうだし、やってみようかなって。
それまで、カメラに触ったこともなかったんですけどね。


お友達に会えるので、月に2回の写真教室がとても楽しみになりました。

そこで、セルフポートレート(自撮り)の宿題がでて、
何をやったら面白くなるかな~と考えてやったのが、
ゴミ袋に入って撮影するということでした。


写真塾の生徒さんは、みんな個性的なので、
私の作品が特別、個性的だったわけではないと思うんですけどね。

でも、初めて展示したときは「老人虐待だ!」って苦情が入ったみたいで、
翌日から「本人撮影のものです」と注意書きを書いてもらうことにしました。


2015年に熊本県立美術館で初の個展を開いたところ、ツイッターで話題になったみたいです。
それで、マスコミが取材に来るようになりました。

アイドルやアナウンサー、テレビで見る人たちと、写真を撮らせていただきました。
本当は、人の写真を撮るのが苦手なんです。

遠慮しちゃって。
「こういうポーズで」とお願いするのが、申し訳なくなっちゃうんですよね。

            

実は、カメラのことは全然わかんない

きれいなもの、かわいいもの、変なものを撮るのが好きです。
友達にも手伝ってもらって、自宅にも写真スタジオをつくってしまいました。
塾で宿題がでたら、3時間くらい、こもって撮影しています。


実はカメラのことは、全然わかんないんです。
わかるのは、このボタンを押したら、撮れるっていうことだけ。

それで個展まで開いているんだから、おかしいでしょ。
難しいことなんかわからなくても、写真は楽しめるんですよ。
まだまだ撮りたいものがたくさんあるんです。
老後が全然足りない。

            

好きなことは、夜遊び。
寝るのは早くとも22時くらいですかね。
友達と遊び歩いている時は、深夜1時に帰宅することもありますよ。

行きつけのバーがあって、最後は絶対ここに寄って、梅酒のソーダ割りを飲むんです。
「いつものください」って。
週に1回は来てますね。

お酒もたばこも我慢しないのが、元気の秘訣です。

            

朝は遅いです。
10時に起きれば良い方ですかねえ。

生まれはブラジル。
両親が農業指導をしていたんです。

8歳で日本に戻ってきて、小学校6年生の時に、戦争が始まりました。
女学校時代は空襲ばっかりで、全然勉強していないです。

私は今でも好き嫌いなく、何でも食べるんだけれど、
この時の経験があるから。ご飯は食べられるだけで、ありがたいからね。


それから、友人に誘われて美容学校に行って、美容師の資格をとりました。
その後は、全国を飛び回る弟にあこがれて競輪選手に。

引退して主人と結婚。
主人はすごい優しくて、何でも自由にさせてくれました。
20、30代は、子育てに一生懸命だった。
楽しい時代でしたね。


でも、家の中にいるよりも、外に出たいっていう気持ちはありました。

だから、今は毎日、何か予定をいれていますね。
写真塾だったり、運動する施設に行くだったり。
ひとりで外食することもあります。


私、料理へたくそなんですよ。
息子にも「うちにはお袋の味がない」なんて言われています。

最近は、キャベツを鍋に入れてゆでて、それにマヨネーズつけて食べています。
粗食でしょ。

きょうの朝ご飯もトースト。
甘いコーヒーに浸して食べるとおいしいんですよ。
冷蔵庫のなかはいつも空っぽです。あはは。

            

いきあたりばったりで、私も写真に出合えた。

今は、一軒家にロボットのペッパーくんと2人暮らし。
なので、よくお友達が泊まりにきます。

だけど、私はなーんもしないの。
そしたら、お友達が勝手に台所に立って、ご飯をつくってくれます。
そのほうが、お互い楽でしょう?


若い女性へのメッセージですか。
そんなたいしたことは、言えないですよ。

ただ、自分の好きなことを思い残さないように、やっていけばいい、ってことです。
私は本当に何でも、手を出すんですよ。
やってみて、うまくいかなかったら、やめればいい。

いきあたりばったりで、私も写真に出会えた。
何でも、楽しんでみて。・・》


注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
            

私は音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

こうした中で遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。
                          
そして年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受して、早や14年目となっている。


私が年金生活の当初から、我が家の平素の買物は、
私は自主的に買物専任者として宣言し、家内から依頼された品を求めて、
独りで殆ど毎日、スーパー、専門店など歩いて行き、買物メール老ボーイとなっている。

この後は、やはり自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。

このような午前中の過ごし方を定例事項のように過ごしてきた・・。

例外として、家内のボディガード、お供そして荷物持ちで、3週間に一度ぐらい駅前で買物、
或いは年に3回ぐらい都心の新宿にある伊勢丹、小田急、京王などのデパートに買物、
そして庭の手入れ、国内旅行、懇親会、冠婚葬祭などで小用がない限り、定年後の13年半を過ごしてきた。

              
         
私が買物とか散策する時の容姿は、この時節は制服のような定番の服装として、
スポーツシャツにストレッチパンズの長ズボン、ウォーキング・シューズ、そして帽子を被(かぶ)り、
紳士用のショルダー式バックを園児のように斜め掛けをしている。

そして散策する時には、殆どコンバクト・デジカメをネクタイのように首回りから下げて、颯爽と歩き、

歩いている中で瞬時に魅了された情景を、一期一会ねぇ、と思いながら撮ったりしている。

こうした根底として、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
ひたすら歩き、ときおり大股で歩いたり、或いは足早に歩くことが多くなっている。

              
                     
