無意識日記
宇多田光 word:i_
 



『Find Love』だけでなく、『Face My Fears(English Version)』の日本語訳も興味深い点が満載だ。正直、目移りしちゃって仕方がない。

『Face My Fears』の日本語訳で、まず目につくのがその大仰な言い回しだろう。代表的なのは次の2文。

『ああ、なんとほろ苦く切ない』
『ありったけの涙、流すでしょう』

なんだかミュージカルみたいなもったいつけた言い回し。デビュー当時から自然体で凡そこういったしかつめらしい日本語とは無縁だった宇多田ヒカルが、訳詞とはいえこんな堅苦しい?口調を採用するのは新鮮だ。

他にも、

『私が恐れている其れと』
『私はもうすぐ此処』

の2文に見られるように、「それ」を『其れ』と、「ここ」を『此処』と、漢字にすると古風さが出る箇所を漢字にしてきているし、

『してみようか、深呼吸』
『飛び立ってみようか、思い切って』
『何もない、失うものは』
『空間、これは私の選んだこと』
『1マイル、私の靴で歩ける?』

と、元の英語歌詞で倒置法になっている箇所は軒並みそのまま倒置法で日本語に訳している。倒置法は、語頭にインパクトが集中する為これまたミュージカルで多用されるヤツだ。(あとは「ジョジョの奇妙な冒険」とかも多いよな、倒置法は…。)


これらの

・もって回った言い回し
・明治期みたいな漢字の使い方
・徹底した倒置法

などの用法を駆使することで、この『Face My Fears』の日本語訳字幕は、今までの宇多田ヒカルの歌詞世界とは全く違った様相を見せている。正直、言われなければこれがヒカル本人による日本語訳だとは信じられなかったかもしれない。いや寧ろ未だに信じられない…というのは理屈の話で。私はその理屈を認めた上で、

『Faith, should I take a leap?』

の一節を

『飛び立ってみようか、思い切って』

と訳してるのを見て、「あ、ヒカルだ」と思ったのでした。

というのも、なんのことはない、『Find Love』の方で

『Do I dare be vulerable?』

の一節を

『思い切って、脆い自分を晒してみようか?』

と訳していたからね。そうか、今のヒカルのテーマの1つに「思い切る」というのがあるんだな、とこの2曲の日本語訳の共通項に気がついて素直に飲み込めた、と。だって、どちらの英語詞も直訳だと「思い切る」って言葉出て来ないからね。いやま、"take a leap"にはそういう意味もある(Deepl先生はそう訳してた)からまだわかるんだが、『Do I dare ...?』のタイプの文章を敢えてそう訳すのは、まさに思い切ったなヒカルさん、と。訳の傾向自体、まさにそこで言ってる事の実践なんだなと。

他にもお馴染み『ずっと』を多用してたり(ヒカルの歌で『ずっと』が出てくる歌何曲もあるもんね)、『これが私の選んだこと』という言い回しが『点』の『私は彼女を親友に選んだ』を想起させたりで、節々にヒカルらしい日本語の使い方がみられるこの『Face My Fears (English Version)』の訳詞。こちらに関しても、『Find Love』と並行して今後も何回かに渡ってあれやこれやと触れてきますよっと。どっちにも目移りしちゃうからその日その時どっちを取り上げるか自分でもわかりませんけども!

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そしてまた「作詞者本人ならではの大胆な意訳」に戻ろう。元歌詞では

『For now committed to my therapy』

の部分。ここをヒカルは

『今は恋愛よりカウンセリング』

と訳した。殆ど原形留めてない!

どこから『恋愛より』が出て来た? いや確かにそこまでの文脈でそう解釈するのは不自然ではないのだけれど、それにしても思い切って限定してきましたねぇ。原文を直訳すれば

「今のところ(私は)私の治療に取り組んでいます」

そう、本来"therapy"≒「治療」なのだ。内科か外科か、心療内科か精神科かはわからないが、"committed to one"s therapy"って書かれたら「病気か怪我か、何か、治療に従事中なんだろうな」と思わせる。しかしヒカルはここをキッパリ「カウンセリング」にしてきやがった。

インスタライブでも見せた今のヒカルのカウンセリングに対する態度は凡そ「治療」からは程遠い。なんか友達とお茶しに行きますみたいなテンションだったよね。

イギリスのことはわからないが、日本風にいえば、「治療」は大抵健康保険がききそうで、一方カウンセリングは必ずしもそうではない。何かを治す行為というよりは単なる対話に近い。カウンセラーの日本語訳も「相談員」だしね。

そういう"therapy"をあっさり「カウンセリング」と少し意味をずらして(時によりカウンセリングも治療たりえる)限定してきたのは、ここの一節が「宇多田ヒカル本人のこと」だとヒカル自ら強調する為ではないか。だとすると『恋愛より』を差し挟んできた理由も見えてくる。「VOGUE JAPAN」のインタビューでヒカルはこんな風に語っていた。


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スー プライベートの変化に伴う気づきは、ほかにありましたか?

宇多田 こんなに長期間恋人がいなかったのは初めてなんですね。初めてちゃんと自分と向き合いました。それまでは、誰かの気持ちを必死に考え続けることが、自分の気持ちを考えないでいる理由になっていたんです。そこで初めて自分との関係を持った気がして。シングルの長い期間が、一番手応えがあった理由かなって思います。

スー どのくらいの期間ですか?

宇多田 何年だろう、少なくともここ4年間のほとんど、恋人はいないです。

https://www.vogue.co.jp/celebrity/article/in-my-mode


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また、こんな受け答えもあったね。


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スー 宇多田さんが認識する、一番の理解者は誰になりますか?

宇多田 そんなこと言っちゃうと、どうしても精神分析医がパッと浮かんじゃう(笑)。

https://www.vogue.co.jp/celebrity/article/in-my-mode


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つまり、

『今は恋愛よりカウンセリング』

というヒカルの対訳は、

「私宇多田ヒカルは現在数年間恋人はいなくて、今は精神分析医とカウンセリングしてる方がいい」

という極々個人的な事情を反映していると解釈するしかない。作品の対訳でここまでパーソナルでいられるのは本人ならでは以外の何物でもないだろう。

これは、『気分じゃないの(Not In The Mood)』を書いた経験が生きてるのではと私は思う。今の自分のありのままをそのまま事実に基づいて書く、っていうね。にしても、ホント、大胆な事するねぇヒカルパイセンは…。

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