無意識日記
宇多田光 word:i_
 



警告:今回は前にも増してややこしいぞ?


『Face My Fears』に関しては、そもそも元の日本語版の歌詞が半分英語であるため、英語版の日本語訳を律儀に全文日本語にした結果、日本語版より英語版の日本語訳の方がより日本語色が強くなってしまった、という「捩れた関係」が成立していた。


では、『Find Love』の方はどうなのか。

こちらは『(English Version)』や『(Japanese Version)』という表記はないものの、『Find Love』の方が英語版、『キレイな人(Find Love)』の方が日本語版ということになっている。

だが、そうなのだ、こちらも、『Face My Fears』同様、日本語版と呼ばれるべき『キレイな人(Find Love)』の中にも、英語の歌詞が結構含まれているのである。


※ 参照
『キレイな人(Find Love)』の歌詞:
https://sp.utamap.com/showkasi.php?surl=k-220223-100

『Find Love』の歌詞:
https://sp.utamap.com/showkasi.php?surl=k-220223-096


この2つを比較すると、特に

『Find love, til I find love, til I find love』
『Every day of my life』

という2つの英語のリフレインが両者で重複している。それと楽曲ラストの

『But I don't wanna be alone
 Every day of my life

 Gonna find out if the hard work was worth it
 I know it's somewhere in me
 I'm just tryna find love』

の部分はまるきりそのままだ。日本語版と呼ぶのが憚られるくらい大胆に長文な英語で歌が締め括られる。

では、『Find Love』─つまり英語版の方のNetflix和訳字幕は、一体どのようになっているのだろうか。


【『Find Love (LSAS2022)』Netflix和訳字幕】
https://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary/e/dfefe5a1c480fc002695ea329d6ac103/


まず、ラストの一段落半については、

『一人でいるのも好きだけど
 毎日はイヤ

 努力の甲斐があるほどのことか、
 確かめてやる
 私の中のどこかにあるって
 分かってる
 ただ愛を見つけようとしてるだけ』

としっかりまるごと日本語訳されている。うむうむ。

『Every day of my life』の繰り返しに関しても、

『毎日はイヤ』

という言い回しで統一して訳されている。ココに関しては前に触れたわね。

これら2つに関しては、『Face My Fears』同様、日本語版に於いても英語歌詞であった部分を日本語訳している為、英語版和訳の方が日本語版より日本語色が強い、という結果になっている。

では、タイトルネームを含むリフレインであるところの

『Find love, til I find love, til I find love』

に関しては和訳字幕はどうなっているかというと…

『Find love, til I find love, til I find love』

…英語のまんまかよ! 職務怠慢かよ! 

…っと、つかみかかりそうになるのだが、よくよく訳詞を見てみると、そのままになっているのは一部のリフレインだけで、それ以外の、『Find Love』を歌詞に含む場所では

『私が愛に辿り着くまでは』

とか

『ただ愛を見つけようと
 してるだけ』

とかいう風に、ちゃんと日本語訳されてるのよ『(un)til I find love』っていうフレーズ自体は! ねぇ、ヒカルさん、この差は一体何なのさ!? どうして同じ『(un)til I find love』ってフレーズが、時には英語のままだったり、時には律儀に日本語に訳されていたりするの?

…と、いう話からまた次回…ってコレいつも通りだと来週になっちゃうのか!? 暑さのせいで気が変わっててそうで怖いわ(笑)。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




こうやって歌詞や対訳の解釈を繰り返しているが、何度でも言うけどこんなんいちリスナーの妄想に過ぎず、正しいとか間違ってるとか以前の話だ。これを聴いてこう思った、とかは単なる感想だし、作詞者はこう考えたのではないか?といった話は天気予報より遥かに当たらない推測でしかない。シンプルに、「こんな見方もできるのか~」と距離をとって楽しんで欲しい。

一方で、当然作詞者の書いたときの意図というのも存在していて、明らかな誤読や誤解といったものもある。どこがどう誤っているのかがクリアカットなケースである。

例えば、ヒカルもインスタライブで触れていた『君に夢中』のこの歌詞。

『知れば知るほど遠のく
 真実を追いかける最中に
 私が私を欺く』

この書き方はメロディの区切りに沿った改行の仕方だ。が、ヒカルのそもそもの意図としては

『知れば知るほど遠のく真実を
 追いかける最中に
 私が私を欺く』

なんだとさ。前も触れたように、ヒカルは「日本語は文字単位でバラバラに音符に載せられるのだからどこで区切ってもいい」と考えて、文章の切れ目とメロディの切れ目がズレたとしてもケアしない。だが現実は、「日本語は文字単位でバラバラに音符を載せられる為、テキトーに区切ったら文章の意味が伝わらなくなる。故にメロディと文章の切れ目が一致している方が望ましい≒文意が伝わりやすい」のだ。


これと似てはいるが逆の例が、お馴染み『First Love』の

『明日の今頃には
 私はきっと泣いてる
 あなたを想ってるんだろう』

の一節だ。こうして文字で見ると誤解のしようもない。明日の今頃に私は泣きながらあなたのことを想っているのだ。そうとしか読めない。

だが、『Automatic』の「な/なかいめのべ/るでじゅわきを」に衝撃を受けた当時のリスナーは、「宇多田ヒカルだからメロディと文章の区切りが一致してるとは限らない」として(かどうかはわからないが兎に角)次のように解釈した。

「明日の今頃には
 私はきっと
 泣いてるあなたを
 想っているんだろう」

泣いてる主語を「私」から「あなた」に入れ換えて解釈したのだ。普通ならこんな歌詞の捉え方はしないが、それほどに1999年当時宇多田ヒカルの「メロディと文章の区切りを合わせることに拘らない姿勢」はかなりのインパクトを与えたのだ。こう疑わずにはいられなかったのです。

なので、ヒカルの歌詞が誤読・誤解されやすいのは、結構自業自得な側面がある訳だ。ざまーみろw…とかって言いたいとこだけど、俯瞰してみれば、そのインパクトのお陰もあってそれだけ歌う歌詞書く歌詞が注目され聴かれてるってことだから、これは作詞者としては「でっかいもんを手に入れた時のほんの僅かな代償」でしかないんじゃないかなぁ。負の側面と呼ぶにはあんまりにも可愛らしすぎるだろう。

それに、そうやって多義的に解釈されることが次の創作にも繋がっていく。本人がそれを踏まえて次の作詞に取り組むのでもいいし、作詞者本来の意図でない解釈に基づいた二次創作や他者のオリジナルへの影響などが出てくればそれはそれで楽しい。大体そのように捉えていたら、悪いことなど何もない。クリアカットな誤解・誤読なら、上の例のようにするっと素直に指摘すればいいだけである。それもまた楽しい。なので皆さんも遠慮無く自分自身の解釈を喋ればいいと思いますですよっと。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )