無意識日記
宇多田光 word:i_
 



最近歌詞のディテールの話ばかりで、「そもそもこの歌が全体として何を言ってるか」の話が疎かだった。

てことで

『Face My Fears (Japanese Version)』

『Face My Fears (English Version)』の日本語訳

の2つを比較対照してそれぞれ全体として何を言っているかをみてみよう…

…と思ったのだが、予測してなかった事態に現在絶賛困惑中だ。

どういうことか説明してみよう。いや、してみたい、かな? かな~りややこしい話なので、今身を乗り出す元気のない方は一眠りほどしてから改めて読んで欲しいくらいだ。

それぞれの歌詞の参照先URLをはっておく。

『Face My Fears (English Version)』
https://sp.uta-net.com/movie/261822/

『Face My Fears (Japanese Version)』
https://www.uta-net.com/song/261823/

『Face My Fears (LSAS2022 Version)』Netflix 日本語訳字幕
https://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary/e/188f1c78547e8ded05f2b4dd61de260d/


さて始めようか。

まず、『Face My Fears』の日本語版の方。こちらは、

『伝えたい』
『立ちたい』
『歩きたい』
『会いたい』

といった、英語でいえば"want to do"な言い方が目立つ。

一方、英語版の日本語訳の方は

『してみようか』
『飛び立ってみようか』
『向き合ってみよう』

といった、英語でいえば"try doing"な言い方が目立つ。だが、上記の元々の英文はそれぞれ

『should I take a deep (breath)?』
『should I take a leap?』
『Let me face my fears』

だ。shouldやletが使われている。オーソドックスな訳し方をするなら「私はそうすべきか?」と「私にそうさせてください」になる。そのようにせず、「してみようか」という同じ言い回しで統一してきたということは、ヒカルが、この日本語訳によって、ある一定の性格をこの歌の主人公に新しく付与させようとしているように思われる。

元々の英語の歌のキャラクターをそのまま日本語に移そう、としていないのは何故なのか。なかなかに難しいポイントなのだが、ひとつには、「英語歌詞の捩れ現象」があるんじゃないかと思われる。

どういうことかというと、英語版の対訳は、当然ながら全編日本語訳で、全く英語/英単語が出て来ない。出て来たら訳者として職務怠慢と言われる。ちゃんとここも日本語に訳してよ、って言われちゃうよね。

しかし、『Face My Fears (Japanese Version)』、即ち日本語版の方は、歌詞の半分が

『Let me face Let me face
 Let me face my fears』

という英語のリフレインで埋められているのだ。"(Japanese Version)"と言ってる割に、中々に羊頭狗肉なのである。

日本語版は、日本語歌詞半分&英語歌詞半分。
英語版は、全編英語且つその対訳は全編日本語。

これが「英語歌詞の捩れ現象」だ。英語歌詞の日本語訳が、日本語版を“日本語らしさ”で追い抜いてしまっているのだ。

私が推測するに、ここでヒカルはまず、

『Let me face Let me face
 Let me face my fears』

のリフレインをどう日本語に訳すかを考えた。先述のように、これが対訳である以上、するしかないもんね。これは、日本語版の作詞をする時には無かった作業になる。ここで最初に完成させたのが、

『向き合ってみよう
 私の中の不安と
 向き合ってみよう
 私が恐れている其れと』

という部分であった、と。『Let me face』を『向き合ってみよう』と訳したのだ。

その口調をまずサビの所に持ってくることで、英語版の日本語訳の“全体の方向性”が決まったんじゃないかな。ここに合わせて、

『してみようか、深呼吸』
『飛び立ってみようか、思い切って』

という風に「してみよう」の言い方を適用していくと、なるほど、これで日本語訳の方の主人公のキャラクターがなんとなく浮かび上がってきたのだろうと。このような経緯を経たことで、英語版のキャラクターとその日本語訳のキャラクターとの関係性(同じ部分と違う部分)が出来上がっていったのだと思われる。

つまり、要約すると、英語版の日本語訳は、日本語版では日本語にしなかった英語歌詞の部分も日本語にしようとしたことで、日本語版とは異なった口調になった、即ち、それぞれの主人公のキャラクターに差異が生まれたのではないか、ということだ。

なので、日本語版の歌詞と英語版の日本語訳の比較対照は、日本語版の歌詞と英語版の歌詞をそのまま直接比較するのとはまた別の作業にならざるを得ないのである……

…って、こうやって説明してる方もややこしくて仕方がないよ!(笑)

こんな奇妙な事態は初めてだわさ。本人による対訳って、こんなことまで巻き起こすのね…。日本語版の最後に歌われる『私の知らない私に早く会いたい』って、ほんとこの曲を取り巻く状況をよく表してるよ! こんなんヒカルも予想してなかったんじゃない??

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『Find Love』の歌詞が2004年の『The Workout』や2009年の『Dirty Desire』を意識しているのではないかなという話で気になるのが、

『Slow down, you won't get there by hurrying』

の一節だ。対訳はこう。

『焦らないで、急いでも
 辿り着ける場所じゃない』

この『焦らないで』にあたる『Slow down』、『The Workout』にも『Dirty Desire』にも出てこない熟語だが、ただ、『The Workout』で"down"の一語は大量に出てくるのだ。

『get down』
『push it down』
『pull it down』
『keep it down』
『pull me down』
『Up and down』
『down my spine』

これらがリフレインの度に連呼される。いやはや、downばかりである。

ただ、これらの『down』はどれもイケイケ押せ押せのテンションで使われるものばかりだ。日本語で言えば「下す(くだす)」にあたるような。「鉄槌を下す/hammer it down」みたいな。打ち下ろすとか、そういう上から目線のdownばかりなのよね。

『Find Love』の『Slow down』のdownはそれらとは対極にある、勢いを落とす、スピードを下げるという意味のdownである。もしヒカルが『The workout』との対比を念頭に置いていたのなら、これほど鮮やかなものもないだろう。同じ単語を使って対極を描いたのだから。


『Find Love』の中の歌詞としてもここの展開は興味深い。何故ならそこまでの歌詞の中に

『Not gonna park my desire』
『欲求を駐車するつもりはない』

の一節があるからだ。ここでなんでわざわざ『park/駐車』という単語を使ったのか。それは、その後にこの『Slow down』があるからだろう。"slow down"をグーグル先生に訳して貰うとまず「徐行する」というのが出てくる。スピードを落とすことなのだ。その前フリとして、ブレーキをかける意味で『駐車/park』という単語を使ったと。既述のように元歌詞の違和感を残した対訳にしたのはこういった意図があった為と思われる。つまり、

『駐車するつもりはない』

に対比する格好で同じ楽曲の中で

「スピードを落とそうか」

と歌っているのである。御存知のように、楽曲のサウンド面でみてもこの『Slow down』のあたりから曲のテンポがレイドバックする。LSAS2022の映像で観ればドラマーの人の演奏の雰囲気がガラリと変わるのがわかるはずだ。余談だけどここの片手ストロークでのシンバルワークのスピードと正確さは凄いよねぇ。

なので、またまたここでもいつものように、ひとつの歌詞に複数の意味が込められていることになる。

・「駐車するつもりはない」という、歌の主人公をいさめる一言
・バックの演奏もスピードを落とすよ宣言
・若い頃は急いてたかもなぁ、という38歳の感慨

これらの3つの意味を託されてヒカルが『Slow down』を歌ってると思いつつこの淑やかなパートを聴いてみるのも、なかなかよろしいのではないでしょうか。

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