午後の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。



私は65歳の頃から体力の衰えを実感させられたり、恥ずかしながら70歳を過ぎた頃から
物忘れが多くなった、と改めて気付き、
独り微苦笑する時もある・・。

たとえば家内とテレビの旅番組を共に視聴したりしている時など、
あそこも行ったよねぇ、と私は家内に言ったりした時、その地の情景などは鮮やかに重ねることができても、
肝心の地域名が言葉に出来ないことが、もどかしさを感じることがある。

こうした中、私は亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖におしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

そして私は、遊歩道、公園などを散策していると、見知らぬ男性、
女性グループの御方たちと、話しかけられたり、或いは話しかけたりして、談笑し、
殆ど毎日過ごしている。

或いは、知人とか友人と時折お逢いする時は、しばらく、と私は笑いながら逢ったりして、
明るい日中だとコーヒーを飲んだり、
夕暮れすぎの場合はビール、水割りのウィスキーを呑みながら、談笑をしたりしている。

              

或いは私が勤めていたあるレコード会社のOB会と称せられる懇親会に出席したりすると、
上司だった御方たち、或いは同世代の数多くの人と談笑したりしている中、
数人から、XXさんは感性もお若いですょ、と私は社交辞令のお世辞を頂くこともある。
          
或いは女性グループの中で談笑している中、たまたま音楽の話題となり、
他社の『いきものがかり』を定年後に偶然に聴き、
何かと吉岡聖恵(よしおか・きよえ)ちゃんの歌声に、励まされていますょ、
特に『YELL(エール)』は、高齢者の私でも心身のビタミン剤ですょ、と私は言ったりした。

こうした中で、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

              

このようにつたない年金生活をしている私は、今回、初めて90歳の自撮りの女性を知り、
この御方の波乱に満ちた人生航路を学んだりした。

そして御歳をめされても心身溌溂と過ごされ、秘訣は前向きな好奇心の実践だ、
と私なりに解釈した後、恐れ入りました・・と脱帽した。

 

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「団塊世代は逃げ切り世代」、「団塊ジュニアは貧乏くじ世代」は本当か、高齢者の私は学び、やがて溜息を重ねて・・。

2018-05-22 16:41:10 | ささやかな古稀からの思い

先ほど、ときおり愛読しているネットの【マネー ポスト WEB】の経済面を見たりしている中、
【 「団塊世代は逃げ切り世代」、「団塊ジュニアは貧乏くじ世代」は本当か 】と見出しを見て、
どういうことなの、と思いながら記事を精読してしまった。

私は民間会社の中小業のある会社に35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

こうした中で遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。
                          
そして年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受して、早や14年目となっている。

             

   
過ぎし2012年(平成24年)の晩春の頃、団塊世代が65歳を迎え、大量退職が始まる年、
と雑誌を読んで教えられ、思わず微笑んだりした。

私より少し若い世代の団塊世代の諸兄諸姉は、
多くの御方は60歳で定年退職をされて、その後は年金完全支給年まで何らかの形で働かれ、
65歳になった今日、セカンドライフと称せられる年金生活を迎えられた、と私は解釈したりした。

私は25歳の時に中途入社し、何かと職場に団塊世代の諸兄諸姉の新卒の方が多く、
時代の空気を共にしてきたので、何かと親近感が増し、好感したりしてきた。

こうした中で、団塊世代の諸兄諸姉は、第一線を退かれ、年金生活を過ごされ、
今までの多忙な勤務の生活を終えて、それぞれお好きな趣味の時間で過ごされる、と思ったりした。

もとより60代は、ゴールデン・イヤーズと称される通り、身体も元気、
心は長年の勤務から解放感で満ち、心身共に第二の人生を満喫されている年代でもある。

そしてここ数年、団塊世代の諸兄諸姉の一部には、70代を迎えられ、
私は70代こそが、体力の衰えを実感させられながらも、
それぞれの御方なりに深みのある日々が過ごせますょ、と共感を重ねている。

このような私は何かと団塊世代を注視してきたので、記事を精読してしまった。

この記事の原文は、『週刊ポスト』の2018年5月25日号に掲載された記事のひとつであり、
関連の【マネー ポスト WEB 】に2018年5月16日に配信され、無断ながら
転載させて頂く。

             

《・・この国の社会には、生まれ年が1年違うだけで「得する世代」と「損する世代」に
明暗が分かれる世代間の断層がいくつもある。

例えば、60歳定年と同時に年金が支給されて
“悠々自適”の老後を送っているように見える団塊世代(1947~1950年生まれ)は
「逃げ切り世代」、

65歳になる前に“得する年金(部分年金)”を受給できる次の新人類世代(1955~1964年生まれ)は
「半逃げ切り世代」、

65歳になるまで年金をもらえず働かなければならない団塊ジュニア(1970~1984年生まれ)は
逃げ遅れた「貧乏くじ世代」と呼ばれる。

年金だけを見ると、各世代には老後の生活費に明らかに経済的格差が生じる。

そうした世代間格差は、生まれた時から決まっているわけではない。

団塊世代が生まれた時の日本の年金制度は、
自分が積み立てた保険料を老後に受け取る「積み立て方式」だった。
これなら、将来少子化が進んでも、年金財政がパンクする心配はなかった。

ところが、団塊世代が社会に出て働き、保険料収入が積み上がると、
政治家たちは、票をもらうために、その金を高齢者対策などにバラ撒いた。

労働人口が増えていく高度成長期は、矛盾が表面化しなかったが、
年金を受け取る高齢者が増えると、年金財政が急に行き詰まり、
政府は年金支給開始を60歳から段階的に65歳まで引き上げる年金大改悪を行ない、
将来の支払い額を減らした。

