無意識日記
宇多田光 word:i_
 



最近歌詞の解釈に頁を費やしてきたせいで幾つかニュースに触れるのをすっ飛ばしているのが勿体ない。普段であれば食いつくようなモノもスルーしてる私。極めつけはゴールデンウィークのDJ五夜で、あんな美味しい企画1週間は弄くり回せただろうに、連休中ということで触れるタイミングがなかった。一応此処の日記は土日祝日休みなので。土日祝日関係なく更新を続けてたミサキチ(旧サキコキチ)はほんと凄かったな…あれは真似できんかった。

という訳でたまにはニュースを挟みながらいくっぺ。今日はこれ。


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2022上半期のFM/AMラジオ・エアプレイとMVオンエアはAimer「残響散歌」が2冠〜プランテック発表


全国FM/AMラジオ・エアプレイチャート
全国31FM・AM局を対象に集計

総合
1位 1169pt. Aimer(エメ)「残響散歌」
 (サクラミュージック)
2位 1042pt. BE:FIRST「Bye-Good-Bye」
 (エイベックス)
3位 1036pt. 宇多田 ヒカル「BADモード」
 (エピックレコードジャパン)
4位 965pt. Official髭男dism「ミックスナッツ」
 (ポニーキャニオン)
5位 890pt. サカナクション「ショック!」
 (ビクターエンタテインメント)
https://www.musicman.co.jp/chart/483084


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え、なにこれ。『BADモード』ってそんなにオンエアされてたの!? 知らんかったわ。集計してみるもんだね。

まさか「ミックスナッツ」より上とはねぇ。いやこちらの配信始まったのは4月らしいから集計期間の長さが全然違うんだけど、こういうのってよっぽどじゃない限りリリース日付近に集中するもんでない? 実際、BE:Firstは5月配信開始だけど『BADモード』をあっさり追い抜いてる。なおAimerちゃんのやつはもうずっとなので「よっぽど」の一例ですね。

あたしはそうは邦楽のオンエア耳にしてないから星空を眺めて宇宙人を妄想するようにしか想像できないけれど、このチャートの感じは、特にヒカルの新譜が「音楽業界内」、つまり送り手側に対して大変なインパクトを与えた結果なのではないかな、と。

実際、↑のミュージックマン掲載の他の上半期チャートにヒカルの名前は殆ど出て来ない。辛うじてMVオンエアチャートの19位に『君に夢中』があるくらいかな? なんとなく、送り手側と受け手側の間に温度差があるのいうか。受け手側の温度が低いというよりは、送り手側の温度が高いっていう。

言い方を変えるか。『BADモード』は、音楽業界内の送り手側、レコード会社であったりミュージシャン本人達、プロデューサーやエンジニア、レコードショップの方々など、熱心に音楽を届けようと日々頑張ってる人達をただのファンに変えてしまったというか、普段戦略的に曲やアーティストを売り込んでいく人達を、単なるリスナーとして喜ばせてしまった、驚かせてしまった、その結果がオンエアチャートでの突出ぶりに跳ね返ったんじゃないかなと。もちろん、EPICのプロモーションが巧みだったというのもあったんだろうが。

こうして作られた熱量は持続性が違う。今年の作品で宇多田ヒカルはリスペクトのステップをまたひとつ大きく前に進めたのかもしれない。この空気感は、今後のプロモーション企画の中で、「宇多田ヒカルでなかったら出来そうもなかった」ものを増やしていく可能性がある。2014年の『宇多田ヒカルのうた』アルバムでも大変なリスペクトを各方面からうただいていたけれども、今同様の企画をやったならもっと凄いことになるんじゃないかな。でもま、今はヒカル自身がオリジナル曲連発中なので、その手の企画モノが入り込んでくる余地はなさそうだけども。いちどラジオ局のパーソナリティやDJの皆さんにアンケートとってみるのも、面白いかもしれないね。

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宇多田ヒカル直近の名盤2枚、『BADモード』と『LSAS2022』の関係性について今一度触れておきたい。

『LSAS2022』が収録されたのは2021年11月、アルバム『BADモード』が完成する前である。『BADモード』は、『気分じゃないの(Not In The Mood)』の歌詞が生まれる2021年12月28日以前は、間違いなく未完成だ。あの曲の入っていないアルバムなんて『BADモード』じゃないだろう。それは他のどの曲についても言えることだけど。

したがって、(ラフな)音源としての完成は『LSAS2022』の方が先である。が、リリースは2022年1月19日で同日。更に、大半の人が先に『BADモード』の方を聴いたと思われる。

ここに捩れが生じている。我々は、後から完成した(スタジオ・フル・)アルバムの方を先に聴いていて、それより先に録音の終わっていた(スタジオ・ライブ・)アルバムの方を後に聴いているのだ。となると、時系列の認識が逆な筈なのよね。

『LSAS2022』でパフォームされていない2曲、『気分じゃないの』と『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー』は、アルバムの雰囲気を決定づけるといえるほどの存在感を放っている。事実、それぞれ(ボーナストラック表記のない)本編10曲のうちの6曲目と10曲目で、これは、アナログ世代の感覚でいえば(もうサブスク配信の時代だというのに君は!)それぞれB面1曲目とB面ラストにあたる。大抵、重要な楽曲である。

だが、後から聴いているのにも拘わらず、我々は『LSAS2022』に“欠落感”を感じない。確かに、自分も『LSAS2022』を聴いた後にすぐさま『気分じゃないの(Not In The Mood)』や『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー』を再生したことは一度や二度ではないのだが、それは『LSAS2022』が物足りなかったからではなく、単にその2曲が流れなかったから聴くのにいいタイミングだったからに過ぎない。…違い、わかるかなぁ?

