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無意識日記
宇多田光 word:i_
 



昨夜も宇多田ねえさんがツイートして祭りに。その隙にメッセ更新してんじゃないかと余計な勘ぐりを入れてみたがそんな事はなかったぜ。

これで2ツイートを継ぎ足して999ツイート。1000ツイートめを期待するツイートが増えてくのを見て「これは寝るな」と思ったら案の定。そこは透かしを入れてくるのがねえさんだわな。1000ツイートめは気長に待つのが宜しかろう。そうしてれば向こうも「驚かしてやろう」と気が変わって早いタイミングでツイートを…というこちらの考えを見透かしてやっぱりもう一度待たせようかと…いう感じでいたちごっこな心理戦は続いてゆく。

で、相変わらずクマーなのか。まぁこれは一生変わらんかな。デビュー当時のイメージからするとくまくま言ってるのは違和感ありまくりかもしれないが、かといって今更くま離れされても派手な下駄外しだ。若年層のみならず幼年層にも居るかもしれないファンたちを裏切るような真似はすまい。昨夜も1歳児がぼくはくまを唄っているというツイートがあったが、一度でもみんなのうたで童謡を披露したのなら多分一生ものなのだ。まぁ寧ろ今までの流れからするとぼくはくまをエクストラとして除外する態度をこそ忌み嫌ってきたのだし、人間活動ってそういう所を変化させるものでもないんだろうな。

まぁ唯一(?)気になるのは子どもが出来た時か…一緒にぼくはくま唄うだけか。解決。

で記念の1000ツイートめはどんなので来るのだろう。クマチャンが1000円札を握り締めて「富~名声~ぐへへへへへ」とご乱心な写真でも載っけるか。あ、それもうやりましたかね。ならば「線」の宣伝をせんかなぁ…せんわな。まぁ普通にクマチャンとのツーショット写真が無難である事よのう。ツイートしてくれるんなら何でもいいんですけどね。

束の間かもしれないが、こうやって光の言葉を待てる、というのは幸せだ。幾つか「英語でもツイートしてくれよ」という要望も読んだが、何だかんだでハシャいでいる。たったこれだけの事なんだけどねぇ。それこそ、これを999回繰り返してきたのに褪せないのは、これもまた不思議というか当然というか。

気長に待つかな。

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昨夜ツイートしあってて判明した、というか教えて貰った事実なんだが、どうやら光は高校に4年間通っていた事になるらしい。NYのヒューイットスクールの小学校に通っていた頃、1年生の時点で3年に飛び級しないかといわれて一回は断ったが2年に上がった時もう一度奨められて今度は同意したんだと。つまり7歳の夏に小学生4年生になり10歳の夏には小学校を卒業、中学を出たのはそうすると13歳の夏になる。高校を卒業したのはメッセにある通り17歳の夏だから、確かにこの計算だと高校に4年間通っていた事になる。

何でも、高校が飛び級を認めなかったらしい。ほんまかいな。何の為に飛び級したんかわからへんがな。

で、もう少し整理しておくと光は13歳の時点でEMIUSAと契約を結びアルバムをレコーディングしていたがEMIUSAが消滅しておリリースが立ち消えになった、と。この話は私もインタビューを翻訳した覚えがあるし、何よりも点に載っている(んだよね?)。で、この後14歳の夏に三宅さんの目に止まり、15歳の冬にはCubic Uを日本でリリース、16歳直前の冬に宇多田ヒカルとしてAutomatic/time will tellをリリースした、っていうスンポーだ。

で、三宅さんは光と出会った時彼女は制服を着ていたと証言していた筈だからこれは高校を転校する前の話になるのかな。転校した後の学校って制服なしの私服じゃなかったっけ? そこらへんが不明確だが、点には"14歳の夏"と書いてあるのでこの後デビューに合わせて学校を変えた事になる。

しかし、だとするとこの人のミュージシャンとしての稼働年数ってえらい長いのだ。13歳の夏から、つまり中学卒業時点から数えるのが正しいらしい。ここから28歳の誕生日前までずっとミュージシャンやってたのだ。それ以前のU3とかあるけどね。つまり、まるまる14年、15年近く、少なくとも13歳の時からプロフェッショナルなミュージシャンとして活動を続けてきていたのか。いやある程度わかってたんだけどこうやって明確に数字にするとなんか大変さの実感が少しばかり重くなる気がする。そら休止もしたなるわ。丸1年近くになったけど。まぁまだまだ心置きなく人間活動に励んでくださいませませ。

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土曜日は光がツイッターに登場して祭りになった。「ありがとうごぜぇくまぼんずーーーる」ってもういろんなものの原形を留めていないが、相変わらずのノリで皆平常な反応を示していた。光が夏休み明け的にモデルチェンジしてたりしなかったという事だ。まぁここで捻っても仕方ないしな。

これでやっと@utadahikaruのページトップが山吹色スーツ&へっぴり餅つき画像からリニューアルされてげげんちょと歯医者画像に…前の方がよかったかな(汗)。げげんちょは極道一直線というビッグコミックスピリッツ連載漫画登場人物の組長さんのセリフらしい。ビッグコミックなら光も読んでただろうからまぁ忘れてはいても脳内のどこいらかに残ってたという事は有り得るわな。あの水着を着込んで撮影に臨んだ雑誌である。購読者層が比較的高めなのでげげんちょは響き自体、若い子たちにはおっさん臭く響いたのかもしれない。

各種ツイートの中に「宇多田もねーさんと呼ばれるようになったんだなぁ」というのがあったが、どれだけ若くにデビューしても13年も立てば大御所感が出てきてしまうものだ。アインシュタインは自分が有名になって「嘗て自分が最も忌避していた権威(authority)というものに、今や自分自身がなってしまった」と嘆いたというが、光もこれから似たような苦悩に苛まれるかもしれない。まぁ大丈夫だと思うけど。

ツイートが1日遅れの土曜日になったのは何か意味があるんだろうか。前日の梶さんの口調からして9日当日は光からのツイートは無理と知られてたと読めるが、翌土曜日ならOKだったと。案外、平日は身動き取れない活動でもしてるんじゃないかと余計な勘ぐりをしてみたり。ミュージシャンやってると曜日感覚がなくなっていくようだから、今は学生時代以来の曜日のある感覚を堪能しているのかもしれない。

それにしても@utadahikaru宛てのメンションの数は凄まじかった。あれ全部Webで読むのだろうか。書き込むのは公平を期してWebからでもよいと思うけれど閲覧は何らかのツイッタークライアントを使った方がいいような気がするWeb公式はどうしても一覧性にかけるからね。

まぁこのタイミングで登場するなら、前日夜のラピュタ放送でどさくさに紛れて「バルス!」って叫んだらウケただろうにな、なんて思ったがそれこそ後の祭りだな、なんて考える祭りの後の月曜日の朝でありました。

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間もなく29歳になる宇多田光氏の何が不可思議かって、若い頃と変わらず宇宙壊滅的にかわいい事である。漢字で書いた方がいいか。可愛い? いやカタカナかな。カワイイ? まぁ、どれでもいいや。

10代の頃の可愛さはまだわかる。若さ溢れるキャピキャピさ加減、光の名の通りキラキラしている。それはいい。それはまだいいさ。今はもうアラサーなのだ。いや今っつっても一年前で止まってるんだけどね。随分と大人になって落ち着いてきて、あのハイテンションではなくなってきてるのに、動いているのを見るだけでなんだか脳が溶け出しているのを感じる。これが麻薬要らずというヤツか。

私は結構そういう所は冷静な筈なのだ。なにしろWild Lifeの当日、横浜アリーナのDブロックで光が『私がおばさんになってもHikkiって呼んでくれるーっ!?』と茶目っ気タップリに観客に話し掛けた時に「27ってもうたいがいおばはんやで」と口に出して悪態をついた男なのである。今全国の27歳以上女子全員を敵に回したのを感じた。あ~モノを投げないでください。

それだけ冷めた人間なのだが、動画を観ると(いやナマが勿論いちばんだよ)居ても立ってもいられなくなる。昔から静止画は特に好みでもない。仕草や表情、喋り方の総合力で私をノックアウトするのである。

