夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

たがが『定額給付金』、されど『定額給付金』・・♪

2009-03-31 09:34:48 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
昨夕、調布市の調布市定額金支給実施本部より、
『定額給付金 申請書在中』と明示された封筒が郵送されてきた。

私は苦笑しながら、封筒を開けて、
給付金額リスト(世帯員詳細)として、私、家内の氏名が書かれ、
それぞれ12000円、合計額24000円と明記されていたのである。

そして、同封されている『定額給付金 申請書』と送付用の封筒で、
郵送すれば、申請から振込みまで最長二ヶ月程度・・
と明記されていた。

私は少しボケた身であるが、この『定額給付金』に関しては、
複雑な思いで、昨年の秋から注視してきた・・。


2008年10月30日の時点に於いては、
【 『定額給付金』は、麻薬と同じようなので、険悪・・♪ 】
と題して、このサイトに投稿したりしていた。

その後、景気浮揚策を真剣に考えれば、
国民ひとりに高額を支給しなければ本当の効果は得られない、
と何か読んで、そうだよね、と私はうなずいていた・・。


そして、2009年2月下旬の頃、ネットでニュースを検索した時、
経済アナリストの森永 卓郎氏が『検査定額給付金は本当に意味のない政策か』
と題した提言に、
偶然に読んで、やはり専門家のご提言はまぎれなく正論だ、
と深く賛意したのでる。

http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/o/172/index.html

森永 卓郎氏の提言は、給付金の必要性を明論した後、
最終の部分に、
【・・
1人当たり1万2000円の給付で、ここまで萎縮した国民の気分が切り替わることはないだろう。
世帯平均で4万円に満たない金額では、普段の生活費に紛れてしまって、
大きなものを消費しようという気にならない。

わたしが言い続けてきたのは、最低1人あたり10万円の給付である。
4人家族で40万円あれば、大型家電や車を買い替える人も出てくるだろう。
何より、いまの閉塞感を打破することが可能になる。

財源はある。たとえば、霞が関のいわゆる埋蔵金だ。
外為特会(外国為替資金特別会計)こそ減少してはいるが、
それでも財務省所管以外の特別会計に手をつければ30~40兆円やそこらはすぐに出てくる。
1人10万円の給付なら必要な予算は12兆円なので、十分に足りる。
・・】
注)記事の原文より、あえて改行を多くした。


このように私は読みながら、大いに経済アナリストの森永 卓郎氏の提言に、
まぎれなく正鵠な提言と確信したのである。

このように私は、実施されているわずかな『定額給付金』は実感が乏しく、
少なくとも10万円以上でなければ、
経済の浮揚効果はないと、ぼんやりと思ったりししている。



尚、私が今2008年10月30日の時点に於いては、
【 『定額給付金』は、麻薬と同じようなので、険悪・・♪ 】
と題して、
このサイトに投稿したりしていたが、あえて再掲載をする。

【・・
私は年金生活の4年生の身であるが、
昨日、読売新聞を読んで、景気浮揚の一環として、
『定額給付金』を年度内に実施の予定を知り、
驚いたり、ため息ををしたりした。

午後になると、【YOMIURI ONLINE】を検索している時、

【 定額給付金は全世帯に、所得制限見送り…自公が最終合意 】

という見出しがあり、私は精読しはじめたのである。

【・・
政府・与党は29日、追加景気対策の柱となる定額減税に代わる定額給付金について、
全世帯を対象に2兆円規模で実施することで最終合意した。

所得税と住民税が課税されない低額所得者の一部は対象外とする案も検討されたが、
株価急落で景気の先行き不透明感が強まったことから、
幅広く景気刺激効果を狙う必要があるとして、全世帯を対象とすることにした。

与党は当初、定額減税と減税の恩恵が及ばない非課税世帯に対する臨時福祉特別給付金の二本立ての対策とし、
特別給付金は高齢者などの生活困窮世帯に限定する方針だった。

高額所得者は定額給付金の対象外とすべきだとの意見もあったが、
「所得額を把握するには法改正などの手続きが必要になる」(総務省幹部)ことから、
年度内実施のために所得制限は見送られた。

総額2兆円を2008年3月末現在の全国の世帯数で単純に割れば、
1世帯あたりの給付金は約3・8万円になる。
実際の給付額は家族構成によって異なる。

追加景気対策は30日に決定する。
具体的な給付方法は今後、支給窓口となる市町村と協議する。

・・】

無断であるが、上記が記事の全文である。
注)記事の原文より、あえて改行を多くした。


私は憂鬱になったのである。
確かに私を含めた年金生活にとっては、朗報であるが、
国が財政赤字なのに、これ以上増やしても大丈夫なの、
そして果たして『定額給付金』は景気浮揚の効果があるかしら、
と思ったのである。

1部の政治に関連した方たち、選挙対策の『ばらまき』と批判したいるが、
私もまぎれなく『清き一票』を国民から買収する策と感じ、
心の純潔を汚されたように思ったのである。


昨今は高齢者社会となり、社会保障の財源は国家の財政を圧迫しているので、
私は年金生活で、何かと心苦しく感じる時もある。
そして政治家の諸兄姉は、清き一票を多く獲得するには、
ご年配者を優遇すれば念願が叶うが、これは麻薬のような政策であり、
一時は良くても、あとで苦しむのは、国の財政と
現実に汗水を流して働いて下さる人たちなのである。

1部の人たちは、国力が衰退するよりも、
目の前の国民の生活を優遇するのが肝要である、と叫ばれているが、
果たして私たちの世代が亡くなった後は果たして・・と思っているのである。

たわむれで発言させて頂ければ、
私は年金生活で子供に恵まれなく、次世代、そして孫の世代も心配しないので、
国の財政赤字が膨らみ、孫の世代が困窮しても、
私は既にあの世である。


私たち、ご高齢者の人々は、社会保障の最優先の政策にすがることなく、
働いて下さる人方たちのこれ以上の負担をなくし、
程々に心の節度を持って過ごすことが、
何よりの次世代、孫世代のお手本となる、と考えたりしている。


余談であるが、かって1999年に於いて、
『地域振興券』として約7000億円が配布された。
ご高齢者の多くは、2万円が配布されて、買物に使ったりした、
と聞いたりしたことがあった。

私はこの頃は、あるレコード会社に勤めていたが、
宇多田ヒカルという歌手が『First Love』というCDアルバムが発売され、
たちまち765万枚の空前の売れ行きとなり、
ご高齢者の一部の方がお孫さんの歓心を乞う為に購入された、
と風の噂で聴いたことがある。
私はこれまでの業界のCDアルバムの記録は500万枚前後であったので、
そう云われれば本当かもしれないねぇ、と友人と苦笑したのである。
・・】


このように投稿していたのであるが、
政治・経済に疎(うと)い私は、齢ばかり重ねたボケた身と、
反省しながらも、恥じている・・。



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私達夫婦の新婚時代は・・♪

2009-03-30 10:39:32 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
昨夜の夕食の時に、
『明日・・あたしたちの結婚記念日ね・・』
と家内から私は云われ、微苦笑をしたりした・・。

今朝、少し寝過ぎて、ぼんやりと庭先のテラスで、
春の陽射しのつつまれた樹木、草花を眺めながら、煙草を喫ったりし、
私達夫婦は子供に恵まれなかったが、こうして34年を迎えることが出来たか、
と思ったりしたのである。

そして、居間に戻り、パソコンで私が新婚の頃の想いでを投稿した文を読みながら、
しばらくの間、煎茶を飲みながら、読んだりしていたのである・・。


【 新婚旅行・・♪ 】と題して、
あるサイトに2005年10月28日に投稿しているが、
あえて再掲載をする。

【・・
私達夫婦は、昭和51年の春に結婚した。

この頃の新婚旅行は、友人達はハワイ旅行が多くなり始めていた。

私は海外に行くより、京都と長崎をゆっくりと観るのを希望した。
京都は日本文化、長崎は江戸時代の西洋文明の発祥地という理由だった。

会社における私の担当する業務の関係で、休暇は1週間が限界である上、
国鉄が1部ストが予定されていたのである。

結局は、長崎の遠方を避けて、倉敷、六甲山、京都となった。

結婚式の当日は、午後より結婚式、そして夕刻より披露宴であったが、
台風のように春の嵐で、風が吹き、ときおり小雨まじりの日中であった。

披露宴に来客して下さる方々に恐縮していたが、
私の育ち、そして今後の人生を暗示しているかのようだった。

披露宴が終了し、ニューオータニに宿泊した。
翌朝、朝食をしながら窓辺からの景観は、
快晴の上、都心の良き縮図を現していた。

東京駅で家内の友人達に見送られ、
岡山駅に向かい、そして倉敷に着いた。

翌日の三時頃まで、倉敷を散策した。
幾度もハイヤーに乗ったり、程度の高い宿泊先、新幹線はグリーンといったように
身分不相応し、落ち着きがなかったので、散歩の折は心身良かったのであった。

