無意識日記
宇多田光 word:i_
 



この間は「作詞者ならではの大胆な意訳」の一例として『Find Love』の『But I don't wanna be alone every day of my life』を『だって一人でいるのも好きだけど 毎日はイヤ』と訳したのを紹介したが、これとは正反対に

「作詞者本人のくせに
 超ド直球な直訳」

をしている部分があるので今回はそれを紹介してみよう。いや、寧ろ

「作詞者本人だから可能な
 何の遠慮も無い直訳」

なのだとも言えるかもしれないか。まぁどっちでもいいや。


『Find Love』冒頭の一文だ。

『Some days my heart feels miles away』

これをヒカルはこう訳した。

『心だけ何マイルも遠くにあるような日』

と。え?「何マイル」って、"miles"をそのまま訳しちゃうの? いいのそれで? "miles away"ってお馴染みの熟語じゃないの? ググっても真っ先に「ぼんやりしてる」「心ここにあらず」って出てくるよ? 具体的な距離感出しちゃっていいの? 寧ろ「何マイルも」≒「結構遠く」みたいなザックリとした意味合いで使うんじゃないの?

そうなのだ、ヒカルさん、"mile"をそのまま「マイル」って訳すのだ。距離の単位だね。1マイル≒約1.6kmだね。

これ、他の曲でもそうなのよ。『Face My Fears』に出てくる

『A mile, could you walk in my shoes ?』



『1マイル、私の靴で歩ける?』

って訳してるのだ。『1マイル』? いや確かに"a mile"だから直訳すりゃそりゃ1マイルだけど、こう書いたら本気で実際に靴履いて歩いてみる?って訊いてる事になりはしないか??

"walk in one's shoes"はぐぐったらすぐ出てくる(のに私はコメント欄で教えて貰いました)慣用表現で、

「その人の立場を体験する」
「その人の気持ちになって考える」

という意味だ。なのでここの英語歌詞の翻訳は

「私の気持ちを考えてみて?」

とか

「私と同じ道を歩める?」

みたいな、相手の決意や覚悟を問う疑問文になる筈だ。なのにそこが、具体的な数値を孕んだ

『1マイル、私の靴で歩ける?』

っていう書き方だと、まるで、ただ靴擦れしないか確かめるとか、履き心地は如何かなみたいな、比喩の余地の無い直球の質問になっゃうじゃないの? 幾ら何でも大胆すぎやしませんかヒカルパイセン?

恐らくヒカルは、英語の文をそのまま訳すことで、日本語に於いても各々のリスナーが、その意味するところ、比喩の行き先を考えてみて欲しい、感じ取って欲しいと意図してこういう書き方にしたのかなとも思うが、Hikkiファンは素直なんだぞ!? 本気で靴擦れチェックだと思う人結構居ると思うぞ!?

これが作詞者でない対訳者ならちゃんと慣用表現の意味を掬い取って訳してくれると思うのだが、いやはや、作詞者本人が対訳するとこんな両極端なことも起こるのね。面白いもんですわぃ。

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昨日はディズニー関連楽曲の歌詞を扱う恐怖(?)について触れたが、今回は「Netflix独占で流される訳詞字幕の特殊性」について語る。


今回訳詞を掲載するにあたってのいちばんの懸念は、「Hikkiによる日本語訳に興味あったからNetflix入るか検討してたけど、無意識日記で読めるんなら入らなくてもいいかな」と考える人が出て来かねない点だ。今のところそんな声は届いていないが、十分に有り得る想定かと思う。

これ、「訳詞字幕」という素材の価値をどうみるか、なのよね。英語の歌詞だと意味が分からないからそれが分かればもういい、とはならないのがこの素材の面白い所で。

体験としては、

・スタジオライブの映像を目に入れつつ、
・セッション全体のサウンドとヒカルの歌声に酔いしれ、
・更に字幕歌詞を読んで歌詞の意味を頭に入れて心で感じる。

という中々に複合的なものとなっている。

特に『Find Love』に関しては、ヒカル自身が繰り返しているように、日本語歌詞を載せた『キレイな人(Find Love)』と較べて、メロディー自体は同じなのに異なる言語を歌詞として載せる事で楽曲全体のグルーヴに変化が生じる点が聴き所のひとつとなっている。

これをNetflix版『LSAS2022』に当て嵌めると、

・『Find Love』のグルーヴに身を揺らしつつ、
・『Find Love』の歌詞を読む

という事になる。これを可能にするのが訳詞字幕という訳だ。

この体験全体こそが興味深いものだと思うので、無意識日記で訳詞をただ目で読むだけでなく、流れる字幕を追いながら熱演熱唱の映像も観賞し更に曲の醸し出すグルーヴに身を委ねて楽しんで欲しい、というのがこちらの希望なのであります。

とはいえもちろん、コンテンツの楽しみ方はひとりひとり人それぞれなので、こちらからはそういう希望を述べるに留まる。件の懸念は拭えない。権利持ってる人の判断に従うしかないだろうね。


もう一点、訳詞字幕のままでは論評活動に著しく不便を強いるのが問題だ。

本来なら、ウェブ上のコンテンツに対してウェブ上で論評を行うならば単にコンテンツへのリンクをを張るだけで済むのだが、今回の場合は訳詞がリアルタイムで流れていってしまう為、読者が該当箇所を確認しようにも手間が掛かって仕方がない。こちらが再生位置時間を指定して読者がそれを自ら探しに行く…これはお互い面倒極まりない。故に字幕を映像から文字起こしして書き下す事になるのだけど、御存知のように私の論評は「全体の構成」について言及する機会が極めて多く、歌詞全体を一目で一覧出来るようにしておかないと何言ってるんだかサッパリわからないという事態が生じる。その為今回は全文掲載することにした。仮に将来uta-netなどのちゃんとした(著作権使用料を払っている)サイトに訳詞が掲載されたら、エントリごと隠すかもしれません。

あと、そもそも「歌詞」という著作物のサイズ感をどう捉えるかって微妙なのよね。例えば俳句一句について論評する時に17文字"全文"を引用しない人は居ないだろう。俳句は全体の引用が当然の如く認められている。一方、例えば星新一の掌編小説を、数千字程度と短いからといって全文転載して論評を加えたらそれはマズくないかと問われる事になるだろう。

ヒカルの歌詞や訳詞は数百字~千数百字といったところで、掌編小説より短いが俳句や短歌に較べれば長い。また、基本的に、歌詞単体ではコンテンツの素材の一部でしかない。実際の歌声に乗って歌われて初めて本来の表現物となる。素材の一部を切り取って論評するのであればそれは大抵「適切な引用」と見做されるべきなのではないだろうか。「目で読む歌詞」は斯様に独特の存在なのだ。

その上今回は、

・Netflix(有料配信サイト)独占公開で
・実際に画面で流れるのは歌われている歌詞ではなくその訳詞

という点が更に事態を独特にしている。他に参考になる事例がなかなか見つからず、引用の方法などは手探り感満載でお届け中な訳なのでした。


これというのも、「初のバイリンガル・アルバム」として作られた『BADモード』の独自性と、それを可能にした宇多田ヒカルというアーティストの個性が原因なので、んまー、テーマとして選んだ時点で腹を括って、こういう手探りは楽しんでやっていくのがいいのかもしれませんわね。

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