             

新人類世代が社会人になった1985年のことだ。

現在の世代間格差の正体は、政治家が年金失政のつじつまを合わせるための制度改悪で
つくり出した世代間の不公平なのだ。

だから、世代間の損得の境界線は、これからも政治判断でどんどん変えられていく。

 この4月、政府は75歳以上の後期高齢者が
病院の窓口で支払う医療費の自己負担を一挙に2倍(1割から2割)に引き上げる方針を打ち出した。

人口が多い団塊世代が、後期高齢者になる前に値上げし、
75歳になっても医療費を下げない仕組みをつくろうという政策だ。

団塊世代は、年金60歳支給で他の世代からは恵まれているように見えても、
医療費では、負担増のターゲットにされて「損する世代」になるのだ。

「教育」、「就職」、「出世」、「住宅」、「結婚」などの面でも
世代によって恵まれていたかどうかの環境は違う。

新人類と団塊ジュニアに挟まれたバブル世代(1965~1970年生まれ)は
好況期に青春を謳歌して就職状況も恵まれていたから、
就職氷河期に直面した団塊ジュニアからは「勝ち組」と思われている。

             

本当にそうなのか。
「損した世代」と「得した世代」は、政策の失敗とつじつま合わせで
そう思わされていることが少なくない。

アベノミクスの金融政策や女性活躍社会、働き方改革、税制が少し変わるだけで
世代の損得は入れ替わる。

だから、世代間で反目し合えば、本質を見失う。

重要なのは、少子高齢化で社会の矛盾がどんどん広がる中、
政治家が次にどこに、世代間の損得の境界線をつくり出そうとしているかを見抜いて備えることだ。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
              

思い馳せれば敗戦後の荒廃した日本は、敗戦直後からの一部の裕福な家庭を除き、
誰しも貧乏な時代を体験してきた世代である。


私より10歳以上の先代の諸兄諸姉の多くは、それぞれに奮戦し、
少なくとも世界の中でも、有数な経済大国の礎(いしずえ)を努力と英知で築かれた人々であり、
そして後続する私たちの世代、そして団塊の世代は、先輩に叱咤激励されて、奮闘してきた。

こうした結果として、確かに日本は、世界の主要国の中に於いても、
社会インフラ基本基盤として、電気、ガス、電話、上水道、下水道も殆ど整備され、
学校、病院、公営住宅もあり、鉄道・バス路線、そして道路、高速道路もあり、港湾、橋梁なども、
整備されている稀な国家でもある。

そして年金、医療、介護などの社会保障制度も、多少の難題がありながらも存続している。

その上、経済は都心の一部は活性化しているが、地方は未(いま)だに低迷している現在さえも、
殆どの国民は飢えることなく飽食の時代となり、
医療の充実もあり、主要国の中でも最先端の長寿化の超高齢化社会の時代を迎えている。

そして国民も誰でも、容体が酷くなれば、
無料で救急車に乗車できて、病院に搬送して下さる稀な国家となっている。

                          

私たちが過ごしてきた昭和の時代は、日本の多くの人たちは一生懸命に働けば、年収も毎年増え、
そして家族全員で、明日に希望が持て、実感できた総中流社会であった。

こうした中で、私たち年代を含め多くの先輩、後輩の男性は、
一家の主(あるじ)、或いは夫として、もとより家計の責務で奮闘して働いていた。

そして妻の多くは後方支援となり、育児、料理、掃除、洗濯、交際など専業主婦として奮戦し、
昭和妻の責務を果たしてきた。
            
やがてバブルが終息し、そして平成元年(1989年)11月10日からベルリン市民に寄る『ベルリンの壁崩壊』した後、
まもなくソ連が崩壊し、世界の諸国の政治はもとより、外交・軍事・経済、やがて社会が一変した。

そして世界の経済が自由主義経済の一色となり、やがて日本は失われた15年で、
主要各国や躍進してきた中国などに国際競争力に敗退し、かっての高度成長の総中流社会の再現は、
見果てぬ夢となった。
          
そして殆どの民間会社は、社員が一家を養(やしな)うだけの給与を支払う余裕もなく、低下してきた。

             

やがて私は確か7年前の頃、働いて下さる現役世代の男性の民間会社に勤めている正社員の人たちが、
平成9年( 1997年〉の時点から、年収が横ばいと知り、無力な私は悲嘆した・・。

私は何かと働いて下さる現役の諸兄諸姉に注視するのは、
もとより日本の社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用は、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っているので、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、その時の高齢者を支えている現実からでもある。

周知の通り、失われた15年での中、政治は混迷、経済は低迷、そして社会も劣化した後、
ここ10年は特に、たえず短期に成果を問われる勤務となっている。

そして大企業の正社員であっても、常時リストラ時代と称せられ、
多くの会社は正社員は6割、契約社員、アルバイトなどは4割、と知り、深く憂いたりしてきた。

このように私は漠然としながら、敗戦後から昨今まで感じ受け止めてきた・・。

             

今回の記事を読み終わった後、政治家の思惑で、それぞれの世代が翻弄されることは、
溜息を重ねたりした・・。

しかしながら2018年の社会保障給付費は、高齢化率は28・2%の現状の中、
年金は56・7兆円、医療は39・2兆円、介護は10・7兆円、
子供・子育ては7・9兆円、その他6・7兆円・・総計121兆円となり、
国内総生産(GDP)に占める割合として、21・5%と公表されている。

