無意識日記
宇多田光 word:i_
 



『BADモード』も『LSAS2022』も素晴らしい出来映えで、コーチェラに出れば世界中のファンが咽び泣き、写真一枚で何人ものファンを卒倒させている2022年のヒカルさん。果ては「VOGUE JAPAN」のインタビューまで大絶賛されている。普段ヒカルを聴いてない層にまで届いているぞ。中には、ただインタビューの発言を切り取っただけのツイートがヒカル本人のツイートよりバズるなんていう訳の分からない現象までみられる。もう各方面どころか全方面から称賛されるヒカルさん。四面楚歌ならぬ四面賛歌とでも言いましょうかねこの状況。

そんな流れに最近私同調し過ぎてるなとふと気がついてそういや私は天の邪鬼だったわと思い出したので、たまにはヒカルの発言に疑義を呈してみたい。発言ね。音楽はもう本当に文句の付け所がないので。


例えば、「VOGUE JAPAN」のこの発言なんかはどうだろうか?


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スー 宇多田さんは普通の人が経験できない人生を歩んできたと思いますが、誰の期待に応えることが、誰の期待を裏切ることが、一番ハードでしたか?

宇多田 期待……。ファンの期待は、意識しないほうがいいと思ってるんです。アーティストであることは、作品を作る上でそういう期待に応えないってことだから。


https://www.vogue.co.jp/celebrity/article/in-my-mode


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この発言も多分、各方面から「カッコいい!」と大絶賛されてるだろうことは想像に難くない。兎角ヒットに固執しがちなJ-popアーティストの皆さんからしたら「ファンの期待は意識しない方がいい」と言い切れてしまうのは憧れの境地だろう。どうしてもリスナーやファンに媚びてしまう所が出てくるからね。そういった卑屈な面を全く見せない…どころかそもそも卑屈な面が無い宇多田ヒカルが、それでも『One Last Kiss』のような現在進行形の大ヒット曲を生み出し続けているのは本当にカッコいい。うむ、それについは異議は無し。

でもちょっと待ってアンタその「期待」って、具体的に何のこと? そこがハッキリしない。

『作品を作る上で』という発言は、踏まえなくてはいけないね。これが「コンサートを催す上で」とかだと話が違ってくるからな。どのコンサートでも必ず『Automatic』と『First Love』を、どの曲よりも原曲に近い雰囲気で毎回々々歌ってくれるのは、まず間違いなくファンの期待に応える為だろう。でなきゃこんな何度も歌ってる歌、もっと実験的なアレンジを試してみたくなるものだもの。アーティストならね。

また、此処で言うのは『ファンの"期待"」であって、音楽を聴いた後の「ファンの"意見や感想"」ではない。ヒカルもエゴサに余念が無い事からもわかるとおり、出来た音楽に対するリアクションについては毎回毎度意識が向きまくりである。アーティストでもそこは仕方がない。

ここでは、あクマで、『作品を作る上で』というのが話のポイントなのです。そこはハッキリさせとかないと。

それを踏まえた上で、『アーティストであること』というのは、今のヒカルにとって一体どういう意味を持つのか? 今までずっと、「音楽家であること」は「家業を継いだ結果」だと強調してきたではないか。うどん屋や呉服屋の2代目3代目と変わらず、祖母や母や父の就いていた職に自分も就いたのだろう。だからいつも「職業音楽家」として、即ち「プロ意識」の強い「職人」としての矜恃を維持してきたのではなかったか?

職業音楽家の場合、オファーが総てだ。お金を払うと言ってきた人に対してそのオファーに、要望に、期待に応えるのがその使命だろう。その筈なのに、「アーティストであること」という“自分ごと”に重きを置いて「(最終オファー先である)ファンの期待は意識しない方がいい、期待には応えない。」というのはどういうことなのか? 職業音楽家としてそれでいいのか?

この疑問は結構根が深いと思われるが、差し当たってこちらの当座の「答」を推測で書いておく。今のヒカルは、皆のイメージする「アーティスト」としての振る舞いを、プロフェッショナルとして全うしようとしているのではないかな、と。ファンやリスナーのみならず、今や同業者や後輩の多くがとんでもないリスペクトを掲げてくる中で、「宇多田ヒカルはカッコいいアーティストであるべきだ」という全世界的な期待…どころか“当然視”が氾濫する中で、そのでっかい期待に応える為には「作品を作る上では」ファンの期待を意識しない方がいい、という結論に、今はなっているのではないかな? そう思うのでありました。

…うーん、やっぱりこのテーマは根が深そうなので今後に遠投だな。ではまた来週っ!

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『Find Love』と『Face My Fears』の日本語訳に関しては事態がややこしい。それぞれの楽曲に日本語バージョンと英語バージョンがあって、更に今回それぞれの英語バージョンに対訳がついたから、見た目だと日本語の歌詞が二つずつ存在することになる。今どのバージョンの話をしてるのかしっかり整理していかないとだわ。

逆に、言語が同じになったことでそれぞれの歌詞の比較がより明瞭になるのはかなりのメリットだ。

例えば『Face My Fears(English Version)』のこの歌詞、

『Watch me cry all my tears』

をヒカルはこう訳した。

『ありったけの涙、流すでしょう』

いやこれほんと、本人のだから当然かもしれないけど、うまく訳したなぁと。『all my tears』が『ありったけの涙』ね。ありったけはあるだけ全部ってことだから、ほぼ直訳なんだけど、このワードが出てくるかどうかだなぁ。翻って『Watch me cry』は直訳だと「私が泣くのを見て」となるところを大胆に『流すでしょう』ときた。これは本人ならではの“思い切り”ですわね。その時になったらそうなる、というのを詠嘆的に予言する口調というのか、未来を感じさせる訳し方で。

これと対比されるのが、今度は『Face My Fears (Japanese Version) 』、日本語バージョンの冒頭の歌詞だ。

『ねえ どれくらい
 ねえ 笑えばいい
 今伝えたいこと よそに』

ここは、一言で言えば「笑って誤魔化している」場面である。他に何か伝えたいことがあるはずなのに、いつまで経っても笑ってやり過ごしている、こんなことがずっと続くのか?という、宇多田ヒカルならではの「1番Aメロでの問題提起」である。(例えば『初恋』の『どうしようもないことを人のせいにしては受け入れてるフリをしていたんだずっと』とか…ってこれ2番の歌詞かw)

この"問題提起”の1文を受けて、今度は英語バージョンの方の

『そう長くない、長くない
 私はもうすぐ此処
 ありったけの涙、流すでしょう』

の段落がある、と解釈すればどうなるだろう? この2曲の関係性がより明確になるのだ。

「笑 ≒ 建前、嘘」
「涙 ≒ 本音、真実」

この対比こそが、『Face My Fears (Japanese Version)』と『Face My Fears (English Version)』の2曲の関係性の軸を構築している。もうちょい踏み込んで言えば、この2曲は、同じテーマをそれぞれ対極の側面から描いた関係性となっているのがこの対比で見えてくる訳だ。

この点は、日本語訳が無い時点でも指摘する事が出来たが、この

『ありったけの涙』

という名訳によって、隠していた本音が奔流の如く外に溢れ出してくる感覚がより明解になり、日本語バージョンの「取り繕う笑い」との対比が更に鮮やかになった。英語バージョンの日本語訳を発表することで日本語バージョンの方の歌詞もより理解が深まるという、事前には予想もしていなかった展開。ヒカルはそこまで意図していたのだろうか? だとしたら恐ろしいね。Face My "Fears"だけにっ。

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