昔はきゅーんとするだけだったが、最近は余りのかわいさに腹が立ってくる事が多い。文字通りムカついてくるのである。「なんでそんなにかわいいんだふざけるなっ!」と画面に呟く事もある。結構本気で怒っている。意味不明にもほどがある。

また、モーレツに悲しくなってくる事も多い。「なんでそんなにかわいいんだよぉ~」という感じだ。勿論傍に居ない事を嘆いてもいるのだが、一言でいうと可愛さが"慈悲深い"のだ。その為、その優しさに触れて悲しくなってくるというか。

泣きたくなる事もある。あまりのかわいさに感動してしまって感極まる。福原愛がオリンピックでメダルをとったら私はまず間違いなく感動して貰い泣きすると思うが、宇多田光氏はただそこに居るだけで同等の感動を私に与える。思わず呟く「よかったねぇ」。いったい何がよかったのか見当もつかない。

思うに、あの可愛さに巡り会った時の私の感情の振れ幅が(いや"気の触れ幅"かもしれんな…)、喜びや嬉しさや楽しさだけでは追い付かないのである。喜怒哀楽を総動員しないとあのかわいさに対処できないのだ。繰り返すが、もう来月で29になる大人の女性である。お肌の曲がり角なんてとうの昔に過ぎている。それでもあの宇宙を破壊し尽くすようなかわいさは変わらない。

いや、変わらないというのは確かに違うか。上述のようにもう昔みたいにはしゃいだりしないもんな。くま絡みだと別ですが。じんわりとくるような、しかし確実に心を捉えて溶かし尽くすこの感じ。伝わるものは同じだが伝わり方、伝え方が違うというか。ひと呼吸ごとに好きになるあの感じ。ホント大丈夫か俺。このエントリー、宇多田光氏の誕生日用だった筈なのだがまぁいいか。宇多田ヒカルの誕生日に掲載になってしまった。

氏とつけてみたのはなんとか距離をとって冷静になろうとしたからなのだが、無駄だった。カワイイは正義、可愛いは力、かわいいは天の声なのだ。神様も女神様も恋をする28歳11ヶ月。おばあちゃんになってもこの可愛さなのだろうか。あらゆる意味で恐ろしい。

そうか、恐怖だ。その感情がいちばん、光のかわいさを受け止めれる。私ももっと怖がろう。

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そうか~、デビュー13周年か~。だからといって特に書く事もないな。光の曲聴いてたら毎日が記念日みたいなもんだ。

ただ、やっぱりLIVEとなると特別だ。実際に目の前に居たんだから。これはある種裏切り行為ともいえる。

有名人とそのファンの関係は思いっ切り非対称だ。こちらがメールを送っても、向こうが返信する義務はない。こちらも当然そのつもりでメールを書いている。これは通常の人間関係とはいえない。メディアを通して、有名人が一旦"商品化"されて初めて成り立つ関係性なのだ。有名人はその点において、ファンにしてみれば生身の人間ではない。だからこそ道端で見かけてもこちらはおいそれとは声をかけない。知ってる人がそばを通ったら普通挨拶くらいはするだろう。有名人はこちらの事を知らないのだから。一方通行のメディアが形作る非対称の関係が基本なのだ。

然るに、LIVEはこの非対称をほんの少し破る。多対一である事に変わりはないし、向こうは相変わらずこちらの名前を知らないが、こちらからのはたらきかけに応えてくれたりするようになる。"I love you, too."と返された彼女はその時大丈夫だったのだろうか。非対称は残るにしても、LIVEは有名人とファンの間に生身の関係性を持ち込む。これは普段歪な一方通行を遵守している我々に対する素敵な裏切り行為に他ならないだろう。