『LSAS2022』は、全編聴き終わった後にしっかりと「フルアルバムを聴き切った充実感」を与えてくれる。それは、そもそも『気分じゃないの(Not In The Mood)』と『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー』がその時点で“この世に存在していなかった”ので、送り手側も物足りなさを感じようがなかった、故に与えようがなかった、ということと、それに加えて、『EXODUS』からの2曲、『Hotel Lobby』と『About Me』がドンピシャに嵌まったからだろう。

今から思えば、『Hotel Lobby』が補った「異国リゾート感覚」は『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー』への布石だったという見方も出来るし、そもそもサウンドの感触が(幅広いヒカルの音楽性のスペクトルの中では比較的)『Find Love』に似ているから馴染み易かったという見方も出来る。しかしやはり、「鏡の中の自分をみつめる」その歌詞が、「私について」語る『About Me』と共に、2021年の宇多田ヒカルの持っていたテーマ性("relationship with myself")に合致していたから、と捉えるのがいちばん自然なのかもしれない。でもここらへんは、各自が答をそれぞれに見つけていった方がいいかな。

兎に角、先に在るの『LSAS2022』のひとつの作品としてのまとまりであり、『BADモード』より先に存在していたという“真の時系列”だ。ここを今のうちに整理して覚えておかないと、何年後かに2021年と2022年を振り返った時に脳が誤解しかねないよ…というのが私が経験から導き出した現時点での注意事項なのでした。まぁ、大したことじゃあないですね。今日も普通に聴いて楽しもうっと♪

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昨日は『DEEP RIVER』アルバム発売20周年記念日だった。その余りのヒカルの力の出し尽くし振りに「これが最後の作品になってもおかしくないな…山口百恵コースかな?」とまで思わされた凄まじい密度だったのだが、今こうやって『BADモード』がリリースされた後に振り返ると「あぁ、確かにこの人が19歳の時の作品をだわ」みたいな醒めた見方が出来てしまうのいうのは、恐ろしいやらなんなのやら。

15~16歳の時の『First Love』アルバム時点で既に大人びていて成熟しているなぁと思わされていたのに、その後の成長は「普通」だった。それは、周りからみると際限ない天井知らずの成長と進化の連続だったが、本人からしてみたら「普通」に歳を重ねたに過ぎない。今39歳の人が「19の頃は若かったなぁ」と呟くのと同じテンションでヒカルも今「19の頃はこんなんだったんだ」って呟ける。至って、「普通」。

音楽という手段の特性か、その年齢の時にしか出せない味わいというものをその時々に放ちつつ、常に前作までの積み重ねを反映させた境地にまで至ってきたのは驚異的という他はない。『DEEP RIVER』アルバムも、その出発点は前作『Distance』アルバムのタイトルトラックの生まれ変わりである『FINAL DISTANCE』だった。未来の自分に確実にバトンを渡していく浪漫は当時も何百万人という人間を巻き込んでいったのだ。

この頃の「先の見えない全力ぶり」は、青春だなぁと私は思う。無茶で無謀。本人もこの時期を指して『思春期』と名付けていたけれど、さもありなん。今でもアルバム制作は全力だが、向こう見ずな場面はみられない。何しろ作業が終わったら家に帰ってこどもの世話をしないといけないのだから。炊事洗濯掃除、やることは山ほどある。全力を出し尽くして倒れる訳にはいかないのだ。

それは、セーブしてるというより、倒れられる時に倒れてきたから故の経験値の豊富さからきているものだ。ここまでなら大丈夫、ここから先はもうダメ、というセンが人より遥かに見えている。とは言ってるけど、今回もリリース3週間前まで歌詞が全然出来てなかったりと綱渡りなのは変わらない…というか余計酷くなってる? ギリギリを狙い過ぎ?

『DEEP RIVER』の先の見えない切羽詰まった焦燥感や切迫感、やり切った達成感などは、もう今後は味わえないかもしれない。しかし、写真のスナップを挟み込んだアルバム同様、その時々の楽曲と歌詞で織り綴られた歌のアルバムも、れっきとした宇多田ヒカルの人生のアルバムなのだ。そう捉えてアルバムを“眺めて”いると、20年って、長かったような一瞬だったような、不思議な感覚に囚われる。多分、あの頃の感覚はもう味わえないどころか、思い出すことも出来なくなっていくかもしれないけれど、歌は変わらずそこに在る。自分が哲学的ゾンビになっていたとしても構わない。

今まだこの“19歳モード”を迎えていない世代、即ちこのアルバムが世に出たときまだこの世に生まれてなかった世代がこれを聴いてどう思うのやら。差し当たって、息子くんの感想は、聞いてみたいかな? 「ここにこんなパートを入れたら良かったと思うよ」とかいってまたお母さんの前で歌い出したりしていたら、また未来が感じられてとてもよさそうだ。

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『BADモード』も『LSAS2022』も素晴らしい出来映えで、コーチェラに出れば世界中のファンが咽び泣き、写真一枚で何人ものファンを卒倒させている2022年のヒカルさん。果ては「VOGUE JAPAN」のインタビューまで大絶賛されている。普段ヒカルを聴いてない層にまで届いているぞ。中には、ただインタビューの発言を切り取っただけのツイートがヒカル本人のツイートよりバズるなんていう訳の分からない現象までみられる。もう各方面どころか全方面から称賛されるヒカルさん。四面楚歌ならぬ四面賛歌とでも言いましょうかねこの状況。

そんな流れに最近私同調し過ぎてるなとふと気がついてそういや私は天の邪鬼だったわと思い出したので、たまにはヒカルの発言に疑義を呈してみたい。発言ね。音楽はもう本当に文句の付け所がないので。


例えば、「VOGUE JAPAN」のこの発言なんかはどうだろうか?


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スー 宇多田さんは普通の人が経験できない人生を歩んできたと思いますが、誰の期待に応えることが、誰の期待を裏切ることが、一番ハードでしたか?