やがて2025年には、団塊世代が75歳以上の後期高齢者を迎え、
もとより高齢化率は増加し、社会保障給付費も膨張するので、
世代間の論争などは、せんなきことだ・・と無力な私は溜息ばかりしている。

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『グーパー・スクワット』、高齢者の私は初めて学び、セカンドライフの何よりの朗報だ、と微笑みを重ねて・・。

2018-05-21 15:27:08 | ささやかな古稀からの思い

先程、ときおり愛読しているネットの【枻(エイ)出版社】を見ている中で、
『 目指すは「ピンピンコロリ」。
          毎日1分間のグーパースクワットで脳や体の老化を防ぐ 』と見出しを見たりした。

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後39年を過ぎた古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。

そして私たち夫婦は、子供もいないので、介護などは頼れる人はいなく、
いつの日にか介護を要する身となった時は、介護施設に入居するか、或いは自宅でするか、
漠然としながらも思案し、ときおり私たち夫婦は話し合ったりしている。
        
ここ数年、私が何よりも恐れていることは、認知症となり、自身が正常に自覚をできないことである。
私は親戚の方、知人の方とか、本などで認知症の悲惨さを少しばかり学んだりし、
たとえば私が認知症となり、介護をしてくれる家内の身を案じるとたまらないのである。

或いは逆に家内は認知症となり、私が看病する場合も同様である。

認知症の本人は介護して下さる方も解らず、
何よりも介護する方は、看病する張り合いがないと思われるからである。
                                     
このような私の思いから、認知症になる前に、ポックリとこの世と別れを告げたい、と思ったりする時もある。
或いは
私たち夫婦は、大病に遭遇せずに、いつの日にか、苦しまずに安らかに、逝きたいと願っている。

            

しかしながら、私は確か5年前の頃に「ピンピンコロリ」は難しい、とネットの記事で学んだりした・・。

がん医療の権威で終末期医療に詳しい大野竜三医師(愛知県がんセンター名誉総長)は、
『・・ピン・ピン・コロリ。それは中高年なら、誰もが願う生き方でしょう。
でも、そう簡単なことでは、ありません。

現実的に60歳以上の日本人がコロリと逝くとしたら、心筋梗塞か、脳出血か、脳血栓かと思いますが、
救急搬送されれば、救命措置が施されるでしょう・・』
と私は学び、苦笑したりした。
          
そして『急性心筋梗塞』の場合は、《“バットで思い切り、胸を叩かれた感じ”、
“熱した鉄棒を、左胸のあたりに、突き刺されたみたいだった”と口にしていた。
・・手足をバタつかせて、もがきながら、救急車内で搬送中に、心肺停止するケースもありました」・・》
と何かと小心者の私は学び、動顛しながら勘弁してほしい、と瞬時に思ったりしてきた。

このような深情を秘めた私は、今回の見出しの《 グーパースクワット 》って、
どのようなことですか、と思いながら
記事を読んだりした。

この記事の原文は、デュアルタスクスクワットを考案された西川佳克(にしかわ・よしかつ)さん、
そして医学博士の米山公啓(よねやま きみひろ)さんが医療監修された『老けない脳と体をつくるスクワット』の本で、
枻(エイ)出版社の編集部が一部紹介された記事で、ネットの【枻(エイ)出版社】】2018年5月16日に配信され、
無断ながら記事を転載させて頂く。

            

《・・厚生労働省が公表した2016年の「健康寿命」は、男性が72.14歳、女性が74.79歳。
一方の「平均寿命」は男性が80.98歳、女性が87.14歳となっており、
その差は男性が約9歳、女性が約12歳。

健康寿命とは、健康上の問題がない状態で、日常生活を送れる期間のことで、
この2つの数字からは老後の10年ほどは、何かしらの健康不安を抱えた状態で過ごしていることが分かる。(編集部調べ)

超高齢化社会を迎える日本において、この10年が及ぼす影響は計り知れない。
老後を迎える本人はもちろん、支える側の家族にとっても大きな負担としてのしかかってくるわけで、
できるだけ健康寿命を延ばしたいのは、双方の願いだ。

            

☆お年寄りが口々に言う「ピンピンコロリがいい」

元NHKテレビ・ラジオ体操指導者としておなじみの西川佳克さんは、
2001~2016年の15年間に全国を飛び回り、子どもたちからお年寄りまで、
延べ50万人以上の人たちと触れ合ってきた。

そんな西川さんによると、「お年寄りは口を揃えて『ピンピンコロリ』がいいと言います。
将来、認知症などの病気になって、家族に介護されたり迷惑をかけたくないと、
みなさん一生懸命に体のことを考えているように感じました」という。

家族のためを思う『ピンピンコロリ』は、自分のためでもある。
年を重ねれば、体や脳も老けていくのは、仕方のないこと。

しかし、自分の足で歩ければ、好きな時に好きな場所に行けるし、脳が健康であれば、快適に毎日が過ごせるからだ。

そんなお年寄りの気持ちに応えたいと西川さんが考案したのが「デュアルタスクスクワット」。

ポイントは2つ以上のことを同時に行うことで、
このスクワットには西川さんがこれまでの体操の経験で培ったアイデアがたっぷりと詰まっている。

お金がかからず、続けやすい強度で、且つしっかりと負担がかかり、脳にも体にも刺激を与えることができる。
老けない脳と体をつくるスクワット、それがデュアルタスクスクワットだ。

            

☆はじめる前に大切な4つの約束ごと

それでは、いくつもあるデュアルタスクスクワットのパターンの中から、
基本の「グーパースクワット」のやり方をご紹介しよう。

はじめる前に下記の4つは必ず守ってほしい。

1.息を大きく吸って吐くことを意識しよう。動作に集中しすぎると息を止めがちになるので注意。
2.無理は禁物。体のどこかが痛い、体調が悪いときは休む。
3.気持ちいい、ややきつい程度のスクワットを短時間でもいいので、1日でも長く続けることが大切。
4.できれば裸足で。サイズの合わない靴を履いていると血液の循環が悪くなる恐れも。

ではグーパースクワットをスタート!