この後、新神戸に行き、駅前より観光ハイヤーに乗り、付近を周遊した後、
六甲山のホテルに泊まったが、ホテルが改装中で神戸の夜景は観ることが出来ず、
部屋でワインを呑んだりしていた。

翌朝、京都の鴨川の畔(ほとり)にあるホテルで泊まった。
夕食は地下の割烹で、京料理を食べながら、日本酒を呑む。

翌日は西方寺を観た後、鴨川を散策した後に帰京した。

たった3泊4日の新婚旅行となったが、
翌日は仲人の宅などの挨拶廻りを二日ばかりして、短い休暇は終わった。

翌年の春、ニューオータニに宿泊し、
家内はドレスを身に付け、
ワインを呑みながらフランス料理のデイナーとした。

このホテルの庭園、そして景観が私共を魅了したからである。
・・】



そして、この後の新婚生活の頃を
【  夢の中で・・♪ 】と題して、
翌日の2005年10月29日に投稿しているが、
あえて再掲載をする。

【・・
   第一章

私達夫婦は、昭和51年の春に新婚生活の始めた。

入居した所は、東京都と千葉県の間に流れる江戸川沿いにある『国府台』であった。
この駅は東京医歯大、和洋女子大、国府台高校などある学園街であった。

この頃の『国府台』駅は、木造造りの駅舎で、
私共は最初に観た時はこうした老朽化した建物に驚いたりした。

駅より商店街を抜けると、真間川が流れて折、
この近くに賃貸マンションがあり、ここの最上階の1室を借り入れた。

角部屋の窓を開けると、樹木に覆われた小高い丘にお寺があった。
私はこの窓辺から観える景観に魅了され、借り入れることを決めたのである。

このお寺が由緒ある弘法寺(ぐほうじ)であることを知るのは後日ある。



   第二章

4月の初めの日曜日、家内と連れ立って付近を散策した。

住宅街のはずれに弘法寺への石段があった。
60数段を昇りきると仁王門があり、
仁王の特有の表情を見せており、運慶の作といわれているが、
こうしたことはどうでも良いことである。
ただ、歴然と私共の前に仁王の容姿を見れば、
まぎれなくその時代の作者が仁王に心身を懸けて取り組まれたのを受容できた。

境内は広々としていた。
正面には祖師堂、本師堂が並び、
右側には土塁の上に鐘楼堂があり、
左の遠い彼方に中雀門と本堂があった。

私共は祖師堂の右側にある枝垂桜に吸い込まれ、歩み寄った。
静寂な境内のはずれに、枝垂桜の大木は、
世間の喧騒も捕われず、淡々と花びらを湛えていた。

家内と共に語り合い、歳月を共に過せる喜びに慕ったひとときを重ねてきたが、
行く先に世間の荒波が待っている事は、
この時は解らなかった。



   第三章

私はこの頃会社の担当業務で忙しく、
日曜日以外は休めるような状態ではなかった。

桜が散りかけた頃、この弘法寺を家内と散策していた時、
雑木林の開けた所で、中高年の30数名の男女の方達が、
料理と酒など持ち寄って、大声でそれぞれのお方たちが談笑していた。

そばに『国府台砲兵之碑』の石塔が建てられていた。

大家さんから先週に聞く所に寄ると、
戦前はこの付近に陸軍の野戦重砲第7連隊があった、と教えてくれた。

あの戦いに明け暮れ、不幸にも亡くなられた方達の身寄りの人が、
こうして桜の舞い散り中、供養されていると思えた・・。

この小高い丘に立つと、街並みが一望できた。

風は樹木の間をゆるやかに流れ、
春の木洩れびの光の中で、夢幻のようなひとときであった。

私共の夫婦は、少し離れた所で、
ビールを呑みながら、持参したお握りを食べはじめた・・。



   第四章

晩秋の頃、家内の師事している先生が、
この弘法寺にある遍覧亭の茶室で、
お茶会を行なった。

この頃の家内は、週二回先生の宅にお稽古に和服で、通っていた。

家内の妹と友人達の社中の人々は、
私達の家に立ち寄ってくれた後、お茶会に行った。
後姿の女性達を見送り、華やかな雰囲気に私は包まれた。

この後にしばらくして、雨が静かに降ってきた。

その後、家内より電話があり、何かしら届けて欲しい、と連絡があった。

私はセーターとズボン、素足の下駄でこのお茶室までの道を5分ほど歩いた。

お茶室の水屋近くで、声を掛けた。
家内の妹が出てきて、手渡した。
普段、見慣れない和服だったので、
私は眩しげに観た。

帰路の時は、雨は止んでいた。
静寂な弘法寺を後にし、迂回した坂道を降った時、
道の端に雨水が流れ、落葉した紅葉、黄葉が流れ下っていた。

私達はこの弘法寺の近くで仮住まいを2年過した後、
私の実家の近くに移り住んだ。

こうして30年近く前の情景を想い返して、
綴ってきたが、今から観ると新婚生活のこの時の時代は、
夢の中のような出来事であった・・。
・・】


このように拙(つたな)い綴りで投稿していたので、
今こうして読み返すと恥ずかしい限りであるが、
私達夫婦の人生の駆け出しの新婚時は、
まぎれなく余りにも人生の苦楽も知ることが少ない甘味な時代でもあった。




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改めて、私の若き頃、五輪真弓の唄声と共に・・♪  

2009-03-29 16:24:24 | 音 楽
私は東京オリンピックが開催された少し前に大学を中退し、
映画・文学青年の真似事を4年ばかり過ごしたりした。

この後は、コンピュータの専門学校で一年間ばかり学んだ後、
遅ればせながら昭和45年(1970年)の春に、
ある大手企業に中途入社ができた・・。

まもなくして、この会社の音楽事業本部の中の大手レーベルのひとつが、
レコード専門会社として独立した。
私はこのレコード会社に異動されて、コンピュータ専任者として配属していたが、
制作畑のように直接に音楽に携わる部署でなく、
管理畑であったので、ある程度は気楽に職場に流れる音楽を聴いたりしていた。


昭和47年の初秋、私は日曜日で自宅でラジオを聴きながら、
身のまわりの整理をしていた。


♪あたたかい陽のあたる
 真冬の縁側に
 少女はひとりで
 ぼんやりと座ってた

【 『少女』 作詞、作曲、唄・五輪真弓 】


私は思わず手を止めて、ソファに座り、
煙草に火を点(つ)けた・・。


♪つもった白い雪が
 だんだん とけてゆくのを
 悲しそうに 見ていたの
 夢が大きな音を
 たてて 崩れてしまったの

【 『少女』 作詞、作曲、唄・五輪真弓 】


私は瞬時に感性の鋭い人と思い、初めて作詞・作曲し、そして唄っている人が、
五輪真弓と知ったのである。


翌朝、会社で、たまたま私が朝礼の当番であった。

本社の営業本部、同じフロアーの営業所の数多くいる社員の前で、
私は前に立ちながら、一通り業務関係を言った後、
『・・CBSソニーさんから、凄い感性のある人でデビューします。
10月に発売されますが、五輪真弓という若い女性が・・
「少女」という曲で・・感性と感覚が際立って・・』
と私は他社のアーティスであったが、半分得意げで言った。

たまたま営業の本部長の所に、邦楽の制作本部長が打ち合わせて来ていたのを、
後で知った。

この後、一時間後に、私は制作本部長とエレベータの中で、
偶然ふたりとなった。
『・・お前さんねぇ・・よく言うょ・・』
と微苦笑された。

私はレコード会社で、コンピュータ専任者の身であったが、
世の中の怖さも知らず、颯爽とし風をも切るような27歳の時であった・・。


この後、五輪真弓のレコードのアルバムの発売日に待ち焦がれ、
『五輪真弓/少女』を買い求めたのは昭和47年(1972年)の10月の下旬であった。

この頃の私は、個室にレコード・プレイヤー、プリメイン・アンプ、そしてスピーカと、
この当時の普通の音楽ファンの機器構成で聴いていた。
しかし、この頃の機器は、私の基本給の月収より数倍高く、
私はローンで返済していた。

そして、私は帰宅後、このアルバムに夢中になり、
殆ど毎日聴いていたし、会社の友人はもとより次兄にも賞賛をしたりしていた。

翌年の7月に『風のない世界』が発売されて、
特にこの中の一曲『煙草のけむり』には、この人の才能が満ち溢れている、
と友人らにも絶賛していた。

確か数年後であったと記憶しているが、
虎ノ門ホールで五輪真弓のコンサートがあり、
この頃に交際していた女性と私は観たのである。

この女性はある音楽大学を卒業したばかりで、
先生に師事しながら、ピアニストを目指している人であり、
私はピアノを専攻する人に多少なりとも気後れしながらも、
この女性をピアノを弾きながら自身の作詞・作曲され歌を唄う五輪真弓のコンサートに、
誘い出したのである。

この女性とは、コンサートの終了後に食事をしていた時、
虎の門ホールの音響のことなどを話したりした後、
五輪真弓に関しては才能のある人ね、
と私は聴いて、私なりに五輪真弓のデビュー以来才能を認めたひとりとして、
賛意されたので、安堵したりしていた。

そして、この間も、渋谷、新宿で度々待ち合わせ、夕食を共にした後、自宅に送り、
この方の母親に可愛がって頂だき、親愛の情をしぐさを見せてくれたりした。

私の住んでいる所にも来て貰ったり、
私の実家にも連れて行ったりしていた。

このような時、有数なソプラノ歌手のコンサートが東京文化会館の小ホールで開催され、
伴奏としてのピアノを弾く担当に選ばれ、
私は当然のような気持ちで、このコンサートを観たのである。
ただ開演前、ロビーにいる時、
私が今までの人生で体験したことのない、音楽大学の現役、卒業生の20代から50代の人たちが、
特有な雰囲気につつまれていると感じたりしたのである。


私は結婚したい、と申し込んだ夜、
『貴方が思っている・・サラリーマンの良い奥さんには・・なれないわ・・』
と言った。

確かに毎日少なくとも8時間前後はピアノ弾いているので、
サラリーマンの家庭に多くある生活ペースは無理もあるが、
私は承知の上だ、とも言葉を重ねたりした。

数ヵ月後、貴方に負担をかけたくないの、
と私は言われ、
私は失恋をしたのである。


私は五輪真弓に関しては、スターとなった今、
何となく遠ざかり、シャンソンなどに夢中になり、深めていった・・。


私は数年後、妹の嫁ぎ先の父親が茶事で知り得た女性を紹介され、
しばらく交際した後、この女性と結婚した。

私が家を建て始めて、ローンの負担が重苦しく感じ、
数年続いた折、私は懐かしい歌声を聴いたのである。


♪枯葉散る 夕暮れは
 来る日の寒さを もの語り
 雨に壊れた ベンチには
 愛をささやく 歌もない

【『恋人よ』 作詞、作曲、唄・五輪真弓 】


私は思わず、真弓ちゃんだ、と心の中で叫んだのである。
そして、相変わらず、才能を発露させ、確固たるスターの五輪真弓さんに、
しばらくぶりだったけれど、凄い詞を書いたよね、
と心の中で祝杯したりしていた。


♪恋人よ そばにいて
 こごえる私の そばにいてよ
 そしてひとこと この別れ話が
 冗談だよと 笑ってほしい

【『恋人よ』 作詞、作曲、唄・五輪真弓 】

私はピアノニストに熱望した人は、今はどうされているか解からないが、
私にとっては青年期の終りの頃の貴重な苦い想いのひとつである。



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年金青年の私、ピアノの名曲で好きな曲は・・♪

2009-03-29 09:37:07 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
昨日の午前中のひととき、私は主庭のテラスに下り立ち<
樹木、草花を眺めながら、煙草を喫っていると、
近所のお宅からピアノの音色が聴こえてきた・・。

女の子の弾くのは、バイエルの何番かしらと思ったりした・・。

私は小説、随筆などの読書、居間で映画を観たりしているが、
ときおり音楽も聴いたりしている。


音楽に関しては、小・中学期の音楽の通信簿は『2』の劣等性であり、
音譜も読めない素養のない身である。

25歳の時に、民間会社に中途入社した時、この中の音楽事業本部に要望し、
この中のひとつの大手レーベルが、まもなくレコード会社として独立され、
私も配属されて30数年勤めたのであるが、
私自身は管理畑で情報部門を大半を所属した身であるが、
職場上は音楽が流れたりしていたので、何かと音楽の数々を聴く機会が多かった。

これまでの私は、二十歳の頃に偶然に、
モーツァルトの《ピアノ協奏曲 第20番》に魅了されたぐらいで、
クラシックの名曲を殆ど知らなかったひとりであった。

こうした中で、業務上の関連として音楽の曲の話題になると、
恥をかく無邪気な私であったが、
それなりに各分野の曲を平然と聴いたりしていたが、
いまだにオペラとジャズは苦手である。


私が昭和48年前後の頃、ある休日の時に、
ショパンの『12の練習曲 作品10』を聴き、瞬時に魅了された・・。
ピアニストのポリーニのレコードであり、
私は熱愛し、半年ばかり殆ど毎晩聴いたりした・・。

その後、『25』も発売されて、私なりに愛聴した。

そして10数年後、CDの時代となり、レコードと同じ録音であるが、
たった一枚で『12の練習曲 作品10、25』が収録されているので買い求めたりした。


年金生活の今、各分野の音楽をその日の心情で聴いたりしているが、
クラシックのピアノの名曲の中で、
最も聴くことが多いのは、2枚のCDである。

小説の世界にたとえれば、
長編小説としては、モーツァルトの『ピアノ協奏曲 第20番』で、
短編の小説を集めたれたのがショパンの『12の練習曲 作品10、25』であり、
私としては、最上の作品として、愛聴しているのである。


つたない感性から選定したのであるが、
具体的に何が良いのか、と問われれば、
ご自分の愛している女性のどこが良いのか、
と同様な質問と思われるので、明記しょうがないのである。



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戸川昌子の『リリー・マルレーン』の名曲を久しぶりに聴いて・・♪

2009-03-28 17:02:09 | 音 楽
私は東京郊外に住む64歳の年金生活の身であるが、
午後のひととき、【YouTube】を開き、
シャルル・アズナヴールの『帰り来ぬ青春』、『遠い想い出』、『イザベル』、
『ボエーム』、『愛のために死す』等を視聴したりした。

この後、エディト・ピアフの『水に流して』などを聴いたりしたが、
この曲も数多くの歌手に歌い継がれている。
日本の私にとっては未知の歌手も唄って折、
私は視聴した後、この方は『リリー・マルレーン』の曲も唄っていたので聴いたりした・・。


『リリー・マルレーン』の名曲に関しては、
フリー百科事典として名高い『ウィキペディア(Wikipedia)』に於いて、
【・・
『リリー・マルレーン』(Lili Marleen)は、第二次世界大戦中に流行したドイツの歌謡曲。

1915年にロシアへの出征を前にドイツの詩人ハンス・ライプ (Hans Leip) が
ベルリンのある兵営の営門に歩哨に立った時に
創作した詩集 "Das Lied eines jungen Soldaten auf der Wacht" に収録されていた詩をもとに、
第二次世界大戦直前の1938年に、作曲家ノルベルト・シュルツェ (Norbert Schultze) が曲をつけ、
歌手のララ・アンデルセンが歌った。

歌詞は、兵営の大門の前に街灯が立っている。
そこで恋人と再会したいと熱い思いを歌ったものである。
男性の気持ちを歌った詩であるが、女性歌手によって歌われることが多い。

第二次世界大戦下では、21時57分にベオグラードのドイツ軍放送局から流れるこの歌に、
多くのドイツ兵が、戦場で耳を傾け故郷を懐かしみ、涙を流したといわれている。
また、ドイツ兵のみならずイギリス兵の間にも流行したため、
北アフリカ戦線のイギリス軍司令部は同放送を聞くことを禁じた。