宇多田 期待……。ファンの期待は、意識しないほうがいいと思ってるんです。アーティストであることは、作品を作る上でそういう期待に応えないってことだから。


https://www.vogue.co.jp/celebrity/article/in-my-mode


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この発言も多分、各方面から「カッコいい!」と大絶賛されてるだろうことは想像に難くない。兎角ヒットに固執しがちなJ-popアーティストの皆さんからしたら「ファンの期待は意識しない方がいい」と言い切れてしまうのは憧れの境地だろう。どうしてもリスナーやファンに媚びてしまう所が出てくるからね。そういった卑屈な面を全く見せない…どころかそもそも卑屈な面が無い宇多田ヒカルが、それでも『One Last Kiss』のような現在進行形の大ヒット曲を生み出し続けているのは本当にカッコいい。うむ、それについは異議は無し。

でもちょっと待ってアンタその「期待」って、具体的に何のこと? そこがハッキリしない。

『作品を作る上で』という発言は、踏まえなくてはいけないね。これが「コンサートを催す上で」とかだと話が違ってくるからな。どのコンサートでも必ず『Automatic』と『First Love』を、どの曲よりも原曲に近い雰囲気で毎回々々歌ってくれるのは、まず間違いなくファンの期待に応える為だろう。でなきゃこんな何度も歌ってる歌、もっと実験的なアレンジを試してみたくなるものだもの。アーティストならね。

また、此処で言うのは『ファンの"期待"」であって、音楽を聴いた後の「ファンの"意見や感想"」ではない。ヒカルもエゴサに余念が無い事からもわかるとおり、出来た音楽に対するリアクションについては毎回毎度意識が向きまくりである。アーティストでもそこは仕方がない。

ここでは、あクマで、『作品を作る上で』というのが話のポイントなのです。そこはハッキリさせとかないと。

それを踏まえた上で、『アーティストであること』というのは、今のヒカルにとって一体どういう意味を持つのか? 今までずっと、「音楽家であること」は「家業を継いだ結果」だと強調してきたではないか。うどん屋や呉服屋の2代目3代目と変わらず、祖母や母や父の就いていた職に自分も就いたのだろう。だからいつも「職業音楽家」として、即ち「プロ意識」の強い「職人」としての矜恃を維持してきたのではなかったか?

職業音楽家の場合、オファーが総てだ。お金を払うと言ってきた人に対してそのオファーに、要望に、期待に応えるのがその使命だろう。その筈なのに、「アーティストであること」という“自分ごと”に重きを置いて「(最終オファー先である)ファンの期待は意識しない方がいい、期待には応えない。」というのはどういうことなのか? 職業音楽家としてそれでいいのか?

この疑問は結構根が深いと思われるが、差し当たってこちらの当座の「答」を推測で書いておく。今のヒカルは、皆のイメージする「アーティスト」としての振る舞いを、プロフェッショナルとして全うしようとしているのではないかな、と。ファンやリスナーのみならず、今や同業者や後輩の多くがとんでもないリスペクトを掲げてくる中で、「宇多田ヒカルはカッコいいアーティストであるべきだ」という全世界的な期待…どころか“当然視”が氾濫する中で、そのでっかい期待に応える為には「作品を作る上では」ファンの期待を意識しない方がいい、という結論に、今はなっているのではないかな? そう思うのでありました。

…うーん、やっぱりこのテーマは根が深そうなので今後に遠投だな。ではまた来週っ!

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『Find Love』と『Face My Fears』の日本語訳に関しては事態がややこしい。それぞれの楽曲に日本語バージョンと英語バージョンがあって、更に今回それぞれの英語バージョンに対訳がついたから、見た目だと日本語の歌詞が二つずつ存在することになる。今どのバージョンの話をしてるのかしっかり整理していかないとだわ。

逆に、言語が同じになったことでそれぞれの歌詞の比較がより明瞭になるのはかなりのメリットだ。

例えば『Face My Fears(English Version)』のこの歌詞、

『Watch me cry all my tears』

をヒカルはこう訳した。

『ありったけの涙、流すでしょう』

いやこれほんと、本人のだから当然かもしれないけど、うまく訳したなぁと。『all my tears』が『ありったけの涙』ね。ありったけはあるだけ全部ってことだから、ほぼ直訳なんだけど、このワードが出てくるかどうかだなぁ。翻って『Watch me cry』は直訳だと「私が泣くのを見て」となるところを大胆に『流すでしょう』ときた。これは本人ならではの“思い切り”ですわね。その時になったらそうなる、というのを詠嘆的に予言する口調というのか、未来を感じさせる訳し方で。

これと対比されるのが、今度は『Face My Fears (Japanese Version) 』、日本語バージョンの冒頭の歌詞だ。

『ねえ どれくらい
 ねえ 笑えばいい
 今伝えたいこと よそに』

ここは、一言で言えば「笑って誤魔化している」場面である。他に何か伝えたいことがあるはずなのに、いつまで経っても笑ってやり過ごしている、こんなことがずっと続くのか?という、宇多田ヒカルならではの「1番Aメロでの問題提起」である。(例えば『初恋』の『どうしようもないことを人のせいにしては受け入れてるフリをしていたんだずっと』とか…ってこれ2番の歌詞かw)

この"問題提起”の1文を受けて、今度は英語バージョンの方の

『そう長くない、長くない
 私はもうすぐ此処
 ありったけの涙、流すでしょう』

の段落がある、と解釈すればどうなるだろう? この2曲の関係性がより明確になるのだ。

「笑 ≒ 建前、嘘」
「涙 ≒ 本音、真実」

この対比こそが、『Face My Fears (Japanese Version)』と『Face My Fears (English Version)』の2曲の関係性の軸を構築している。もうちょい踏み込んで言えば、この2曲は、同じテーマをそれぞれ対極の側面から描いた関係性となっているのがこの対比で見えてくる訳だ。

この点は、日本語訳が無い時点でも指摘する事が出来たが、この

『ありったけの涙』

という名訳によって、隠していた本音が奔流の如く外に溢れ出してくる感覚がより明解になり、日本語バージョンの「取り繕う笑い」との対比が更に鮮やかになった。英語バージョンの日本語訳を発表することで日本語バージョンの方の歌詞もより理解が深まるという、事前には予想もしていなかった展開。ヒカルはそこまで意図していたのだろうか? だとしたら恐ろしいね。Face My "Fears"だけにっ。

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『Find Love』だけでなく、『Face My Fears(English Version)』の日本語訳も興味深い点が満載だ。正直、目移りしちゃって仕方がない。

