夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
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私達夫婦の年末年始の休日、ささやかな歩みの35年は・・。 ① 新婚時代、その後は家内が御節料理で奮闘

2010-12-27 23:41:36 | 定年後の思い
           第1章  新婚時代

私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であり、
先程、ぼんやりと年末年始に関して、私達夫婦はどのように過ごしてきたが、振り返ったりした。

私が家内と結婚して独立家庭となったのは、1976(昭和51)年の春であり、
千葉県の市川市のはずれの江戸川が流れる付近の賃貸マンションで新婚生活が始まった・・。
京成腺の『国府台』駅が最寄駅であり、駅より5分ぐらい歩いた処で、
付近は学校が多く、寺院、公園もあり、学園街のような情景であった。

私はこの当時、あるレコード会社に勤め、
コンピュータの専任者としてシステムの開発も加わり、奮闘し多忙な時期で、
勤務先の六本木本社に一時間ぐらいで通勤していた。
家内は専業主婦で、週に2回お茶の稽古で、京成線の『八千代台』駅付近の師匠のところに通ったりしていた。

家内の両親は、この『八千代台』駅から10分ばかりの住宅街の中の一軒屋に住まわれていた。

私達夫婦が初めて迎える大晦日の夜、家内の両親宅は恒例の『お年取り』をしていたので、
私達夫婦は自宅から45分ばかりで、午後3時過ぎに訪問した。
家内の妹、弟も加わり、にぎやかな酒宴となった。

この当時の家内の父は、サラリーマンである自動車メーカーの栃木県にある製造工場に単身赴任をしていたので、
久々の家族一同、そして新婚の私達夫婦が加わり、華やいだ宴会となった。

家内の父は、お酒も好きな人で、私も晩酌を欠かさないタイプであり、
初めてお逢いした頃から、何かと心身波長があったりした。
家内の父は真蛸(マダコ)を食べながら、熱燗の日本酒を呑み、
私は酢蛸(スダコ)を頂き、温(ぬる)め日本酒を呑んだりした。

『お義父(とう)さんの真蛸・・明石ですか・・
僕は東京郊外の農家の児だったので・・やはり蛸は酢蛸の北海産が合います・・』
と私は義父に向かい、談笑を重ねたりした。

そして、午後9時過ぎに家内の両親宅を辞して、家内と共に『八千代台』の駅に歩きながら向う時、

♪年の始めの 例(ためし)とて、
 終(おわり)なき世の めでたさを、
 松竹(まつたけ)たてて 門ごとに
 祝(いお)う今日(きょう)こそ 楽しけれ。

【 『一月一日(いちがついちじつ)』 作詞・千家尊福、作曲・上真行 】

と私は酒の酔い、そして何かしら人生の階段を上がったような開放感があり、
大きな声で唄ったのである・・。
大晦日の夜の住宅街であり、恥ずかしいわ、と家内は呟(つぶや)きながら、微笑んだりしていた。

そして、新年の元旦は、賃貸マンションの一室で、家内と花札の『コイコイ』をして過ごしたのである。
私は新婚生活を始める時に、何かと費用を要したので、
家計の安定ことが何よりと感じ、倹約の目的もあり、
自宅で遊べる花札の『コイコイ』を家内に教えてたのである。

数ヶ月過ぎると、何故かしら家内の勝ちが多く、
ときおり家内が誘われるようになっていた時期でもあった。

2日は私の生家の実家で『新年の祝い』が恒例であったので、
私達夫婦は自宅を午前9時過ぎに出て、
午前11時過ぎに現在私が住んでいる近くの調布市の長兄宅を訪問した。

私の母も川崎市の登戸でアパート経営をしながら、アパートの隣家に住んでいたが、
この日は長兄宅に駆けつけた。
そして、私の叔母、叔父さんも加わり、盛大な一族再会のような集(つど)いとなった。
もとより長兄夫婦が接待役であったが、
実質は元気だった私の母が、明るくふるまいが主役であった。

そして午後3時過ぎに散会し、私達夫婦は帰宅に向う途中で、
明治神宮に参拝した後、新宿のテパートに立ち寄り福袋などを買い求めて帰宅した。


このような形で、2年が続いた後は、
私が長兄宅の近くに一軒屋を建てると、年末年始の過ごしかたも変貌したのである。


           第2章   家内が御節料理で孤軍奮闘

私が東京郊外の調布市の長兄宅の実家から離れて、
神奈川県・川崎市の登戸でアパート経営をしながら住んでいる母の宅に同居した後、
千葉県・市川市の国府台で賃貸マンションで新婚生活を2年ばかり過ごし、
実家の近くに一軒屋を構えたのは1978(昭和53)年の春であった。

私は33歳の若さで世間知らず、気負いもあり住居の中で茶室を設けたりした。
しかし作庭費用に困り果て、やむえず雑木主体の庭とした。
何より困窮したのは、色々な面で想定した価格より遥かに高く、すべてのローンは多額の借金となり、
月々、ボーナス時の返済は、私が孤軍奮闘しても赤字が多かったのである。

まもなく家内は、突然に付近のお菓子の製造所にパートに働きに出たりした。

晩秋になると、母は私の正月用にと、羽織と着物のアンサンブルが手渡された。

そしてクリスマスの頃になると、家内は御節料理の材料を付近の専門店、スーパーなどで買い求めていた。
栗、黒豆、田作りなどの材料であった。
家内は大掃除、お節料理などで奮闘し、茶室の床飾りとして『結び柳』などをし、
私は28日頃に仕事納めをした後、翌日頃から我が家の庭の手入れをしていた。

大晦日の昼過ぎ、家内が御節料理の完成を告げた後、
独り住まいの母用に、三段のお重に風呂敷でしっかりと結び、
私は独りで母の所に届けたのである。

そして、途中で酒屋に寄り、地酒の四合瓶を買い求め、母の所に行ったのである。
その後、母のところで、出前のお寿司を食べながら、私は持参した地酒を呑み、
母とふたりだけで他愛のない話を数時間を過ごしたのである。

こうしたことは、母の亡くなる1998(平成10)年の新春の前の年まで、
20年間続けられたのである。

そして、新年の2日の私の実家の長兄宅の『新年の祝い』に於いて、
家内は9時前に長兄宅に行き、長兄の奥方と共に、料理の仕上げ、席の準後などをしたり、
私は新年会の始まる30分前頃まで長兄宅に行き、
長兄の家族はもとより、叔父、叔母さんなどに新年の挨拶をしたりした。
この間、母、次兄、妹の家族も加わり、11時頃から新年会となった。

そして、3時頃に散会し、家内は長兄の奥方と共に後片づけをしたりしている間、
長兄、長兄の子供らと私は茶の間で談笑したりした。

こうした長兄宅での新年会は、母の亡くなる前の年まで続いた。


私達夫婦が1978(昭和53)年の春に新居を構えた後、
1980(昭和55)年の大晦日に家内の両親に来宅して貰い、『お年取り』を復活させた。
私は家内の父と心身の波長が合うので、程々に遠慮なく、食べたり、呑んだりし、
私達4人ながら心身盛り上がったりしたのである。

そして宿泊して頂き、元旦の新年を迎え、昼下がりに家内の両親は帰宅されたのである。
その後、家内の弟が加わったり、家内の妹夫婦に宿泊してもらったりし、
家内の父の体調が悪化するまで、20年ぐらい、続いたのである。

                              《つづく》



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1 コメント

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おはようございます (ロッキータイガー)
2010-12-28 09:41:41
お父さん

そうですね。こういう時期になると

トラックバッグのように以前の行動が

思い出されますよね。
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