日本ではベルリン出身のハリウッド女優、マレーネ・ディートリッヒの持ち歌として知られている。
第二次世界大戦当時、ナチス政権下のドイツを離れ、
アメリカの市民権を得ていたディートリヒは進んで連合軍兵士を慰問、この歌を歌った。
このためにドイツでは彼女は敵側の人間(反逆者)と見なされ、戦後も不人気であった。
・・】


このように解説されているが、
私はマレーネ・ディートリッヒに敬意しながら、彼女の歌声に心酔した後、
著名な海外の歌手の3名のお方のも視聴したりした。

この後、日本語も聴きたくなり、
【YouTube】の検索で、戸川昌子、とキーインしたら、
数々の歌曲が明示されたので、驚いたのである。


♪ いくさに行く前の夜
  子どものように泣きじゃくり
  私の名前をあなたはつぶやく
  ※いとしいリリー・マルレーン
   いとしいリリー・マルレーン

【 『リリー・マルレーン』作詞・ハンス・ライプ、作曲・ノルベルト・シュルツ、訳詞・なかにし礼 】


私は37年前の前後、この頃の私は銀座の一角にある『銀巴里』に行き、
数多くのシャンソン歌手が近くで唄われるのを、
私はコーヒーを飲みながら、名曲の数々を聴いたりしていた。

そして、近くにあるカフェ・バー形式のような『蛙たち』にも行き、
私は濃いめ水割りのウィスキーを呑みながら、数多くのシャンソン歌手が唄われるのを、
聴き惚れ、心酔していた時期であった。

このした中で、フランスはもとより、日本の方の唄ったシャンソンのアルバムを購入し、
シャンソンに無我夢中の時期であった。
アルバムの中で、日本人の中では、特に金子由香里さんに熱中していた。

『時は過ぎていく』、『ミラボー橋』、『スカーフ』、『愛の砂漠』等の50数曲に、
まぎれなく時を忘れたくらいに熱愛したのである。

こうした時に、東芝レコードから、戸川昌子の『失くした愛』と題されたアルバムを知り、
購入して聴いたのであるが、仰天したのである。

私は戸川昌子さんに関しては、推理分野を書く小説家であり、数作品は読んでいた折、
以前に『銀巴里』で唄っていた、この程度しか知らない私であったが、
桁外れに上手いのである。


♪ 窓の下を兵隊の
  長い列が町を出る
  私を見あげてあなたは叫んだ
  ※(くりかえし)

【 『リリー・マルレーン』作詞・ハンス・ライプ、作曲・ノルベルト・シュルツ、訳詞・なかにし礼 】


この『リリー・マルレーン』は『失くした愛』と題されたアルバムの中のB面の一曲目に収録されてあるが、
この曲はもとより、『私はひとり片隅で』、『金曜日の晩に』、『暗い日曜日』、
『人の気も知らないで』、『ボンボヤージュ』等12曲であるが、
深く魅了されて、人生の姉貴である、と敬意したのである。


♪ 夜空の下鉄砲を
  抱えたまま眠る歌
  汚れた私の写真を取り出し
  ※(くりかえし)

【 『リリー・マルレーン』作詞・ハンス・ライプ、作曲・ノルベルト・シュルツ、訳詞・なかにし礼 】


こうして、『失くした愛』と題されたアルバムを百回前後、
レコード・プレイヤーで聴いたりしている間に、
私はレコード会社の本社でコンピュータの専任者で管理畑の身であったが、
洋楽の編成者、責任者に、
『東芝レコードで・・シャンソンで戸川昌子さんの今度のアルバム・・
凄いですよ・・私はシャンソンが好きなので良く聴きますが・・
桁外れに上手いです・・』
と他社のアーティストであったが絶賛し、友人にも話したりしていた。


♪ 地獄のような戦いに
  身を捧げて傷ついて
  倒されたあなたは最後に叫んだ
  ※(くりかえし)

【 『リリー・マルレーン』作詞・ハンス・ライプ、作曲・ノルベルト・シュルツ、訳詞・なかにし礼 】


私は35歳を過ぎた頃、他の分野の音楽に夢中になったが、
ほぼ10年間にシャンソンに熱中し、アルバムとして150枚ばかり残った時、
私にとってはピアフ、バルバラはもとより最上の神であるが、
日本語で唄われたシャンソンは、戸川昌子さんの『失くした愛』が傑作であり、
私はつたない観賞歴であるが、これ以上のアルバムは知らない。


♪ 平和の日は来たけれど
  あなたはまだ帰らない
  瞳を閉じれば聞こえるあの声

【 『リリー・マルレーン』作詞・ハンス・ライプ、作曲・ノルベルト・シュルツ、訳詞・なかにし礼 】


このようなことを思い重ねて、私は2回ばかり、
20年ぶりに聴いたりした・・。

そして、私は齢を重ねた64歳の身となったが、
今でも戸川昌子さんの『リリー・マルレーン』の唄声を聴くと、
まぎれなく人生の姉貴だ、と感じたのである。




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改めて、それぞれの桜を女性に譬(たと)えれば・・♪

2009-03-28 09:27:14 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
ここ5日ばかり寒の戻りとなり、花冷えの日々となっている。

先程、8時過ぎに主庭に下り立ち,
薄曇りで、ときおり北風の吹く中、煙草を喫いながら、樹木、草花を眺めたりした。

そして、居間に戻り、パソコンに向かったが、
この時節、私は何を綴ってきたか思いながら、私は読んだり、
苦笑したのである・・。


【 それぞれの桜を女性に譬(たと)えれば・・♪ 】
と題して、2007年4月1日にあるサイト投稿したが
再掲載をする。

【・・
私は桜より梅の花が好きであるが、この時節は桜の花か咲く頃は、
やはりそわそわ落ち着かない。

東京の郊外では、平年では染井吉野(ソメイヨシノ)の桜が咲き、
そして山桜(ヤマザクラ)、最後に八重桜(ヤエザクラ)が咲いている。


世中にたえてさくらのなかりせば
            春の心はのどけからまし
 
               作者・在原業平朝臣

久方のひかりのどけき春の日に
            しず心なく花のちるらむ

               作者・きのとものり

山里の春の夕暮きてみれば
            入相の鐘に花ぞ散りける
     
                作者・能因法師

こうした古人が詠まれた歌を思い浮かべたりしている。

先程、庭先で煙草を喫いながら、
女性の言葉、しぐさなど風情を考えたりしていると、
八重桜は10、20代の若き女性の溌剌(はつらつ)とした華やかさ、
染井吉野の桜は30代の女性の香りたつ美麗、
山桜は40代以上の女性は妖艶を秘めながら凛とした女性かしら、
と思い浮かべたりしている。

あくまで私なりのつたない感性であり、
それなりに醸(かも)し出す言葉、しぐさなどの芳香、品性は断片は出来ないが、
戯(たわむ)れとして受け止めて頂きと思ったりしている。

尚、私は最も好きな桜は、山桜であり、
二十歳以来、この時節になると待ち焦(こが)れている。
・・】


このように投稿していたのであるが、傲慢で恥じらいもなく綴っているので、
これだったら、ご近所の奥様、若き女性の多くの方から、
石を投げられてもやむ得ない、
と下を向きながら思ったりしたのである。

心の思いを綴るに際しては、齢ばかり重ねたつたない身の私であるが、
改めて、感情に流されず、ひととき濾過(ろか)した後に心の発露として、
投稿するのが望ましい、と大いに反省をしたりしている。



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私だけの森山直太郎の『さくら(独唱)』の深い想いで・・♪

2009-03-27 17:11:22 | 現役サラリーマン時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
今朝はいつものように日の出と共に起床し、
6時過ぎに玄関庭に下り立つ、樹木を眺めながら煙草を喫ったりしていた。

門扉の郵便受入箱の近くにある椿(ツバキ)が淡紅色の花がたわわな咲き、
恥らうように咲いている花を誉(ほ)めたりし、
平年より幾分寒く、花冷えとなって中、
花持ちによいかしら、と微笑んだりした。