『Face My Fears』の日本語訳で、まず目につくのがその大仰な言い回しだろう。代表的なのは次の2文。

『ああ、なんとほろ苦く切ない』
『ありったけの涙、流すでしょう』

なんだかミュージカルみたいなもったいつけた言い回し。デビュー当時から自然体で凡そこういったしかつめらしい日本語とは無縁だった宇多田ヒカルが、訳詞とはいえこんな堅苦しい?口調を採用するのは新鮮だ。

他にも、

『私が恐れている其れと』
『私はもうすぐ此処』

の2文に見られるように、「それ」を『其れ』と、「ここ」を『此処』と、漢字にすると古風さが出る箇所を漢字にしてきているし、

『してみようか、深呼吸』
『飛び立ってみようか、思い切って』
『何もない、失うものは』
『空間、これは私の選んだこと』
『1マイル、私の靴で歩ける?』

と、元の英語歌詞で倒置法になっている箇所は軒並みそのまま倒置法で日本語に訳している。倒置法は、語頭にインパクトが集中する為これまたミュージカルで多用されるヤツだ。(あとは「ジョジョの奇妙な冒険」とかも多いよな、倒置法は…。)


これらの

・もって回った言い回し
・明治期みたいな漢字の使い方
・徹底した倒置法

などの用法を駆使することで、この『Face My Fears』の日本語訳字幕は、今までの宇多田ヒカルの歌詞世界とは全く違った様相を見せている。正直、言われなければこれがヒカル本人による日本語訳だとは信じられなかったかもしれない。いや寧ろ未だに信じられない…というのは理屈の話で。私はその理屈を認めた上で、

『Faith, should I take a leap?』

の一節を

『飛び立ってみようか、思い切って』

と訳してるのを見て、「あ、ヒカルだ」と思ったのでした。

というのも、なんのことはない、『Find Love』の方で

『Do I dare be vulerable?』

の一節を

『思い切って、脆い自分を晒してみようか?』

と訳していたからね。そうか、今のヒカルのテーマの1つに「思い切る」というのがあるんだな、とこの2曲の日本語訳の共通項に気がついて素直に飲み込めた、と。だって、どちらの英語詞も直訳だと「思い切る」って言葉出て来ないからね。いやま、"take a leap"にはそういう意味もある(Deepl先生はそう訳してた)からまだわかるんだが、『Do I dare ...?』のタイプの文章を敢えてそう訳すのは、まさに思い切ったなヒカルさん、と。訳の傾向自体、まさにそこで言ってる事の実践なんだなと。

他にもお馴染み『ずっと』を多用してたり(ヒカルの歌で『ずっと』が出てくる歌何曲もあるもんね)、『これが私の選んだこと』という言い回しが『点』の『私は彼女を親友に選んだ』を想起させたりで、節々にヒカルらしい日本語の使い方がみられるこの『Face My Fears (English Version)』の訳詞。こちらに関しても、『Find Love』と並行して今後も何回かに渡ってあれやこれやと触れてきますよっと。どっちにも目移りしちゃうからその日その時どっちを取り上げるか自分でもわかりませんけども!

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そしてまた「作詞者本人ならではの大胆な意訳」に戻ろう。元歌詞では

『For now committed to my therapy』

の部分。ここをヒカルは

『今は恋愛よりカウンセリング』

と訳した。殆ど原形留めてない!

どこから『恋愛より』が出て来た? いや確かにそこまでの文脈でそう解釈するのは不自然ではないのだけれど、それにしても思い切って限定してきましたねぇ。原文を直訳すれば

「今のところ(私は)私の治療に取り組んでいます」

そう、本来"therapy"≒「治療」なのだ。内科か外科か、心療内科か精神科かはわからないが、"committed to one"s therapy"って書かれたら「病気か怪我か、何か、治療に従事中なんだろうな」と思わせる。しかしヒカルはここをキッパリ「カウンセリング」にしてきやがった。

インスタライブでも見せた今のヒカルのカウンセリングに対する態度は凡そ「治療」からは程遠い。なんか友達とお茶しに行きますみたいなテンションだったよね。

イギリスのことはわからないが、日本風にいえば、「治療」は大抵健康保険がききそうで、一方カウンセリングは必ずしもそうではない。何かを治す行為というよりは単なる対話に近い。カウンセラーの日本語訳も「相談員」だしね。

そういう"therapy"をあっさり「カウンセリング」と少し意味をずらして(時によりカウンセリングも治療たりえる)限定してきたのは、ここの一節が「宇多田ヒカル本人のこと」だとヒカル自ら強調する為ではないか。だとすると『恋愛より』を差し挟んできた理由も見えてくる。「VOGUE JAPAN」のインタビューでヒカルはこんな風に語っていた。


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スー プライベートの変化に伴う気づきは、ほかにありましたか?

宇多田 こんなに長期間恋人がいなかったのは初めてなんですね。初めてちゃんと自分と向き合いました。それまでは、誰かの気持ちを必死に考え続けることが、自分の気持ちを考えないでいる理由になっていたんです。そこで初めて自分との関係を持った気がして。シングルの長い期間が、一番手応えがあった理由かなって思います。

スー どのくらいの期間ですか?

宇多田 何年だろう、少なくともここ4年間のほとんど、恋人はいないです。

https://www.vogue.co.jp/celebrity/article/in-my-mode


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また、こんな受け答えもあったね。


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スー 宇多田さんが認識する、一番の理解者は誰になりますか?

