無意識日記
宇多田光 word:i_
 



宇多田ヒカル直近の名盤2枚、『BADモード』と『LSAS2022』の関係性について今一度触れておきたい。

『LSAS2022』が収録されたのは2021年11月、アルバム『BADモード』が完成する前である。『BADモード』は、『気分じゃないの(Not In The Mood)』の歌詞が生まれる2021年12月28日以前は、間違いなく未完成だ。あの曲の入っていないアルバムなんて『BADモード』じゃないだろう。それは他のどの曲についても言えることだけど。

したがって、(ラフな)音源としての完成は『LSAS2022』の方が先である。が、リリースは2022年1月19日で同日。更に、大半の人が先に『BADモード』の方を聴いたと思われる。

ここに捩れが生じている。我々は、後から完成した(スタジオ・フル・)アルバムの方を先に聴いていて、それより先に録音の終わっていた(スタジオ・ライブ・)アルバムの方を後に聴いているのだ。となると、時系列の認識が逆な筈なのよね。

『LSAS2022』でパフォームされていない2曲、『気分じゃないの』と『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー』は、アルバムの雰囲気を決定づけるといえるほどの存在感を放っている。事実、それぞれ(ボーナストラック表記のない)本編10曲のうちの6曲目と10曲目で、これは、アナログ世代の感覚でいえば(もうサブスク配信の時代だというのに君は!)それぞれB面1曲目とB面ラストにあたる。大抵、重要な楽曲である。

だが、後から聴いているのにも拘わらず、我々は『LSAS2022』に“欠落感”を感じない。確かに、自分も『LSAS2022』を聴いた後にすぐさま『気分じゃないの(Not In The Mood)』や『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー』を再生したことは一度や二度ではないのだが、それは『LSAS2022』が物足りなかったからではなく、単にその2曲が流れなかったから聴くのにいいタイミングだったからに過ぎない。…違い、わかるかなぁ?

『LSAS2022』は、全編聴き終わった後にしっかりと「フルアルバムを聴き切った充実感」を与えてくれる。それは、そもそも『気分じゃないの(Not In The Mood)』と『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー』がその時点で“この世に存在していなかった”ので、送り手側も物足りなさを感じようがなかった、故に与えようがなかった、ということと、それに加えて、『EXODUS』からの2曲、『Hotel Lobby』と『About Me』がドンピシャに嵌まったからだろう。

今から思えば、『Hotel Lobby』が補った「異国リゾート感覚」は『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー』への布石だったという見方も出来るし、そもそもサウンドの感触が(幅広いヒカルの音楽性のスペクトルの中では比較的)『Find Love』に似ているから馴染み易かったという見方も出来る。しかしやはり、「鏡の中の自分をみつめる」その歌詞が、「私について」語る『About Me』と共に、2021年の宇多田ヒカルの持っていたテーマ性("relationship with myself")に合致していたから、と捉えるのがいちばん自然なのかもしれない。でもここらへんは、各自が答をそれぞれに見つけていった方がいいかな。

兎に角、先に在るの『LSAS2022』のひとつの作品としてのまとまりであり、『BADモード』より先に存在していたという“真の時系列”だ。ここを今のうちに整理して覚えておかないと、何年後かに2021年と2022年を振り返った時に脳が誤解しかねないよ…というのが私が経験から導き出した現時点での注意事項なのでした。まぁ、大したことじゃあないですね。今日も普通に聴いて楽しもうっと♪

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昨日は『DEEP RIVER』アルバム発売20周年記念日だった。その余りのヒカルの力の出し尽くし振りに「これが最後の作品になってもおかしくないな…山口百恵コースかな?」とまで思わされた凄まじい密度だったのだが、今こうやって『BADモード』がリリースされた後に振り返ると「あぁ、確かにこの人が19歳の時の作品をだわ」みたいな醒めた見方が出来てしまうのいうのは、恐ろしいやらなんなのやら。

15~16歳の時の『First Love』アルバム時点で既に大人びていて成熟しているなぁと思わされていたのに、その後の成長は「普通」だった。それは、周りからみると際限ない天井知らずの成長と進化の連続だったが、本人からしてみたら「普通」に歳を重ねたに過ぎない。今39歳の人が「19の頃は若かったなぁ」と呟くのと同じテンションでヒカルも今「19の頃はこんなんだったんだ」って呟ける。至って、「普通」。

音楽という手段の特性か、その年齢の時にしか出せない味わいというものをその時々に放ちつつ、常に前作までの積み重ねを反映させた境地にまで至ってきたのは驚異的という他はない。『DEEP RIVER』アルバムも、その出発点は前作『Distance』アルバムのタイトルトラックの生まれ変わりである『FINAL DISTANCE』だった。未来の自分に確実にバトンを渡していく浪漫は当時も何百万人という人間を巻き込んでいったのだ。

この頃の「先の見えない全力ぶり」は、青春だなぁと私は思う。無茶で無謀。本人もこの時期を指して『思春期』と名付けていたけれど、さもありなん。今でもアルバム制作は全力だが、向こう見ずな場面はみられない。何しろ作業が終わったら家に帰ってこどもの世話をしないといけないのだから。炊事洗濯掃除、やることは山ほどある。全力を出し尽くして倒れる訳にはいかないのだ。

それは、セーブしてるというより、倒れられる時に倒れてきたから故の経験値の豊富さからきているものだ。ここまでなら大丈夫、ここから先はもうダメ、というセンが人より遥かに見えている。とは言ってるけど、今回もリリース3週間前まで歌詞が全然出来てなかったりと綱渡りなのは変わらない…というか余計酷くなってる? ギリギリを狙い過ぎ?

『DEEP RIVER』の先の見えない切羽詰まった焦燥感や切迫感、やり切った達成感などは、もう今後は味わえないかもしれない。しかし、写真のスナップを挟み込んだアルバム同様、その時々の楽曲と歌詞で織り綴られた歌のアルバムも、れっきとした宇多田ヒカルの人生のアルバムなのだ。そう捉えてアルバムを“眺めて”いると、20年って、長かったような一瞬だったような、不思議な感覚に囚われる。多分、あの頃の感覚はもう味わえないどころか、思い出すことも出来なくなっていくかもしれないけれど、歌は変わらずそこに在る。自分が哲学的ゾンビになっていたとしても構わない。

今まだこの“19歳モード”を迎えていない世代、即ちこのアルバムが世に出たときまだこの世に生まれてなかった世代がこれを聴いてどう思うのやら。差し当たって、息子くんの感想は、聞いてみたいかな? 「ここにこんなパートを入れたら良かったと思うよ」とかいってまたお母さんの前で歌い出したりしていたら、また未来が感じられてとてもよさそうだ。

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