この後、花梨(カリン)の樹木を眺め、
芽吹きはじめ、萌黄色の彩(いろど)りの情景に心を寄せたりしていた。


このような状景を眺めていたら、


♪僕らはきっと待っている 君とまた会える日々を
 さくら並木の道の上で 手を振り叫ぶよ

【 『さくら(独唱)』 作詞・森山直太郎、御徒町凧、作曲・森山直太郎、唄・森山直太郎 】


この歌が突然思い出され、私は心の中で唄いはじめた・・。


私の民間会社のサラリーマンの現役時代の最期は、
ほど遠いの物流情報会社に出向となり、この中の物流センターに勤めたのである。

そしてCD、DVD等の音楽商品を管理する部署であったので、
私は主要曲の出荷量を予測したりし、
契約社員10名前後、そして女性パート100名前後の中で、
効率よく限られた時間内で出荷できるような業務もしていた。

私は2003年3月の初め発売された森山直太郎の『さくら(独唱)』は、
発売日の初回枚数がわずかであったので、余り注視することがなかった。

桜の花が本州を北上するように、
この曲のCDが次第に上昇し、私は明日は3千枚ぐらいかしら、と予測して、
若手の男性契約社員に、商品を揃えるように依頼したのである。

しかし大半が私の当日出荷枚数を超えて、
私はCD5000枚のパレットを保管倉庫から出荷しやすい場所に移動させたり、
そして私が予測した以上の曲の数々の商品に於いても、
現場を駆けずり廻っていた。


この頃の私は、通勤時にCDウォークマンで数々の曲を聴き、
音楽専門雑誌を読みながら、それぞれの曲の出荷を予測の基礎としていたが、
30年間レコード会社に体験した身でも需要予測は難しいのである。

特に数多い音楽商品の場合は、
人々の好みを予測し、この中の一部の方が購入して下さる、
まぎれなく生きた心の商品であるからである。

結果として、森山直太郎の『さくら(独唱)』は
東北の北部に桜の咲く時期まで、活発に動き、
5月の初めの連休の頃、ミリオン・セラーとなったのである。


私は出向の初め、長年勤めた本社から辞令を受けた後の半年は気落ちし、
その後は馴染み、定年退職の前の年にこの曲が、
私の予測を遥かに超え、思いで深い曲のひとつとなったのである。


♪どんなに苦しい時も 君は笑っているから
 挫けそうになりかけても 頑張れる気がしたよ

【 『さくら(独唱)』 作詞・森山直太郎、御徒町凧、作曲・森山直太郎、唄・森山直太郎 】


私は花梨の萌黄色の新芽を眺めながら、
桜の咲く頃には、可憐なピンクの色した花びらが数多く彩(いろど)る光景に、
思いを重ねたりした。


♪今なら言えるだろうか 偽りのない言葉
 輝ける君の未来を願い 本当の言葉

【 『さくら(独唱)』 作詞・森山直太郎、御徒町凧、作曲・森山直太郎、唄・森山直太郎 】


私は小声で唄いだしたのである。


余談であるが、この頃のCDシングルは、
何曲も収録されているのが、流行だった。

この曲も『さくら(独唱)』、『さくら(合唱)』、『さくら(伴奏)』、
そして別の曲の『手紙』が入っていた。

私は『さくら』を3回ばかり聴いた後、
『さくら(合唱)』が最も好きな曲となった・・。
何よりも女子高等学校の音楽部の方達が合唱に加わり、
より一層、哀切、惜別が醸(かも)し出されいる、と公言したりした・・。



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西條八十・作詞の 『越後獅子の唄』の発想を教示され・・♪

2009-03-26 23:27:44 | 音 楽
私は年金生活5年生の64歳の身であるが、
午後のひととき、中断していた筒井清忠・著の『西條八十』(中公文庫)を読んだりした・・。

http://www.honya-town.co.jp/hst/HTdispatch?nips_cd=9984031969

この本に関しては、過日に於いて、
【・・
私は買い求める気持ちになったのは、
昭和19年に東京郊外で生を受けて、
幼年期の時、このお方の歌謡曲がラジオから流れ、
私は聴き入ったことがある。
こうしたことは、後年に作詞家の西條八十氏の作品であった、
ということを知ったのであった。

何より興味があったのは、本の裏の明記された、
【・・
戦前戦後のヒット曲に作詞家として名を連ね、
ランボー研究をはじめ、詩人・フランス文学者としても大きな足跡を残した西條八十。
多大な功績にもかかわらず近代文学の系譜から疎外されてきた、
忘れられた巨人の生涯を精緻に描いた初の本格的評伝。
第57回読売文学賞、第14回山本七平賞特別賞、
第29回日本児童文学学会特別賞受賞。
・・】
こうしたことを読みながら、
私は西條八十氏は数々のヒット曲を遺(のこ)された単なる作詞家だけでなく、
《 近代文学の系譜から疎外されてきた ・・》
このような文面を読むと、読みたくなるのが私の性格のひとつである。


こうして、雨の降る静寂な午後、私は読みふけったのである。
第一世界大戦後、パリに留学した氏が、この頃のパリの状況、心情などを
読むと、
まぎれなく文化史である、と思索させられたりした・・。

このように読み込むと、中々ページが進まず、
5時間ばかり読書であっても、3分の1程度であり、
私は苦笑したりしたのである。
・・】

このように綴ったりしていたが、私は西條八十氏が数多く作詞された中で、
特に関心のあったのは、
『越後獅子の唄』の歌であった。


私は2007年10月19日に於いて、
【 私の小学生時代の愛唱歌・・♪ 】
と題して、あるサイトに投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
私が小学校に入学したのは、昭和26年の春だった。
東京の郊外の調布市であるが、この頃は田畑、雑木林が圧倒的に多く、
緑豊かな町村であった。

私は長兄、次兄に続いて生を受けた三男坊で、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、私は幼児なりに何となく感じていたのか、
いじけた可愛げのない子の上、無口であった。

兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、
と担任の女の先生がため息まじりに云われたりしていた。


音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。

学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。
私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。

結果として、通信簿『2』であった。

私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、
或いは家の留守番をしている時は、

♪笛にうかれて 逆立ちすれば
 山が見えます ふるさとの
 わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし

【 『越後獅子の唄』 作詞・西條八十  】

私は何となくこの歌に魅了されて、唄っていた。
唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。

そして、私が気分が爽(さわ)やかな時は、
♪私は街の子、田舎の子・・、
と名曲のひとつの『私は街の子』という歌を勝手に変更して、唄ったりしていた。
・・
(略)
・・】


このような深い想いがあったので、著作者の筒井清忠氏に導かれて、
西條八十氏が『越後獅子の唄』を作詞された発想などを知りたくて、
読み込んだのである・・。


無断であるが、引用させて頂く。

【・・
昭和25年の春、西條八十が『山のかなたに』の打ち合わせるのため、
新東宝の撮影所を訪れると、
柳谷金語楼・主演の『続・向う三軒両隣り』のセツトがあり、
小憩中で、誰もいない中に一人の女の子がぼんやりと立っていた。

西條八十が元気づけようと、
「君も金語楼劇団に入っているの? 小さいのに感心だね」
と話しかけると、
少女は笑って、
「いやだわ先生、私コロムビアの専属歌手なのよ。
先生と同じ会社ですよ」と言った。

これが西條八十と美空ひばりの出逢いだと、森一和は著している。
西條八十は美空ひばりを知らなかったが、美空ひばりは西條八十を知っていたのである。


それ以来、西條八十は美空ひばりを興味をもって眺めていたのだが、
天才少女への世間の眼は冷たいものがあり、
新聞で「ゲテモノ!と叩かれたりしていた。


こうした中で、西條八十は会社から美空ひばりの正月用の作品を頼まれたのである。
西條八十は戦前に住んでいた柏木あたりに、
正月になると越後獅子が来ていたのであるが、
その子供達が芸をしながら、いつも怖い目つきの親方を恐れいた痛々しい様子を思い出し、
この曲を作ったという。

つまり、『越後獅子』とは当時、社会的に冷たい目で見られ、
大人の歌手の間で肩身の狭い思いをしていた美空ひばり自身のことなのであった。

この歌のテスト盤を聞いた斎藤寅次郎・監督が、
この歌を主題歌とした美空ひばりの主演映画『とんぼ返り道中』を企画、
26年の正月映画として大ヒットした。


浅草六区の直営館では、
満員の客をさばくためにフィルムを適宜カットし、上映回数を一回多くしたが、
美空ひばりの出る場面、歌う場面は残したので、客は満足して帰ったという。
しかし、この『越後獅子』が、美空ひばり自身を象徴していたことを
当時の観客の何人が察知していただろうか。
・・
(略)
・・】
注)本書の原文(425・6ページ)より、あえて改行など多くした。