宇多田 そんなこと言っちゃうと、どうしても精神分析医がパッと浮かんじゃう(笑)。

https://www.vogue.co.jp/celebrity/article/in-my-mode


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つまり、

『今は恋愛よりカウンセリング』

というヒカルの対訳は、

「私宇多田ヒカルは現在数年間恋人はいなくて、今は精神分析医とカウンセリングしてる方がいい」

という極々個人的な事情を反映していると解釈するしかない。作品の対訳でここまでパーソナルでいられるのは本人ならでは以外の何物でもないだろう。

これは、『気分じゃないの(Not In The Mood)』を書いた経験が生きてるのではと私は思う。今の自分のありのままをそのまま事実に基づいて書く、っていうね。にしても、ホント、大胆な事するねぇヒカルパイセンは…。

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この間は「作詞者ならではの大胆な意訳」の一例として『Find Love』の『But I don't wanna be alone every day of my life』を『だって一人でいるのも好きだけど 毎日はイヤ』と訳したのを紹介したが、これとは正反対に

「作詞者本人のくせに
 超ド直球な直訳」

をしている部分があるので今回はそれを紹介してみよう。いや、寧ろ

「作詞者本人だから可能な
 何の遠慮も無い直訳」

なのだとも言えるかもしれないか。まぁどっちでもいいや。


『Find Love』冒頭の一文だ。

『Some days my heart feels miles away』

これをヒカルはこう訳した。

『心だけ何マイルも遠くにあるような日』

と。え?「何マイル」って、"miles"をそのまま訳しちゃうの? いいのそれで? "miles away"ってお馴染みの熟語じゃないの? ググっても真っ先に「ぼんやりしてる」「心ここにあらず」って出てくるよ? 具体的な距離感出しちゃっていいの? 寧ろ「何マイルも」≒「結構遠く」みたいなザックリとした意味合いで使うんじゃないの?

そうなのだ、ヒカルさん、"mile"をそのまま「マイル」って訳すのだ。距離の単位だね。1マイル≒約1.6kmだね。

これ、他の曲でもそうなのよ。『Face My Fears』に出てくる

『A mile, could you walk in my shoes ?』



『1マイル、私の靴で歩ける?』

って訳してるのだ。『1マイル』? いや確かに"a mile"だから直訳すりゃそりゃ1マイルだけど、こう書いたら本気で実際に靴履いて歩いてみる?って訊いてる事になりはしないか??

"walk in one's shoes"はぐぐったらすぐ出てくる(のに私はコメント欄で教えて貰いました)慣用表現で、

「その人の立場を体験する」
「その人の気持ちになって考える」

という意味だ。なのでここの英語歌詞の翻訳は

「私の気持ちを考えてみて?」

とか

「私と同じ道を歩める?」

みたいな、相手の決意や覚悟を問う疑問文になる筈だ。なのにそこが、具体的な数値を孕んだ

『1マイル、私の靴で歩ける?』

っていう書き方だと、まるで、ただ靴擦れしないか確かめるとか、履き心地は如何かなみたいな、比喩の余地の無い直球の質問になっゃうじゃないの? 幾ら何でも大胆すぎやしませんかヒカルパイセン?

恐らくヒカルは、英語の文をそのまま訳すことで、日本語に於いても各々のリスナーが、その意味するところ、比喩の行き先を考えてみて欲しい、感じ取って欲しいと意図してこういう書き方にしたのかなとも思うが、Hikkiファンは素直なんだぞ!? 本気で靴擦れチェックだと思う人結構居ると思うぞ!?

これが作詞者でない対訳者ならちゃんと慣用表現の意味を掬い取って訳してくれると思うのだが、いやはや、作詞者本人が対訳するとこんな両極端なことも起こるのね。面白いもんですわぃ。

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昨日はディズニー関連楽曲の歌詞を扱う恐怖(?)について触れたが、今回は「Netflix独占で流される訳詞字幕の特殊性」について語る。


今回訳詞を掲載するにあたってのいちばんの懸念は、「Hikkiによる日本語訳に興味あったからNetflix入るか検討してたけど、無意識日記で読めるんなら入らなくてもいいかな」と考える人が出て来かねない点だ。今のところそんな声は届いていないが、十分に有り得る想定かと思う。

これ、「訳詞字幕」という素材の価値をどうみるか、なのよね。英語の歌詞だと意味が分からないからそれが分かればもういい、とはならないのがこの素材の面白い所で。

体験としては、

・スタジオライブの映像を目に入れつつ、
・セッション全体のサウンドとヒカルの歌声に酔いしれ、
・更に字幕歌詞を読んで歌詞の意味を頭に入れて心で感じる。

という中々に複合的なものとなっている。

特に『Find Love』に関しては、ヒカル自身が繰り返しているように、日本語歌詞を載せた『キレイな人(Find Love)』と較べて、メロディー自体は同じなのに異なる言語を歌詞として載せる事で楽曲全体のグルーヴに変化が生じる点が聴き所のひとつとなっている。

これをNetflix版『LSAS2022』に当て嵌めると、

・『Find Love』のグルーヴに身を揺らしつつ、
・『Find Love』の歌詞を読む

という事になる。これを可能にするのが訳詞字幕という訳だ。

この体験全体こそが興味深いものだと思うので、無意識日記で訳詞をただ目で読むだけでなく、流れる字幕を追いながら熱演熱唱の映像も観賞し更に曲の醸し出すグルーヴに身を委ねて楽しんで欲しい、というのがこちらの希望なのであります。

とはいえもちろん、コンテンツの楽しみ方はひとりひとり人それぞれなので、こちらからはそういう希望を述べるに留まる。件の懸念は拭えない。権利持ってる人の判断に従うしかないだろうね。


もう一点、訳詞字幕のままでは論評活動に著しく不便を強いるのが問題だ。

本来なら、ウェブ上のコンテンツに対してウェブ上で論評を行うならば単にコンテンツへのリンクをを張るだけで済むのだが、今回の場合は訳詞がリアルタイムで流れていってしまう為、読者が該当箇所を確認しようにも手間が掛かって仕方がない。こちらが再生位置時間を指定して読者がそれを自ら探しに行く…これはお互い面倒極まりない。故に字幕を映像から文字起こしして書き下す事になるのだけど、御存知のように私の論評は「全体の構成」について言及する機会が極めて多く、歌詞全体を一目で一覧出来るようにしておかないと何言ってるんだかサッパリわからないという事態が生じる。その為今回は全文掲載することにした。仮に将来uta-netなどのちゃんとした(著作権使用料を払っている)サイトに訳詞が掲載されたら、エントリごと隠すかもしれません。

あと、そもそも「歌詞」という著作物のサイズ感をどう捉えるかって微妙なのよね。例えば俳句一句について論評する時に17文字"全文"を引用しない人は居ないだろう。俳句は全体の引用が当然の如く認められている。一方、例えば星新一の掌編小説を、数千字程度と短いからといって全文転載して論評を加えたらそれはマズくないかと問われる事になるだろう。