まずはスタンバイの姿勢から。
視線を正面に向け、手は真横に下して余計な力を抜く。脚は肩幅よりやや広めに開く。


脇をしめてしっかり親指を上に両手を握り「フー」と息を吐きながらヒジを曲げて腕を後ろに引く。と同時に腰を落とす。
このとき、内股やガニ股にならないように、ヒザはつま先と同じ方向に曲げる。


息をすばやく吸いながら立ち上がり腕を伸ばして手を大きく広げる。

1分間に18~20回を目安に、1分間これを繰り返す。

 
(出典:『老けない脳と体をつくるスクワット』

Point[1] 「フー」と息を吐く
Point[2] つま先よりヒザが前に出ないように腰を斜め後ろに引く
Point[3] すばやく息を吐く
Point[4] 腕が肩よりも上に上がらないように


☆なぜデュアルタスクスクワットは、脳と体の老化防止に役立つのか?

Point[1]
デュアルタスクスクワットのポイントは、スクワットと手をグーパーにするなど異なる動作を同時に行うこと。
この時、脳が一時的に混乱し、その混乱を整理しようと活性化、その結果、神経細胞に刺激が加わるというわけだ。

Point[2]
通常、筋肉量は、加齢にともなって減少していくが、下半身の筋肉の減少率が、もっとも高いとされている。
そこで、下半身の中でも大きい筋肉である太モモを鍛えることで、筋肉の減少を防ぎ、体全体の代謝も上げ、全身の血行もよくなる。

デュアルタスクスクワットは、脳と体にいいのはもちろん、通常のスクワットに比べて運動量が高い。

西川さんが実際に、平均年齢72歳、男性14名・女性17名の31名を対象に、
ノーマルスクワットとデュアルタスクスクワットを実践してもらったところ、
デュアルタスクスクワットの方が、運動強度が約5%ほど上回ったそうだ。

脳は学習するので、繰り返すうちに無意識にグーパースクワットができるようになってしまう。

それでは、脳が退屈して、神経細胞に刺激が入らない。
そこで、グーパーだけではなく、手を「グーチョキパー」に変えてジャンケンをしてみたり、
スクワットの時に体をひねるなど、バリエーションを増やして長く続けることが、効果アップの秘訣だ。・・》

注)記事の原文をあえて改行を多くした。
            

ここ数年は会社時代の少し先輩、或いは後輩の68歳が、いずれも大病で入退院を繰り返した後、この世を去ったり、
ご近所の私と同世代の知人が、突然に脳梗塞で死去されて、数か月の先は誰しも解らない、冷厳なこの世の実態に、
私は震撼させられたりしてきた・・。
                      
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフ健康体の三種の神器として思い、やがて信愛を重ねて過ごしている。


そして私は殆ど毎日、我が家の3キロ範囲にある遊歩道、公園などを散策し、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
ひたすら歩き、ときおり大股で歩いたり、或いは足早に歩くことが多くなっている。

今回、初めて『グーパースクワット』を学び、もとより身体に良いし、脳の活性化になるし、
高齢者73歳の私としては、セカンドライフの何よりの朗報だ、と微笑んだりした。

そして私は何かと不器用であるが、『グーパースクワット』を少し真似事を始めたりし、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病、そして寝たきりなども無縁でいたい、
と念願したりしている

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西城秀樹さん襲った脳梗塞 身近で起きたらどう対処?、高齢者の私は真摯に学び、多々教示されて・・。

2018-05-20 15:14:17 | ささやかな古稀からの思い

先程、私は長らく愛読しているネットの【NIKKEI STYLE】を見ている中で、
『 西城秀樹さん襲った脳梗塞 身近で起きたらどう対処? 』と見出しを見たりした。

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、
私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごして、早や14年目となっている。

ここ数年は会社時代の少し先輩、或いは後輩の68歳が、いずれも大病で入退院を繰り返した後、この世を去ったり、

ご近所の私と同世代の知人が、突然に脳梗塞で死去されて、数か月の先は誰しも解らない、冷厳なこの世の実態に、
私は震撼させられたりしてきた・・。

しかしながら
私は、脳梗塞の具体的なことは無知であり、真摯に学ぼうとして、
記事を読んだりした。

この記事の原文は、『日経Gooday 』の2015年7月21日に於いて、
【 夏は多発期! 脳梗塞治療は時間との闘い 】と題された記事のひとつで、
関連の【NIKKEI STYLE】に再構成されて、2018年5月20日に配信され、
無断ながら記事を転載させて頂く。

《・・西城秀樹さん襲った脳梗塞 身近で起きたらどう対処?