このように作詞家としての西條八十氏の『越後獅子の唄』の発想としての秘話、
その後の斎藤寅次郎・監督の英知で『とんぼ返り道中』が上映されたのは、
私は無知であった。

私はラジオから聴こえたのを幼年心なりに覚え、
数年過ぎた頃、独りで三流の映画館で観ながら、涙を流したのである。

こうした創作の秘話などを読んだりし、具体的に教示されたのであるが、
こうしたことは本書のような本を読まない限り、
たとえネットの世界が広まり安易に知識が得られる今日でも、不明と思われ、
改めて読書は限りなく奥深く、思索させられる根幹かしら、と確信させられたのである。

尚、余談であるが、
【美空ひばりの歌った『越後獅子の唄』・・
後の名歌手・島倉千代子は少女の頃、
この歌を聞いて歌手になりたいと思ったという】

注)本書の原文(423ページ)より、あえて改行など多くした。

このような本書の一部を読むと、私は思わず微苦笑したりしたのである。



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東京郊外も、寒の戻りも花冷えと思えば・・♪

2009-03-26 07:42:12 | 定年後の思い
東京郊外の調布市に住む年金生活の私は、
どんよりとした曇り空で朝の6時過ぎは4度前後となり、
平年より寒い朝を迎えている。

玄関庭で私は煙草を喫っていたら、小雪のような霙(みぞれ)がほんのわずか降り、
お彼岸が過ぎ、桜の開花もまじかなのに、どうしたの、
空を眺め、天上の気候の神々に問いかけたりしていた。
日中は快晴となるが、12度前後となり、
ここ数日は寒の戻りのようになっている。


白玉椿(シラタマ・ツバキ)花も散った今、
藪椿、ラッパ水仙、鈴蘭水仙、ヒアヒンス、クロッカスなどの花の彩りを見せているので、
花冷えと思えば花持ちよいかしら、
と微苦笑したりしている。

私は日中のひととき、いつものように買物と散策をする予定で、
この時節は、相変わらず落葉樹の芽吹き、幼葉を誉(ほめ)ながら、
どの遊歩道を歩こうかしら、とぼんやりと考えている。


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思いがけずに、映画雑誌『世界の映画ベスト・セレクション』にめぐり逢え・・♪

2009-03-25 16:02:44 | 映画・テレビ
私は東京郊外に住む64歳の年金生活の身であるが、
午後より雨が予測されていたので、午前中に買物に出かけようと、
玄関先に立った時、早くも小雨が降りだして、
やむ得ず傘を差して、最寄のスーパーに向かった・・。

スーパーの2階の一角に、『本のバーゲン』と明示された臨時のコーナーがあり、
私は何気なしに寄ったのである。
各分野の色々な本がある中で、
ひとつの雑誌に目が留まったのである・・。

『~ファンの心ときめかせた~ 世界の映画ベスト・セレクション』と題された映画雑誌であり、
SCREEN特別編集で、近代映画社が発行し、平成11(1999)年10月10日発行と明記されていた。

そして本の帯には、
  【映画ファンが半世紀の名作の中から
           選んだベスト・ムービーを
               440枚の写真で構成したビジュアル豪華本!】
と掲示されていた。

私は手に取り、パラパラとページを捲(めく)ると、
1955年度~1998年度までの40年間に於いて、
それぞれの年度の『読書の選ぶベストテン』と『批評家のベストテン』が掲載され、
それに伴う解説、写真が明示されていたのである。
解説も映画評論家の渡辺祥子・女史であり、信頼できる批評をされるお方なので、
良い本にめぐり逢えた思いであった。


私は東京オリンピックが開催された頃は、
大学を中退し、映画、文学青年の真似事をしていた時代であった。
この頃の私は、映画雑誌としては『キネマ旬報』を熱愛し、
過去の作品批評、シナリオ等も読みたくて、
神田街の古本屋などを中心に古本屋で買い求めたりしていた。

そして、洋画の雑誌として『SCREEN』は知っていたが、
あくまで映画ファンの軽い企画の雑誌であったので、
私は購読に値がしないと確信していたのである。


私は20代のなかば、映画・文学青年の真似事を断念して、
映画研究を持続する友人に、『キネマ旬報』を初めとするなどの本を、
30冊を手元に置いた以外、千冊前後を寄贈したのである。

そして、私は民間会社に中途入社し、
定年の7年前頃から、『キネマ旬報』の増刊号、特別号などを買い求めたりしている。
これと共に、定年後はゆっくりと居間で映画鑑賞をしょうと、
ビデオ・テープ、DVDなどをテレビのWOWOW、NHK衛星放送から収録したり、
或いは販売店で買い求めたりし、現在は千作品ぐらいは所有となったりしている。


このような過去の映画ファンの拙(つたな)い身となった私は、
映画雑誌の中で、時系列として編集された本は、
『1946~1996 キネマ旬報ベストテン全史』だけであるので、
新たに『~ファンの心ときめかせた~ 世界の映画ベスト・セレクション』が加わり、
微笑みながら懐かしげの作品の解説などを読んだりしている。


尚、本日入手した映画雑誌は、定価は本体3700円+税と記載され、
その横に1470円(税込)とシールが貼られていた。
私が想像すれば、書店からの返品か、卸店の在庫過剰分かと推測するが、
新刊本のような小奇麗な本が、半額以下で購入できたので、
私は雨の中、買物に行き、偶然に入手できたのは、天からの贈り物、
と思ったりしている。



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野球に無知な私が、日本がWBC連覇できた理由・・♪

2009-03-25 09:10:05 | 時事【社会】
私は東京郊外に住む64歳の年金生活の身であるが、
野球も無知な私さえ、連日のWBCの熱戦に気になり、
NHKの夜の9時から『ニュースウオッチ9』のスポーツ・コーナーなどで注視していたが、
さすが昨日の決勝戦だけはテレビ観戦をした程度のひとりである。

結果として、日本は優勝し連覇となったが、
少しボケた私さえ、感動を頂き、思わずこのサイトに投稿したのである。


【イチロー選手『最後に・・神が(舞い)降りた・・』に感銘し・・。 】
と題して、投稿したのであるが、再掲載をする。

【・・
私は東京郊外に住む64歳の年金生活の身であるが、
野球も無知な私さえ、連日のWBCの熱戦に気になり、
本日の日本と韓国の決勝戦をテレビで観戦した。

結果としては、延長戦の熱戦の中、
イチローの決勝打で日本に優勝をもたらしたのであるが、
試合後のイチロー選手のインタビューが私は感動したのである。

『いやーもう・・苦しいところから始まって、
苦しさからつらさになって・・つらさを超えたら心の痛みになった。
最後は笑顔になれた・・。
最後の打席では、神が(舞い)降りてきましたね・・。
自分の心の中で・・実況しながら打席に入った。
そして・・一つ壁を越えた・・』
と少しボケた私には、このように聴こえたのである。


私はテレビ観戦をしていて、
9回からダルビッシュ投手が登板し、これで韓国も良く奮闘したが、
これで終わりで、日本は優勝かと思ったのである。

しかし、無敵とさえ云われている豪腕のダルビッシュが、
重圧のためか、まさかの連続四球。
そして同点タイムリーを打たれ、延長戦となった。

この後、延長戦の中、10回の表、日本は2アウトでランナー2、3塁に於いて、
イチロー選手がバッター・ボックスに入った時、
私さえドキドキしたのである。
ここで打てれば、優勝が濃厚となるので、
日本チームのメンバー、スタッフはもとより、何より応援している数多くのファンの期待、
そして殆どの日本人からの応援・・
イチロー選手自身の心身の重圧は大変だなぁ、と思いながら熱視したのである。

こうした状況の中で、イチロー選手はセンター前にヒットを打ち、
野球に無知な私さえ、改めてイチロー選手は、
数多くの人々に感動をもたらす桁外れの選手である、
と震(ふる)えるほど感きわまったのである。

そして、試合後のイチロー選手へのインタビューで、
彼自身の言葉・・深く感銘したのである。

『・・苦しいところから始まって、
苦しさからつらさになって・・つらさを超えたら心の痛みになった。
最後は笑顔になれた・・。
最後の打席では、神が(舞い)降りてきましたね・・』