ヒカルの歌詞や訳詞は数百字~千数百字といったところで、掌編小説より短いが俳句や短歌に較べれば長い。また、基本的に、歌詞単体ではコンテンツの素材の一部でしかない。実際の歌声に乗って歌われて初めて本来の表現物となる。素材の一部を切り取って論評するのであればそれは大抵「適切な引用」と見做されるべきなのではないだろうか。「目で読む歌詞」は斯様に独特の存在なのだ。

その上今回は、

・Netflix(有料配信サイト)独占公開で
・実際に画面で流れるのは歌われている歌詞ではなくその訳詞

という点が更に事態を独特にしている。他に参考になる事例がなかなか見つからず、引用の方法などは手探り感満載でお届け中な訳なのでした。


これというのも、「初のバイリンガル・アルバム」として作られた『BADモード』の独自性と、それを可能にした宇多田ヒカルというアーティストの個性が原因なので、んまー、テーマとして選んだ時点で腹を括って、こういう手探りは楽しんでやっていくのがいいのかもしれませんわね。

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その昔、誰とは言わないがファンサイトの掲示板に『Simple And Clean』の対訳を独自に執筆して投稿した人が居たんですよ。もう20年も前の話だから時効だと思うので(何の時効なんだソレは)書いちゃうけど(昔から関係なく事ある毎に書いてるのは内緒)、こんとき掲示板の管理人宛に公式から連絡が来たんですよ。細かい話は私、その管理人当人からも投稿者本人からも直接聞いてる筈なんですが結構忘れちゃってて(ダメやがな)よく覚えてないんですが、要は歌詞の翻訳を掲示板に投稿するのは控えて欲しいという事だったようなのです。

これ、今から考えると隔世の感があるのよね。前回も文化庁のHPから引用した通り、


***** *****


著作権法第32条第1項:
 [1]公正な慣行に合致すること,引用の目的上,正当な範囲内で行われることを条件とし,自分の著作物に他人の著作物を引用して利用することができる。同様の目的であれば,翻訳もできる。

https://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/seidokaisetsu/gaiyo/chosakubutsu_jiyu.html


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と書いてある。現行法では「翻訳もできる」んですよ。ただ、『Simple And Clean』がリリースされた2003年当時の第32条にはこの部分は無かったはずなので確かにスタッフ側からの要請にも一理あった訳でありました。今はもう御覧の通り翻訳行為も大丈夫なのでご安心を。


…と、時代の遷移がまずひとつ論点ね。前回も書いた通り著作権法周りは日々改正されていったりしているので、昔アウトだったものが今はセーフだったりするのです。


で、もうひとつの論点として。今にして思えば、『Simple And Clean』が、「キングダムハーツ」、いや、"Kingdom Hearts"のテーマソングだったのが、翻訳投稿掲載にストップが掛かった一因だったのではないかなと。

というのも、ゲーム「キングダムハーツ」はスクウェアエニックスとディズニーによる合作なんですが、それが理由でこの曲は(『光』もね)、著作権/出版権を持ってるのが"WALT DISNEY MUSIC COMPANY"/「ウォルトディズニーミュージックカンパニー」なんですわ。


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Hikari/Simple And Clean 著作権出版権

著作者/出版者 WALT DISNEY MUSIC COMPANY
管理情報 所属団体 演奏:ASCAP

著作者/出版者 ユニバーサル・ミュージック・パブリッシング Synch事業部
管理情報 所属団体 JASRAC


(以上引用、下記リンク先にて検索)
https://www2.jasrac.or.jp/eJwid/main?trxID=F00100


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ASCAPってのは「米国作曲家作詞家出版者協会」のことね。要するに(歌詞の)著作権/出版権の管理をアメリカでやってるってこと。

こうなってくると、日本の著作権法が通用するかどうかわかんないのよね。更に、ディズニーといえば著作権について世界一といっていいほど力の強い会社で。色々と揶揄もあるのだろうが前に米国で著作権法を改正したとき「ミッキーマウス保護法」とか皮肉られたくらいで、法律動かす程の力があると認識されている。そんな企業が著作権を持っている作品については事なかれ主義にならざるを得なかった、という側面が当時あったのかもしれないねぇ、と私は勝手にそう思ったのでありました。


……だなんて昔話をしているのは他でもない、20年近い時を経て今回私、ヒカルの手によるものとはいえ、そのディズニーが著作権をもつ、"Kingdom Hearts 3"のテーマソング『Face My Fears』の日本語訳歌詞を、この日記に掲載している訳ですよ。私個人は当然、日々の日記での論評用に引用参照しやすいように「適正な慣行」のつもりで掲載してる所存なのですが、何しろ相手はディズニーなので、目下戦々恐々としているところなのでありましたとさ。


いやでも真面目な話なんですよ、えぇ。著作物に対する論評活動に於いて、「適正な引用」がどの範囲までなのかというのは、私としてはかなり厳密に知っておきたい所なのです。読んでる方だって、違法行為に基づいたブログだなんて落ち着いて楽しめないでしょ? そこらへんの線引きは、ホントよく把握しておきたい。

でも、だからってあれやこれやと公式に問い合わせるのも悪手。例えば二次創作の類は「黙認」という手段でお互いの良識を織り込んでそれぞれの表現活動を担保していたりもする訳で。私のしてることは二次創作ではないけれど、「訊かれなかったら何もしないけど、訊かれて明解に答えろと言われたら公式の立場上否と答えざるを得ない」みたいな事例に引っ掛かっているかもしれない。そんなときにわざわざ虎の尾を踏む?藪をつついて蛇を出す?行為・言動をするのはお互いにとってよろしくない。ので、取り敢えず自己判断自己責任でこのまま行くのでありました。くれぐれも、公式の温情を無碍にせぬよう自戒と自制を重ねていくことを誓って明日も明後日も書いていきますよ。

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前回はなんか勇み足だったな。ゆっくりいこ。


まず、そうそう、Netflix版の日本語訳字幕は私の論評用に日記内に書き起こしてあるので、各記事読む際には参照して貰えると有難い。歌詞とはいえ全体の文脈は大事なんだが、逐一常に全文書き下ろす訳にもいかないので。