            

歌手の西城秀樹さんが、63歳で亡くなりました。

西城さんは2003年と2011年に脳梗塞を発症、右半身マヒの後遺症が残っていたそうです。
脳梗塞とは、どのような病気なのでしょうか。
また、身近な人が脳梗塞で倒れた時、どのように対処すればいいのでしょうか。


【問題】
   身近な人に体のまひやしびれ、ろれつが回らないなど脳梗塞の症状が出た時、どのように対処すればよいでしょう。

   1. 症状が消えることもあるので、しばらく様子を見る
   2. ただちに病院へ行く


正解は、2. ただちに病院へ行く です。

脳梗塞は、ある日突然起こり、助かっても重大な後遺症が残り、寝たきりになることも多い病気です。

最悪の事態を回避する鉄則は、「早く治療を受けること」。
発症から4.5時間以内の「超急性期」であれば、脳の血栓を溶かす薬を使うことができます。

            

■脳梗塞は「何の症状もない人に、ある日突然起こる」

脳に突然起こる代表的な病気として、脳卒中があります。
脳卒中は、脳の血管が破れる、あるいは詰まることにより、
その部分の脳の働きが失われてしまう病気の総称で、
血管が破れるタイプが「脳出血」や「くも膜下出血」、血管が詰まるタイプが「脳梗塞」です。


ポイントは、今まで何もなかったのに、ある日突然に起こること。
代表的な症状は、体の半分が動かなくなる、手足がしびれる、ろれつが回らない、
人の話を理解できない、視界の半分が見えなくなる、などです。


脳梗塞は、年齢で言えば70歳以降の人がなりやすく、つまり加齢とともに起こりやすい病気です。

中でも、脳梗塞の一番の危険因子は、高血圧です。
高血圧をわずらっている期間が長い人は、特にラクナ梗塞を起こす可能性が高くなります。

高血圧以外に、悪玉(LDL)コレステロールが多い、糖尿病、喫煙、過度のアルコール摂取なども
脳梗塞のリスクを高める要素です。

            

■夏は多発期、水分不足による脱水症状が影響

季節的に比較的よく起こるのは、夏と冬です。

夏場は、水分不足による脱水症状が影響しますが、
冬の寒い時期は、血圧が急激に上昇して起こります。

動脈硬化が進むと、特に夏は、脱水で血がドロドロになって血管が詰まりやすくなります。
不整脈がある場合も、水分不足で血栓ができて脳梗塞を起こしやすくなり、注意が必要です。


            

身近な人が脳梗塞で倒れた時の対処法

脳梗塞は、ある日突然起こりますが、
そうはいっても、一過性脳虚血発作(TIA;Transient Ischemic Attack)と
呼ばれる前兆が出ることもあります。

半身が動かない、脱力といった脳梗塞特有の症状が出た後、
しばらくすると回復するような、文字通り一過性の発作です。

この時、一番良くないのは「症状が消えたから治ったんだ」と考えて、
病院に行かずに、放置するパターンです。

特に高齢者だけの家族の場合は、外出を負担に感じて、
「主人の具合が悪いけど、とりあえず様子を見よう」ということがあります。


最近は安易に救急車を呼ぶなと言われますが、
体の麻痺やしびれ、ろれつが回らない、といった症状が出たら、様子を見ている場合ではありません。
即病院へ、と考えましょう。

なぜなら、脳梗塞は、早ければ早いほど、治療がうまくいくからです。
発症から4.5時間以内の「超急性期」であれば、
脳の血栓を溶かすt-PAという薬を使うことができます(血栓溶解療法)。
この治療がうまくいけば、完全に症状が消える可能性もあります。


ところが、この薬は「超急性期」を過ぎると、効果が落ちるため、
使うことができなくなります。

脳梗塞治療は、時間との闘いなのです。
受診を迷ったときは、下表のようなチェックポイントも参考にしてください。


 写真:NIKKEI STYLE ・・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
            

私は総合月刊誌の『文藝春秋』の25歳からの長年の愛読者で、過ぎし2016年12月号に於いて、
たまたま西城秀樹さん御自身が、脳梗塞の原因、この後の闘病、リハビリの手記が掲載されて、
真摯に読んだひとりである。

こうした中で、脳梗塞になったと思われる原因を読んだ時は、動顛させられた・・。


《・・そのときまでぼくは、最高に健康な男だと過信していました

最初に発作を起こしたのは、2003年6月。

ディナーショーのために訪れていた韓国・済州島でのことです。
猛烈にだるくて眠くて、翌朝目が覚めたら、左の頬が右より下がっていました。
ろれつも回りません。


東京の慶應病院に勤める知り合いの医師に、電話で相談したら、
「脳梗塞の疑いがありますね」。

仕事を終えて翌日、急いで帰国して病院へ行くと、そのまま入院。
「ラクナ梗塞」という病名を告げられました。

脳内の細い血管が動脈硬化などで、狭くなって血液の流れが悪くなる、脳血栓症のひとつだそうです。


そのときまでぼくは、最高に健康な男だと過信していました。
若い頃からワインを毎晩2本、タバコを1日4箱という生活でしたが、
46歳で結婚してから、食生活に気を配るようになっていました。

181センチ、68キロの体型を維持するため、ジムに通ってトレーニングも欠かしませんでした。


しかし倒れる前は、3週間で5キロの無茶なダイエット。
運動中も、そのあとのサウナでも、水分補給をしないほうが、効果があると勘違いもしていた。
そんなことが、血流を滞らせる原因になったんですね。(略)・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

私はこの記事を読んで以来、特に散策する時は、特に水分補給を注意してきた。

            

私が年金生活の当初から、我が家の平素の買物は、
私は自主的に買物専任者として宣言し、家内から依頼された品を求めて、
独りで殆ど毎日、スーパー、専門店など歩いて行き、買物メール老ボーイとなっている。

この後は、やはり自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。

            
       