昨今、私は感動をもたらす社会のニュースは少ないが、
まぎれなくイチロー選手から、確かな言動を頂ただけた、
と深く感謝している。
・・】

このように投稿したのであるが、
私は中学一年だけ野球部に所属し、補欠にもなれず、
ただの訓練生で終わった野球の落第生の身であるが、
今回のWBCで日本が優勝できた理由を考えたのである・・。

原監督の下で、各コーチ、スタッフ、そして一流の選手が選抜されたチームが編成となり、
『いかに勝ち続けるチームは・・』
と命題のもとで、昨日まで至ったと思われる。

もとより野球のプレーは選抜された選手が行うが、
それぞれの選手の力量をいかに試合中に発揮させるか、
と原監督の下で、各コーチが架せられた難題と私は推測している。

こうした中、私は原監督の柔和な人格が各コーチに伝わり、
選抜された選手のプライトを配慮しながら、チームの総合力を結集させた。
私が原監督が巨人の監督として、かってリーグ優勝したが日本シリーズに敗退し、
まさかの解雇された体験が大きく成長させた、と確信するひとりである。

そして原監督の少年時代からの野球に対する軌跡を重ね合わせると、
各コーチと共に、選抜された選手の優れた力量をいかんなく結晶させた、
と私は思ったりしたのである。


数多くの人々が優勝を期待する重圧の中で、
選手はもとより、監督、各コーチ、そしてスタッフが結集し、
激戦を制し、
多くの人々に感動をもたらした・・。

このように、私はぼんやりと感じたのである。

余談である、過日のNHKのニュースで、
WBCの日本の試合中、女性キャスターが一般の方にインタビューした時、
『日本は・・試合に勝っていますが・・』
と云って、この女性キャスターは野球をまったく知らない方だ、
と私は苦笑したのである。

『日本は・・試合にリードしていますが・・』
と発言するのが常識なのである。



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イチロー選手『最後に・・神が(舞い)降りた・・』に感銘し・・。

2009-03-24 16:59:18 | 時事【社会】
私は東京郊外に住む64歳の年金生活の身であるが、
野球も無知な私さえ、連日のWBCの熱戦に気になり、
本日の日本と韓国の決勝戦をテレビで観戦した。

結果としては、延長戦の熱戦の中、
イチローの決勝打で日本に優勝をもたらしたのであるが、
試合後のイチロー選手のインタビューが私は感動したのである。

『いやーもう・・苦しいところから始まって、
苦しさからつらさになって・・つらさを超えたら心の痛みになった。
最後は笑顔になれた・・。
最後の打席では、神が(舞い)降りてきましたね・・。
自分の心の中で・・実況しながら打席に入った。
そして・・一つ壁を越えた・・』
と少しボケた私には、このように聴こえたのである。


私はテレビ観戦をしていて、
9回からダルビッシュ投手が登板し、これで韓国も良く奮闘したが、
これで終わりで、日本は優勝かと思ったのである。

しかし、無敵とさえ云われている豪腕のダルビッシュが、
重圧のためか、まさかの連続四球。
そして同点タイムリーを打たれ、延長戦となった。

この後、延長戦の中、10回の表、日本は2アウトでランナー2、3塁に於いて、
イチロー選手がバッター・ボックスに入った時、
私さえドキドキしたのである。
ここで打てれば、優勝が濃厚となるので、
日本チームのメンバー、スタッフはもとより、何より応援している数多くのファンの期待、
そして殆どの日本人からの応援・・
イチロー選手自身の心身の重圧は大変だなぁ、と思いながら熱視したのである。

こうした状況の中で、イチロー選手はセンター前にヒットを打ち、
野球に無知な私さえ、改めてイチロー選手は、
数多くの人々に感動をもたらす桁外れの選手である、
と震(ふる)えるほど感きわまったのである。

そして、試合後のイチロー選手へのインタビューで、
彼自身の言葉・・深く感銘したのである。

『・・苦しいところから始まって、
苦しさからつらさになって・・つらさを超えたら心の痛みになった。
最後は笑顔になれた・・。
最後の打席では、神が(舞い)降りてきましたね・・』

昨今、私は感動をもたらす社会のニュースは少ないが、
まぎれなくイチロー選手から、確かな言動を頂ただけた、
と深く感謝している。



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改めて、年金小父さんは、『YouTube』に仰天して・・♪

2009-03-24 08:00:31 | 音 楽
私は東京郊外に住む64歳の年金生活の身であるが、
ときおり音楽を聴きたくなる時は、
居間の音楽棚からカセット、CD、或いはDVDを取り出してる。

昨夕のひととき、昼下がりに【改めて、私なりのビートルズの『イエスタディー』の想いで・・♪ 】と題して、
このサイトに投稿したのであるが、
この中の一部に、
【・・
まもなくして、私はシャンソンの世界にに魅せられ、
百枚程度のアルバムを買い求めたりし、聴き込んだりしていたが、
特にシャルル・アズナヴールには魅了させられた。
ある程度の年齢になり、若き日の青春時代を表現した『帰り来ぬ青春』(1964年)、
そして『遠い想い出』(1971年)は、友人達に絶賛したりした。
・・】
と綴ったりしたので、
久々にシャルル・アズナヴールの名曲を聴こうとしたが、
私はこのお方に関しては、レコード5枚ばかり保有しているが、
無念ながらレコード・プレイヤーを手放しているので、聴くことが出来なかったのである・・。

やむえず、期待半分で【YouTube】を開き、
検索項目を《 シャルル・アズナヴール 》とキーインしたのであるが、
『イザベル』、『ボエーム』、『愛のために死す』などの名曲が、
当然フランス原語で表示されていたが、
仰天し、小躍りしたり、ため息をしながら、聴き惚れたのである。

この後、エディト・ピアフの歌声が聴きたくなり、
『水に流して』などを聴いたりしたが、『愛の賛歌』を聴いた後、
確か美空ひばりさんも唄っていたと思いだし、
美空ひばり、とキーインし、このお方の『愛の賛歌』が表示されて、
私は再び仰天しながら、
この【YouTube】は、何でも有りの世界、に驚いたのである。

そして、どうしてなの・・どこまでやるの、と深くため息をしながら聴き惚れたのである。

私は【YouTube】の世界を知ったのは、
遅ればせながら昨年の6月初旬であった。

この時の心情は、
【 遅ればせながら、『YouTube』・・♪ 】
と題して、このサイトに綴ったりしているが、あえて再掲載をする。

【・・
私は齢を重ねた63歳の身であるが、音楽を聴いたりするのも好きである。

現役時代は、たまたまレコード会社に勤めていたせいか、
若いアーティストの音楽も、ときおり聴いたりしている。

しかし退職後の年金生活の4年生の身となれば、
アーティストと曲、そして世間の流行っている音楽が解からないのである。

こうした折は、流行の曲は、『オリコン』サイトで、
シングル、アルバム別のベストテンで知ることが出来るが、
困ったことに肝心のアーティストと曲の内容が解からないのである。

こうした時、私は無料の動画《音楽サイト》を検索して、
こういうアーティストだったの・・、意外と良い曲ね、
と感じたりしている。

昨年の秋の頃、私はこれらについて、
下記のように綴り、このサイトに投稿している。



・・この後、何気なしに最近の音楽を視聴し、
【YAHOO! JAPAN】の動画サイトで、
コブクロ、GLAY、徳永英明、セリーヌ・ディオン等の歌の数々を10数曲を視聴した・・。

無料でプロモーション・ビデオのような曲を視聴できるので、
びっくりするほど享受できるのである。

10数年前の頃であったならば、
音楽CD、DVD、ビデオ・テープの販売店で、
プロモーション・ビデオが店の一角で映し出されていたが、
現世は簡易にネットで自分の好みの曲を選定し、ある程度視聴できるので、
時代の流れにため息をしたりし、視聴していた。



私はこれ以前に、ラジオでたまたま聴いた綾香ちゃんの『三日月』が、
発売日まもなくして聴き、瞬時に魅了させられ、
【YAHOO! JAPAN】の動画の音楽サイトで百回以上視聴した体験があった。

そして、コブクロの名曲の数々も教示したりしていた。


私は音楽の無料公開のレパートリーを増やしたく、
本日『YouTube』の無料入会登録をした。

ここ昨今、世界中の話題と数多くの方たちが利用している『YouTube』、
遅ればせながら、どのような範囲までの音楽が視聴できるのか、
そして最近の風潮として著作権の許容はどこまでクリアーできているのか、
少しボケた年金小父さんは関心があったりしている。
・・】