Find Love : https://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary/e/dfefe5a1c480fc002695ea329d6ac103

Face My Fears : https://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary/e/188f1c78547e8ded05f2b4dd61de260d

About Me : https://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary/e/92fa9fe3d969ea8d6b14dbd5700972ab


URLが長くて見づらいな! ハイパーリンクが効くかどうかそういや試したことなかったな。いっぺん試してみよっと。

Find Love
Face My Fears
About Me


今はどの端末でもURLのテキストなぞったらリンク先に飛んでくれるようになってそうなので、ハイパーリンクって必ずしも入り用ではないのだけどね。


歌詞の引用には気を遣う。皆さんも御存知かと思うが、各歌詞サイトでは容易にテキストがコピペできないようになっている。それでもスクショしてしまえば済むのだけどね。TwitterとかInstagramとかで投稿するときもそのまま画像だろうし。文字で描かれた歌詞もまた創作物として著作権者がある程度自由に使途を制限できるのだ。

とはいえ全く引用を禁止してしまうとそれはそれで各個の表現活動を抑制し過ぎてしまうので、それはそもそもの著作権法の目的に反する。そこで著作権法にはこんな条文がある。


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著作権法第32条第1項:
 [1]公正な慣行に合致すること,引用の目的上,正当な範囲内で行われることを条件とし,自分の著作物に他人の著作物を引用して利用することができる。同様の目的であれば,翻訳もできる。

https://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/seidokaisetsu/gaiyo/chosakubutsu_jiyu.html


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一応当ブログではこの項目に準拠して歌詞という著作物を引用しているつもり。つもり、というのは「公正な慣行」というのに任意性、解釈の余地があるからだ。ここはもう著作権者の判断に任せるしかない。例えば歌詞をまるごと複写して閲覧数を稼ぎアフィリエイトに誘導する、なんて行為はグレーになってくるかなと思う。

それに配慮して当ブログは有料版を使い広告が表示されないようにしている。Amazonなどの商用サイトにリンクを貼る場合URLは最も情報量の少ないものにもしてる。なのでハイパーリンクはあんまりやらないほうがいいのかな。

まぁここらへんは、今までの慣例に沿う感じの使い方でいけば余り問題はないかと思うが、今回は少し気になる点がある。Netflixが地球規模の企業で、そこが独占的に今回の日本語訳字幕を配信しているからだ。この場合果たして日本の著作権法の慣例が通用するのかどうかというのは、正直言ってわからない。

肖像権の適用範囲の推移などをみても、こういった慣例というのは常に流動的で、昨日セーフだったものが今日アウトに、昨日アウトだったものが今日セーフになったりするものなので、毎日の活動としては手探りで進んでいくしかない。

とにかく、個々の表現の自由が最大限尊重され、法の局所的な拡大解釈が敷衍され過ぎないよう、いちブロガーとしては祈るしかないのが現状なのでありました。まぁ、読者の皆さんは、執筆者がそこらへんはちゃんと考えてるので、気にせず気楽に読んで下さいまし。

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さてNetflix版で新しく明らかになった『Find Love』と『Face My Fears (English Version)』のヒカルによる日本語版歌詞についても少しずつ触れていきましょうかね。


やっぱ最初に触れるのは『Find Love』のここかなー。

『But I don't wanna be alone
 Everyday of my life』

んとこを

『だって一人でいるのも好きだけど
毎日はイヤ、毎日はイヤ』

って訳したとこ。大胆!


いやぁほんと、これ本人でないと無理じゃね? いやま、プロの人なら出来るのかな。ぱっと見、真逆だもんねぇ。

『But I don't wanna be alone』

だけに限れば直訳は

「でも、私は一人でいたくありません」

になる。これからヒカルの

『だって一人でいるのも好きだけど』

を持ってくるには、次の「everyday of my life」をしっかり組み込むことが必須なのよね。あたしはなんて訳してたっけな? 多分、

「でも一人ではいたくない
 毎日のことだから」

みたいに訳したかなと思う。確かに、冷静にヒカルの訳と比較すれば、大体同じ意味になるのよなぁ。(ベン図でも書いてみればいい)

「毎日一人だと流石にヤだ」

っていうことなのよね。うん。でもそれから『一人でいるのも好き』っていうとこまで踏み込んだ言い方をするとこが大胆。少し砕いて、

「毎日でないのなら、
 たまには一人で過ごすのも悪くない」

くらいまでが限界かなぁ。論理的に言えばこれの裏をとると

「毎日なら、
 一人で過ごすのは悪い」

になるもんね。うぅむ、いや、確かに書き下してみるとそうなんだけど、あたしにはここまでする勇気は無かったわ。


ヒカル本人による日本語訳のひとつの特徴がここにひとつ表れてる。文章そのものというより、そもそもこの歌詞を書いた時の気持ちまで立ち返ってその気持ちをそのまま書くというか、「この歌詞はこういつもりで書いたんですよ」ということを、訳としてそのまま書きやがる。確かに、本人にしか出来んわね。

でも、今回のこれは、確かにそういう側面もあるものの、論理的に考えれば、『Everyday of my life』を含むことで文章が「全称命題」になって、その否定文(『I DON'T wanna be alone』)だから、『毎日はイヤ」という身も蓋もない書き方は、結構冷徹冷静に論理的に導き出せる。もっと言えば、書いてる時の作詞者の気持ちなんて全く考えなくてもこう書ける。なので、とても不思議な日本語訳だ。ヒカルは、英語の歌詞を書いた時の自分の気持ちを尊重したのかしてなかったのか…。わからなかったよ。


…今回の日記は難解だな。学校で論理学を習ってないと理解は難しいわ。ただシンプルに、

『Everyday of my life
 Everyday of my life』

って歌ってる時に字幕で

『毎日はイヤ
 毎日はイヤ』

って出て来るけど、『イヤ』はどこから来たの? って疑問を持つ人が多発するだろうけどそれはその前の文章の

『But I don't wanna be alone』

の『don't』と組み合わせてるからだよ、ということだけ、踏まえておいて貰えれば、いいかな。いや、ますますわかりにくいな。ほんと、この訳はヒカルさん、悩ましいですわ。見事だけどね。