こうした根底のひとつには、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
ひたすら歩き、ときおり大股で歩いたり、或いは足早に歩くことが多くなっている。

今回の記事を読み終わった後、改めて脳梗塞になったら、できる限り早めに病院で治療を受けなければ、
と思い深めたりした。

尚、私は歌手の西城秀樹さんに関しては、余り知らないが、
特に1973年『ちぎれた愛』、1974年『傷だらけのローラ』、1978年『ブルースカイブルー』の3曲が、
ハスキーで突出した歌唱力で唄いあげることに私は好感してきた。

そして確かデビューし数年過ぎた頃だったと記憶しているが、
1971年に尾崎紀世彦さんが、『また逢う日まで』などの歌で一世風靡されていたが、
西城秀樹さんは尾崎紀世彦さんのように巧い歌手になりたい、と私は風の噂として、聞いたりした。

過ぎし16日、テレビのニュースで、西城秀樹さんは2度の脳梗塞の闘病を経験し、急性心不全で亡くなわれた、
と私は知り、ただ哀悼を重ねるばかりであった。
            
そして私は、西城秀樹さんは日本の歌の世界で多彩な先駆者でもあり、
常に一歩先に戦い続けてきた稀(まれ)な歌い手・・鮮烈な記憶の足跡を残した男、と思い深めたりした。
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ときには体力の衰えた私でも、家内のボディガード、お供そして荷物持ちして、早や13年半を過ぎ・・。

2018-05-19 15:44:11 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後39年を過ぎた古ぼけた一軒屋に住み、
自動車もない稀(まれ)な家となっている。

私は年金生活の当初から、我が家の平素の買物に関して、
私は自主的に買物専任者として宣言し、家内から依頼された品を求めて、
独りで殆ど毎日、スーパー、専門店など歩いて行き、買物メール老ボーイとなっている。

この後は、やはり独りで自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。

このような午前中の過ごし方を定例事項のように過ごしてきた・・。

例外として、家内のボディガード、お供そして荷物持ちで、3週間に一度ぐらい駅前で買物、
或いは年に3回ぐらい都心の新宿にある伊勢丹、小田急、京王などのデパートに買物、
そして庭の手入れ、国内旅行、懇親会、冠婚葬祭などで小用がない限り、定年後の13年半を過ごしてきた。

          


こうした中で、昨夕、家内は、
『仙川に、買物に行きたいんですが・・

と私は言われたりした・・。

『行きましょう・・』
と私は微笑みながら若き自衛官に負けないように、明るく家内に言ったりした。

家内は我が家より遠くに住む家内の母の介護で、家内の妹と交代で、
泊りがけ行ったりし、この間は私は独りぽっちの『おひとりさま』となっている。

こうした関係で、私は家内と共に外出する機会は、減少してきたので、
せめて高齢者の夫婦の我が家でも、良き事と思いながら、私は家内に明るく応(こ)えたりした。

今回の買物先は、京王線の仙川駅に近くにあるドラッグストアの2店、
そしてスーパー、ホームセンターであった。

何かしらドラッグストアの『サンドラック』、そして『トモズ』でも、
《・・お好きな商品 いずれか1点に限り15%割引・・》の特別セールがあり、
こうした時に、我が家では日用雑貨品、家内の化粧品などを積極果敢に買い求めているので、
主旨でもあった。

          

やがて私たち夫婦は、こうした時は徒歩15分ばかり歩いて行ったりしてきたが、
ここ半年は、家内は母の介護の疲れもあり、やむなく路線バスに乗車して行ったりしている。

まもなくドラッグストアの2店で買物した後、駅ビルの中にあるスーバーの『京王ストアー』で、
家内は品を選定している間、私は2階にある本屋の『啓文堂書店』で、読みたい本を選定したりした。

今回、買い求めた本は、週刊文春が編集された『週刊文春「シネマチャート」全記録』(文春新書)であり、
過ぎし年の1977年の頃から、幾たびか刊行され、私は購読してきたが、
今回はここ40年の公開された映画作品の短評、ガイド書である。

そして平川 新さんが著作された『戦国日本と大航海時代 ~秀吉・家康・政宗の外交戦略』(中公新書)であり、
本の帯には《・・日本はなぜ「世界最強」スペインの植民地にならなかったのか・・》
こうしたフレーズに誘惑されたりした。

まもなく私は買い求めた2冊を持ち、一階にあるスーバーの『京王ストアー』に降り立つと、
家内はレジ待ちの状態であったので、お互いに微笑んだりした。

          

この後、ホームセンターの『島忠』、この2階にある『百円ショップ』(店名は忘れた)で買い物をした後、
私たち夫婦は、昼食用の食事処の選定には迷ったした。

平素は働いて下さる諸兄諸姉のご家族が、土曜日の休日で賑わっている為、
結果として、スーパーの『クイーンズ伊勢丹』で、お互いにお弁当と食べたい品を追加し、
我が家で食べることとした。

そして私は、両手にレジ袋を提げて、家内の従者のように、お供そして荷物持ちで、
家内も両手にレジ袋を提げて、商店街を歩いたりした。

やがて私たち夫婦は、路線バスに乗車して、まもなく帰宅したのは午後1時半過ぎであった。

          

このようなことを私たち夫婦は、3週間に一度ぐらいし、
体力の衰えた私でも、家内のボディガード、お供そして荷物持ちをしたりしている。

やがて私たち夫婦は、小庭から微風が流れる居間にある食卓で、
クイーンズ伊勢丹』で選定したお弁当と食べたい品を5品ひろげて、
家内は思ったより美味(おい)しいわ・・と私に微笑んだりした。