このように綴ったりしていたが、
私はこのサイトに音楽に関しても多くを投稿しているが、
昨今、少し悩んでいる。

その曲の思いを発露し綴ったりしているが、
安易に『YouTube』などを貼り付けた方が投稿分に効力があるかしら、
と考え込んでいるのである。

私は高校生以来から、何よりも言葉の力を信じ、
出来うる限り散文の世界に心身ともゆだねているので、
私の心の思いが伝わらなかった時は、私自身の筆力、表現力の修行が足りない、
と反省しながらも迷っているのである。





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改めて、私なりのビートルズの『イエスタディー』の想いで・・♪

2009-03-23 14:40:29 | 音 楽
ビートルズの数多くの名曲の中に、『イエスタディー』がある。

確か1966年(昭和41年)の初めの頃だったと思われるが、
私はこの曲を知ったのは、妹がビートルズを熱愛して、
数多くのレコードを買い求めて、盛んに聴いていた。

この頃の私は、大学を中退し、映画、文学青年の真似事をしていて、
食寝を忘れるくらいに映画作品を映画館で観たり、
小説の数多くの作品を読みふけっていたので、余り音楽には興味がなかった時だった。

妹が応接間にあるステレオで、
ビートルズを大きな音量で聴いていても、
うるさいと感じながら、騒音のような音楽としか聴こえてこなかった。

ある時、メロディー・ラインが良く、英語の詩も良い、と直感した曲が、
この後に、妹から曲名を教えて貰ったのが『イエスタディー』であった。

その後、妹はビートルズが来日公演の時、
学校では禁止されていたが、無視して何とか日本武道館に行って、
公演には満足した、と私に云ったりしていた。

このように妹は団塊世代で高校の初めの頃であったから、
何事も一番感化されやすい時であるので、
音楽面はたまたまビートルズに熱中した、と思われる。

私は二十歳を過ぎたせいか、或いは映画・文学に熱愛していたので、
ビートルズからは音楽の影響は受けなかった。


その後、私が1970年(昭和45年)にある企業に中途入社して、
音楽のポピュラーとして影響を受けたのは、
サイモン&ガーファンクルの『スカボロー・フェア』、『明日に架ける橋』等の一連であった。

私は音楽に関してはメロディーも大切であるが、
このアーティストは、何を伝えたいのか、という命題を重要視していたので、
作詞を優先するひとりである。

まもなくして、私はシャンソンの世界にに魅せられ、
百枚程度のアルバムを買い求めたりし、聴き込んだりしていたが、
特にシャルル・アズナヴールには魅了させられた。
ある程度の年齢になり、若き日の青春時代を表現した『帰り来ぬ青春』(1964年)、
そして『遠い想い出』(1971年)は、友人達に絶賛したりした。

このような時に、ビートルズの『イエスタディー』(1965年)が甦(よみがえ)ってきた。
そしてビートルズのメンバーが、
あの若い時に《青春時代》を凝縮させた表現出来たのは、
天才という以外の言葉は見つかず、唖然とさせられたのである。

この『イエスタディー』の曲は、世界の著名の歌手に多く歌われ、
日本に於いても名のある歌手も多く取り上げていた。

私は、少なくとも10人以上の歌い手のレコード、カセット、
そしてCDで聴いている。


こうした間に、映画の『ワンス・アホン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984年)に於いて、
ロバート・デ・ニーロが扮する主人公が駅構内で過去を回想するシーンに、
この曲が流れた。
私はこの感覚には思わず(うな)り、そして感銘した・・。

映画の音楽は、このように使うと映画の画面が引き立ち、
効果のある見本でもある。

このことは、監督・脚本のセルジオ・レオーネ、
そして音楽のエンニオ・モリコーネの功績であるのは、いうまでもない。

私はビートルズからは影響は受けてはいないが、
このたった一曲であるが『イエスタディー』の曲だけは、
最初に聴いてから、ここ40年は絶賛している。


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雨の日、ときには『西條八十』を学び・・。

2009-03-23 08:01:17 | 音 楽
私は東京郊外に住む64歳の年金生活の身であるが、
先程、ぼんやりと地元の天気情報を見ていたら、
朝の6時過ぎ12度で、昼下がりには17度前後となり、夜の6時は10度前後と予測され、
快晴の一日であるが、ときおり北風が強く吹きますので、
幼児・ご高齢者は特にご注意の程をお願いします、
と私には聴こえたのである・・。


昨日は朝の10時すぎから雨が降りだし、ときおり風の舞う日中となった。

こうした折、私は一冊の本の読むのに最適と思い、
居間のソファーの椅子に座ったり、そして寝室の布団にもぐり、
文庫本を読みはじめたのである・・。

この文庫本は数日前に買い求めた一冊であり、
筒井清忠・著の『西條八十』(中公文庫)である。

http://www.honya-town.co.jp/hst/HTdispatch?nips_cd=9984031969

私は買い求める気持ちになったのは、
昭和19年に東京郊外で生を受けて、
幼年期の時、このお方の歌謡曲がラジオから流れ、
私は聴き入ったことがある。
こうしたことは、後年に作詞家の西條八十氏の作品であった、
ということを知ったのであった。

何より興味があったのは、本の裏の明記された、
【・・
戦前戦後のヒット曲に作詞家として名を連ね、
ランボー研究をはじめ、詩人・フランス文学者としても大きな足跡を残した西條八十。
多大な功績にもかかわらず近代文学の系譜から疎外されてきた、
忘れられた巨人の生涯を精緻に描いた初の本格的評伝。
第57回読売文学賞、第14回山本七平賞特別賞、
第29回日本児童文学学会特別賞受賞。
・・】
こうしたことを読みながら、
私は西條八十氏は数々のヒット曲を遺(のこ)された単なる作詞家だけでなく、
《 近代文学の系譜から疎外されてきた ・・》
このような文面を読むと、読みたくなるのが私の性格のひとつである。


こうして、雨の降る静寂な午後、私は読みふけったのである。
第一世界大戦後、パリに留学した氏が、この頃のパリの状況、心情などを
読むと、
まぎれなく文化史である、と思索させられたりした・・。

このように読み込むと、中々ページが進まず、
5時間ばかり読書であっても、3分の1程度であり、
私は苦笑したりしたのである。


従って、もとより読了していないので、書評は綴れないが、
私の幼年期に於いて、このお方が作詞された名曲のひとつから、
慰められた想いである。


【 幼年期の心の歌は、『越後獅子の唄』・・♪ 】
と題し、2006年11月24日にあるサイトに投稿したが、
改めて西條八十氏に敬意し、あえ再掲載をする。

【・・
私は目覚めた時、ときおり鼻歌を唄うことがある。

今朝はどうした心持ちであるのか解からないが、

♪笛にうかれて 逆立ちすれば
 山が見えます ふるさとの
 
   【『越後獅子の唄』 作詞・西條八十】

口ずさんでいた。

家内は笑っていて、
『貴方・・どういう風のふきまわし・・』
と言ったりした。

私にもどうしてこの歌を口ずさんだか、
瞬間解からなかった・・・。


私は昭和19年に東京の郊外で、農家の子と生を受けた。
男の子ばかり続けて生まれた三男坊であったので、
余り期待されていないようで、いじけた屈折のある可愛げのない私の幼年期であった。

小学校の幼年期、映画が何よりの楽しみであったので、
映画館にひとりで行くのが好きだった。

こうした時に映画で観た中で、幼年心として、ひとつの歌が心に沁みた・・。


♪わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし
 
【『越後獅子の唄』 作詞・西條八十】


私は周囲から孤独感を勝手に感じ取り、
寂しい時は心の中で、この歌を唄っていた・・。

後年、この歌は『越後獅子の唄』であり、昭和26年に松竹映画『とんぼ返り道中』の主題歌として、
越後獅子の少年を美空ひばりが演じていた、
と解かった懐かしい映画のひとつとなった。

私が身勝手に孤独感を感じ、屈折した幼年期を過ごしたが、
この歌は心を癒(いや)して、慰めてくれた貴重な心の歌となっている。
・・】

このようにつたない綴りであるが、
このほかにも数多くの西條八十氏の作詞された歌の想いである、
と私は思わず微笑んだりした。



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