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こうやって音源のアルバムとして並列させて『BADモード』と『LSAS2022』を聴いてると、曲は殆ど同じなのに印象が随分違うなと。だって『LSAS2022』の楽曲12曲中10曲が『BADモード』の曲だし、『BADモード』の楽曲14曲中10曲が『LSAS2022』の曲なんだもの。

つまり、『LSAA2022』の曲に該当しない『BADモード』の楽曲、即ち『気分じゃないの(Not In The Mood)』『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー』『キレイな人』『Face My Fears(A.G.Cook Remix)』の存在感が非常に大きいということと、『BADモード』収録ではない『LSAS2022』の楽曲『Hotel Lobby』『About Me』の効果が中々に侮れないということだろう。

更には、トリッキーな要素も在る。『LSAS2022』では『Face My Fears』が日本語版と英語版両方の2トラック収録されていて結構目立っているのだが、ここのバンドアレンジの与える印象が、どちらかというとSkrillex & Pooh BearによるオリジナルよりA.G.Cook Remixの方により近い。これもまた、『BADモード』本体とは異なる印象を与える結果となっている。

そして何より、演奏とサウンドが違う。ただ違うのではなく根本的なコンセプトが違う。そこらへんは先週書いたので割愛するが、結果、曲が大幅に重なっているのに『BADモード』と『LSAS2022』は全く別の独立したアルバムとして扱うべきという感覚が強い。あっさり言ってしまえばやっぱりこれは「ニューアルバムの発売」なのだ。


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@utadahikaru :

ライブの音源も、配信中です。実はライブ音源出すの初めて。

The recording of the performance is out on streaming too :)

https://erj.lnk.to/G6t5Wd

posted at 2022/6/12 00:39:28


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ヒカルにも初ライブ音源という自覚があってよかったよ。基本的にライブアルバムってのはアーティスト本人が全く関わらなくても発売になるものなので把握してなかったとしても全然不思議じゃないのだが、最近告知に熱心なヒカルはちゃんと押さえていたね。と同時に、今の私みたいに「ニューアルバムの発売だ!」というテンションでもないわな。まぁそれはそうだろう。既発音源だもんね基本的に。


今はベストアルバム出すにしても新しいマスタリングやリミックス、新規音源がないと「そんなんプレイリストでいいじゃん」となるものだから、今回のやり方はひとつ新しい方法論の布石にはなるかもしれない。つまり、ヒカルも昔『Single Collection』は2枚出しているがベストアルバムはまだなので、将来リリースするときにライブテイクでのベストアルバムなんていうやり方も有り得るんじゃないかなと。

今後どんどんCDでのベストアルバムがリリースしづらくなっていく中、やり方としてはコンサートチケットなどとのバンドルか、音源としての新しい魅力かといったものが必要になってくる。だが本来ベストアルバムはアーティストの休止期間にリリースすべきものなので、新録を要求するとなると本末転倒だ。ならば今までのライブDVDに収録されていたものを初音源化してそれでベストアルバムを構成したら面白いのではないかなど。実現可能性は兎も角、アイデアのひとつとして考えておくのも悪くないかもしれないわ。

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ベイビー、
あなたがプロポーズする前に
私に関して
知っておくべきことがある

もう長い付き合いになるけど
あなたが私を必要とする時は
いつでもあなたの元へ
駆けつけるように努める
でも常に用意万端ってわけじゃない
あなたが見てない時に
私はあなたのために支度をする

でも誤解されてるかもって
心配になる
あなたに伝えなきゃ、伝えたい
怠けることもあるけど、
そうならないようにがんばる
もしかしたら私はあまり
正直な人間じゃないかもしれない
今この瞬間のあなたは
私を愛してるって確信してるけど
私の全てを知ってると言い切れる?
私たち、上がったり下がったり
下がったり ...

ベイビー、
明日までに起き得ることは沢山ある

もう一服呑む前に
その痛みについて考えてみて
あなたにとって良い作用も
あるかもしれないから
あなたから何か受け取ったら
新鮮なお返しをしたい
もう咀嚼したことが
あるようなものじゃなくて
あなたが見てない時に
私はあなたのために支度をする
だって良い予感がするから

何があなたを悩ませてるの?
あなたに伝えなきゃ、伝えたい
意に反してクレイジーに
なっちゃう時もある
もしかしたら私はあまり
正直な人間じゃないかもしれない
まだ赤ちゃんは欲しくない
って言ったらどうする?
私がキュートでナイーブじゃなくても、
構わない?
私たち、上がったり下がったり
下がったり …

でも良い予感がするから
あなたに伝えなきゃ、伝えたい
あなたはなんだか怪しい時もある …
何があったの?
もしかしたらあなたはあまり
正直な人間じゃないのかもしれない
私への愛に確信があるって言うけど
隠し事ばかりしてるのはどういうこと?
形勢は逆転、
ぐるぐる回ってるだけの私たち

今この瞬間のあなたは
私を愛してるって確信してるけど
私をもっと深く知る心構えは出来てる?
上がって下がって下がって、
回って回って回って
私たちはどこへ行くんだろう


引用元: https://www.netflix.com/title/81590689

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してみようか、深呼吸
飛び立ってみようか、思い切って
ああ、なんとほろ苦く切ない
ずっと、これまでずっと

向き合ってみよう
私の中の不安と
向き合ってみよう
私が恐れている其れと
そう長くない、長くない
私はもうすぐ此処
ありったけの涙、流すでしょう

何もない、失うものは
空間、これは私の選んだこと
1マイル、私の靴で歩ける?
ずっと、これからずっと

向き合ってみよう
私の中の不安と
向き合ってみよう
私が恐れている其れと
そう長くない、長くない
私はもうすぐ此処
ありったけの涙、流すでしょう

(アレンジ)

向き合ってみよう
私の中の不安と
向き合ってみよう
私が恐れている其れと
そう長くない、長くない
私はもうすぐ此処
ありったけの涙、流すでしょう


引用元: https://www.netflix.com/title/81590689

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