無意識日記
宇多田光 word:i_
 



『Find Love』のここの箇所の日本語訳、なんか色々と混じってる気がする。

『For now committed to my therapy
 I train with Vicki 3 to 5 times a week
 Getting stronger isn't easy, baby』

ヒカルはこう訳している。

『今は恋愛よりカウンセリング
 それと週3~5でヴィッキーとトレーニング
 楽して強くなれるわけないじゃん』

なんて気さくな!

ふむ、1文目からしておかしい。
『For now committed to my therapy』
は直訳すると

「今のところ私の治療に取り組んでいます」

になる。恋愛もカウンセリングも出てこない。だが勿論この対訳でいいとリスナーは知っている。「VOGUE JAPAN」のインタビューで、ヒカル自身がここ4年は恋人が居らず精神分析医からカウンセリングを受けていると告白しているからだ。裏を返せば、それを知らないとココなんのこっちゃわからんのよね。歌詞の対訳の意図を汲むときに作詞者の近況を知らないといけない。変な対訳もあったもんだ。

次の1文も作詞者の近況絡みだ。

『I train with Vicki 3 to 5 times a week』
『それと週3~5でヴィッキーとトレーニング』

これもインスタライブで解説してくれたが、それなかったら我々未だに「ヴィッキーって誰よ?」と訝しんでいたかもしれない。全く罪作りな歌詞である。

そんな近況報告を絡めた対訳を読んでいると、そもそもの元歌詞の

『3 to 5 time a week』

という数字を絡めた歌詞が、昔のUTADAの曲っぽいなと気がつく。

例えば2004年の『EXODUS』収録曲である『The Workout』には

『One life, two-time, 3 girls, 4 guys
 Five ripples running up and down my spine
 6.0 Make it sweet, drop another dime』

という、1から6までの数え歌みたいなパートがあるし、2009年の『This Is The One』収録曲である『Dirty Desire』には

『Doing my nine to five
 I'm thinkinh six and nine』

という「9から5」「6と9」とかいう意味深な(未成年は調べちゃダメですよっ)数字の言葉遊びも出てくる。どうにも『Find Love』の『3 to 5』を耳にし目にすると、これらの2曲が想起されてしまうのだ。

言われてみると、そういえば『Find Love』には

『Not gonna park my desire』

という一節に『Dirty Desire』と同じく"desire"という単語が出てくるし、

『Gonna find out if the hard work was worth it』

の『the hard work』はそういやなんか『The Workout』っぽい。ここのBe動詞が『was』と過去形なのも、過去曲『The Workout』がハードワークだったって事とかけてる? どうなんだろう?

そんな風に捉えると、

『今は恋愛よりカウンセリング』

という対訳は、現在のヒカルの現実の生活であるとともに、「昔は『Dirty Desire』や『The Workout』で恋愛絡みの歌を歌ってたけど、今はこうやってカウンセリングをテーマにした歌を歌っているの」という“ヒカルの英語歌詞遍歴”を指してるかもしれなくて、いやはややっぱりここの対訳は、色々と混じっちゃってるんじゃないですかねー? どうなんでしょ?

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『Find Love』での「作詞者本人ならではな大胆過ぎる直訳」のひとつに次の一文がある。

『Not gonna park my desire』

ヒカルはこれをこう訳した。

『欲求を駐車するつもりはない』

……正直、日本語として変! 「欲求を駐車する」てね。最も、なんとなく意味は伝わる。なんとなくね。

うむ、普通に訳すなら文意を汲んで

「欲求にブレーキを掛けて止める気は無い」

とでもするところだろう。恐らくだが、ヒカルの意図として、意味が通じそうだったら出来るだけ英語の歌詞が持っているニュアンスも伝わるようにしたい、のだ。つまり、日本語で意訳し過ぎることで、英語の時点でもっているウィット感を毀損するのは得策ではない、と。ジョークを説明しすぎると笑えなくなる、というのと同じように、少し洒落た(?)言い回しもまた説明のし過ぎはよくない、と。


これに近い感触で、これまた大胆に訳されたのが、今度は『Face My Fears (English Version)』の、次の一節である。

『Space, this is what I choose』

これをヒカルはこう訳した。

『空間、これは私の選んだこと』

ド直球の直訳である。20年前の機械翻訳にかけてもこう訳すであろうという一語の隙も無い逐語訳だ。

だが、これでいいのだ。日本語でこの対訳を目で読んだ時に感じる「どういう意味だよ!?」という感想は、そのまま英語で初めてこの歌詞を耳にした時の「どういう意味だよ!?」な感想そのままだからだ。

つまりヒカルにとって、対訳によって「歌詞の意味がわかる」事は必ずしも必須の目的ではないということだ。

とはいえ、「いや、英語の歌詞って英語がわからない私たちが聞いても意味がわからないから日本語を使って私たちに歌詞の文章の意味を伝えてるんでしょ!?」と真っ当なツッコミも入れたくなる。しかし、英語が聴き取れる人であっても、英語の歌詞って意味がわかるとは限らない。うちらが日本語の歌を聴いてる時でもそうじゃない? 「白のパンダをどれでも全部並べて」ってなんだそれ?ってならん??? …あぃすまん、出した例が極端だなこれ。

ともかく、ヒカルはただ歌詞の意味を伝えるだけではなく、英語の歌詞を聴いた時に感じるある程度の「わからなさ」もまた、対訳によって伝えようとしているのではないか、と読めてくる。なので、

『欲求を駐車するつもりはない』

を読んだ時に感じる「ん?ブレーキをかけて止めることはない、とかそういうこと?」みたいな疑問感や、

『空間、これは私が選んだこと』

を読んだ時に感じる「え、なんのこと!?」といった当惑感。それらは、ヒカルの表現したかったこと、我々に与えたかった感覚そのものなので、それで何の問題もない。どころかヒカルからしたら「ミッション・コンプリート!」「目的達成!」なことだと思われる。そう、何の問題もない。これでいいのだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )