無意識日記
宇多田光 word:i_
 



今度は「痛み」について。ヒカルはまずこう打ち明ける。

『子どもが出来ても、愛というものがやっぱりわからなかったんですよ。私の中で「痛み」とごっちゃになっちゃってて。』

え?どういうこと?「愛」と「痛み」がごっちゃに?? 狐につままれた人も多いのではないか。スーさんに促されてヒカルは解説を試みる。

『「痛み」="pain"です。おそらく初期体験から、愛することも愛されることも辛いこと、恐ろしいこと、と覚えてしまって、「愛」と「痛み」が私の中でセットになっちゃってたんです。二つを混同して、辛い思いをさせられる相手を愛の対象だと思っちゃったり。それで、どちらも感じないように抑え込んでたんだって気づいてから、「愛」と「痛み」を別々のものとして認識することに意識的に取り組んでます。』


へぇ、初期体験! なんだろうこの、3わかって10わからなくなった感じのこの解説は。兎に角、ヒカルが幼い頃?はその二つが常に同時に起こっていたのか? ううむ。

これだけでも難解なのに、そうなのよ、ヒカルは2020年のインスタライブで、「痛み」についてこんな風に語っていたわよね。


『関係が終わったり、誰かを失ったりする時に痛みを感じるのであれば、それは最初から心の中にあって、その関係が痛み止めのような役割を果たしていたんだと思います。
心の中の痛みを紛らわしてくれる存在というか…。

そんな支えを失ってしまうことに痛みを感じるのだと思います。
たとえ相手に依存しないようにしていたとしても、実際は頼ってしまうというか…。

少なくとも、私の経験から学んだことです。』

(引用元:https://grapee.jp/822295 )


つまり、近しい或いは親しい誰かの存在は「痛み止め」(Painkiller)なのだと言っているのだ。これは、

『人と共存することは、自分が生きることと同義だと思うんです』
『お互いに傷つくのも当然』

と今回のインタビュー終盤で語るヒカルの今の態度からすれば、随分と様相が違うようにも思えてくる。この2年で、捉え方や考え方が変わったのか?


ここらへん、、かなり話を整理しないとわからないことかと思われる。特にヒカルが『「愛」と「痛み」を別々のものとして認識することに意識的に取り組』み始めたのが具体的にいつぐらいの時期からなのかで話も変わってこよう。

仮に、全体の流れから推察して、2020年でのインスタライブの時点では既に意識的に「愛」と「痛み」を分離しようとしていたのなら、この「痛み」は「愛」を捨象された何かなのだろう。もっと言えば「愛が見当たらない状態」そのものであるとすら言えるかもしれない。

一方で、「傷」と「痛み」の関係性にも気をつけねばならないのかもしれない。傷は痛いものと須く繋げて考えがちなんだが、ヒカルの中ではかなり違う概念な感触が強い。『傷つけさせてよ治してみせるよ』とか『一人で生きるより永久に傷つきたい』とかの歌詞を、「痛みを与えたい」とか「痛みを覚えたい」とかの意味で歌っているかというと、大分違うように感じるので。「関係の喪失」が「痛み」を思い出させるのならば、「関係の証」であろう「傷」は全く別物だろう。多分、「傷」って「創」とも書くものだし、ヒカルって「傷つける」と「創る」が結構近い所にあるんじゃないかなと。それは「痛み」から大分遠い。


うん、やっぱり「愛」と「痛み」の話は手強いぞ。今回はその間に「傷」を入れてみることで整理してみようかなと思ったけどまだまだ全然物足りないね。インタビューの他の部分や最近の曲の歌詞も巡りながらまたこのテーマに戻ってきたいもんだわ。

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このタイトルの付け方今週までだな。みづれぇ。


「愛と痛み」について知るにはひとつひとついくか。ヒカルは「愛」についてはこう語っている。

『愛ってなんなのかよくわからなかった。BADモードを作っている時期にもそれを考えていて、「そうか、私は対象に愛されてる感覚を与えたいんだ」と気づいたんです。』

わかりにくい。いや、このテーマについて考えたことのある人ならスッと入ってくるかもしれないが、何も知らない人にこの文章を見せて「わかれ」言うたかて「無茶な」と返されるのが関の山よな。

「愛とは何なのか」についてここでヒカルは「再帰的な定義」による理解をしている…と書いてもますますなんのことかわからないので全く別の喩えを試みよう。

「カレーライスとは何なのか?」と問われたときに、「じゃがいもとにんじんとタマネギとお肉に火を通して水で煮てカレールーを混ぜたものを炊いたご飯にかけたもの」みたいな説明をするのが、構成的な定義とか構造的な定義とか言われるヤツだ。説明したい対象が“何から出来上がってるか”という材料とその関係性で話をする。

一方、「日本の国民食といわれるほど人気が高くて専門店なども多い。食べると辛くて香りも豊か。」みたいに、その対象が外界に対して何をするか、という話をすることで言葉の定義を試みるのを操作的定義とか呼ぶ。

更にこれを、「“○○○○○○は、食べると辛くて香辛料の香りが強く、日本国中で大人気です”という文章で、○○○○○○に入る言葉はなんでしょう?」というクイズ形式で言葉を定義するのが再帰的な定義だ。つまり、定義の文章の中に定義されるべきご本人が登場してしまっているタイプ。これ、慣れないと循環論法と区別がつかないので本当に厄介。

なので、ヒカルの愛の定義をそのクイズ形式で書くと、

「相手に○されてると感じて貰いたいと私が思っている謎の感情○」

みたいなことになる。ややこしい上に何も言ってないみたいにしか思えないけど、これはつまり、自分自身とその愛する対象&愛される対象との関係性でその都度決まっていくものだから、それ以上の説明は要らない、どころかしてはならない、と主張しているのだ。

「愛」とは、人が幾ら「これは愛だ」と主張しても、相手がそう感じてなければ愛ではないのよ、と言っているのに大体等しい。「愛は押しつけられるものではない」ということなので、いやはやこれはなかなかに強い主張だったりするのだが、ヒカルのような言い方をするとふんわり着地できるのよね。わかりやすくはないけれど、頭のいい人が頭を使った時ならではの巧みな言葉の使い方だなと私は勝手に感心するのでありました。これも愛だねっ!(……え?)

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