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セカンドライフ健康体の三種の神器、年金生活の私は信愛して、日々を過ごして・・。

2018-05-18 15:23:52 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、
私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごして、早や14年目となっている。

ここ数年は会社時代の少し先輩、或いは後輩の68歳が、いずれも大病で入退院を繰り返した後、この世を去ったり、

ご近所の私と同世代の知人が、突然に脳梗塞で死去されて、数か月の先は誰しも解らない、冷厳なこの世の実態に、
私は震撼させられたりしてきた・・。
                      
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフ健康体の三種の神器として思い、やがて信愛を重ねて過ごしている。


私たち夫婦は、幸運にも大病に遭遇せず、今日を迎えている。

           

たまたま私は昨日、7月のような28度前後の蒸し暑い中、
体力の衰えた私でも、小庭の草むしりを6時間ばかり孤軍奮闘したためか、
今朝は、しゃがだりすると、本調子には程遠く、独り微苦笑をした。

やむなくラジオ体操の真似事を手抜きながら、少ししたりした。

やがて朝食後、迎え運動をしたく、本日は平素の逆に、散策の後、買物とした。

私の住む地域は、過ぎし13日に小雨が降った後は、
翌日より28度前後の7月中旬のような熱い日々が続き、
何かと熱さに苦手な私は戸惑ったりしている。

そして空を見上げたりして、今から熱くなって夏本番はどのようになるのょ・・
と天候の神々の采配に微苦笑してきた・・。

こうした影響で、私は本日より夏模様に衣替えをして、家を出た。

アロハシャツに夏用のストレッチパンズの長ズボン、ウォーキング・シューズ、そして帽子を被(かぶ)り、
紳士用のショルダー式バックの中には、扇子とサングラスを入れて、園児のように斜め掛けをした後、
コンバクト・デジカメをネクタイのように首回りから下げて、颯爽と歩いたりした。

こうした中、歩いている中で瞬時に魅了された情景を、一期一会ねぇ、と思いながら
記憶のかたみとして撮ったりしている。


そしてノロマの私でも、いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
ひたすら歩き、ときおり大股で歩いたり、或いは足早に歩くことが多くなっている。

自宅を9時過ぎ出て、付近に流れている野川の両岸にある遊歩道を歩いたりした・・。

           

そして樹の多い中を選んで、遊歩道を歩いたりした。

           

           

やがて小公園に立ち寄ったりした。

           

           


こうした時に、見知らぬお孫さんを引率した50代の御婦人に、
『季節外れの熱さとなり、私は戸惑ったりしています・・』と私は話かけて、
『あたくしも、ですわ・・』と応(こた)えて下さり、
私たちは数分ばかり立ち話をして、談笑したりした。

           

このような所を一時間半ばかり歩き、やがて私はスーパーで買物をする為に、
向かって歩いたりした。

           

やがて平素の買い物を終えて、帰宅したのは12時過ぎであった。

このようにとりとめない散策を午前中の大半を過ごしているが、
体力の衰えた私として、心身ともに自立し健康的に生活できる健康寿命を維持するひとつだよねぇ・・
と微笑んだりしている。

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ときには小庭の草むしり、28度前後の蒸し暑い中、汗まみれ泥まみれとなり、微苦笑を重ねて・・。

2018-05-17 15:05:52 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の73歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中、私は今朝5時半過ぎに起床した後、朝食を頂き、
やがて7時少し前に、玄関庭に下り立った・・。

今の時節は、樹木の枝葉が一年で一番伸長するし、雑草も負けじと地表に茂る季節でもある。

枝葉の剪定は、過ぎし13日に体力の衰えた私を見かねて、家内の支援を受け、
程々に完了したが、草むしりまでは体力がなく、結果として私は本日に挑戦することにした。

家内は、室内で衣服の夏替えに本格的に整理しているので、私は独りで草むしりをした・・。

           

28度前後の蒸し暑い中、草むしりに熱中していると汗ばみ、
樹の下にも雑草が生い茂っている為、這(は)いずりながら草むしりをしたりすると、
まもなく汗まみれ泥まみれとなったりしたが、人生は気合だ、と体力の衰えを実感している私は、
自身を叱咤激励をしたりした。


この間、家内から一時間毎に『お茶を飲みますか?・・』と居間から、
私は尋ねられて、水分補給不足で、倒れるのは困苦するので、
冷えた煎茶を簡易椅子に座りながら、飲んだりした。

私は
何にかと暑さに苦手であるが、強い陽射しを受けながら、奮闘したりした・・。

           

やがて私は、本日はここまでね、と室内で衣服の整理している家内に言ったりしたのが、
午後一時であった。

まもなく私は浴室に入り、シャワーを浴びた後、
くまなく体に石鹸を塗り、タオルで全身を擦った後、シャワーを浴びたりした。

そして髪の毛もシャンプーで洗い、やがてぬるめのお湯のシャワーを全身を清めた後、
ぬるめのお湯の湯船に10分ぐらい身も心もあずけたりした。

やがて浴室から出て、さっぱりと心地よい身と心情を実感したりした。

まもなく私は遅い昼食とした。

我が家は昼食だけは、お互いに拘束されるのを避けて、
それぞれフリーとしている。

私は今回は異例であるが、アイスコーヒーを飲みながら、
疲労感を感じているので、あんぱんのつぶあん、こしあんを食べたりした。

この後、小庭が少しばかり小綺麗になった情景を見て、
6時間ばかり孤軍奮闘した成果があったよなぁ・・と微笑んだりした。

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