そこに目をつけたのが秋元康で、見事に成功したのがAKB48、という話は私より読者の方が詳しいだろうから置くとして、ネット世代は"実際に会う"事の意義を前の世代より的確に把握している感がある。普段、書き文字や声(スカイプとかね)を駆使してコミュニケーションをはかっているお陰で、実際に会った時に言葉以外で伝わる事は何かを把握する事が出来るのだ。言葉じゃ半分も伝わらない、という嘆きは、チャンネルが増えた今何がどこで伝わって何がどう伝わらないかを確実に把握する事を約束する。ネット世代は、前の世代より確実にLIVEの意義を把握可能なのだ。

そういう意味では、記念日としてはデビュー13周年よりWild Life最終日一周年の方が感慨深い、ともいえる。

しかし、やっぱり《宇多田ヒカルの誕生日》という解釈をすればこの日が如何に尊いかという事も思い知らされる。いずれにせよ、12月9日は私にとって自分の誕生日以外では最も重要な、"生まれてきたことを祝福する日"なのは、間違いない。ですよねー。

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アニメシュタインズゲートですっかりお馴染みになった(?)CERNが(SERNじゃないぞ)、13日に重大発表をするらしい。ヒッグス粒子の発見が本当だとするとこれは21世紀最大のニュースとなる。詳しい話は私も解らないが、重力の量子化は現生人類最大の難関でありこれを成し遂げた時の影響は計り知れない。原子力位で戦いていられなくなるかもしれない。

人類の歴史は予測不可能だ。未来に保証なんてない方がいい、というがそんなものある訳がない。たまたま、幸運な偶然が重なって平穏な人生を送れるだけである。重力の量子化を成し遂げれば、どんな兵器が開発されるかわからない。核抑止力も過去のものになるかもしれない。というか、地表が禿げたりして。いずれにせよどんな知見が得られるか未知数なのだから今から言える事なんてない。ただ漠然と言えるのは、人類が新しく"力"を手に入れるだろう、という事だ。まぁでもそんなカンタンにうまく行くとは私は思わない。彼らは間違った方向を向いているからだ。まぁそれはいいや。

翻って。音楽は"無力"の象徴だと私は思っている。音楽に携わる仕事をしている人はどうしても音楽に"社会的意義"を見いだそうとする。気持ちはわかる。震災の時も多くのミュージシャンが自分たちに何が出来るか、自分たちは今何をすべきかと苦悩した。烏滸がましい。何も出来ないに決まってるじゃないか。音楽家が実際にやっている事は、空気をちょっと震わせているだけだ。音波のエネルギーとは微々たるもので、それ自体は何の仕事もしない。極稀に共振・共鳴によってエネルギーを集約する事もあるが、それには固有振動数がばっちり合わなければいけない。音楽は、何もできないのだ。

しかし、音楽で稼いだお金でヒカルは100万$の寄付をした。恐らく、これは役に立つだろう。斯様に"間接的に"なら音楽は仕事が出来る。それには人の心が不可欠なのである。

火を消すとか病気を治すとか飯を炊くとか道を舗装するとかは総て自然に働きかける行為だ。だから実際にエネルギー、即ち仕事をする能力が必要だ。しかし音楽家は前述の通りちょっと空気を震わせているだけなのだから、一体これは何故世界のありようを変えているのだろう。もしかしたら何かが変わっているという幻想を振り撒いているだけなのか?

いやいやいやいや、そんな事はない。今や宇多田ヒカルがキッカケで出会って結婚して子供生んで育ててる人なんてザラだろう。彼らは、ヒカルが歌を唄わなければこの世に存在しなかったかもしれないのだ。彼らのうちの誰かは、今後人類の歴史を大きく変えるかもしれない。そうなるとその人の伝記の最初には「両親は宇多田ヒカルが縁で結婚し―」と必ず書かれる。ヒカルの歌が歴史を大きく変える"力"を生み出すのである。

それでもしかし私は、それによって音楽に力があるとは云いたくない。音楽自体は相変わらず何もしないのだ。動くのは人であり、歴史を変える力を持つのも人だ。音楽はどの時点でも相変わらず無力のままだ。

いや、私は音楽に"無力のままであって欲しい"と願っているのかもしれない。そのピュアネス、イノセンスこそがいいのだと。確かにそれはある。しかしそれ以上に、無力が力を生む不思議と常に相対していたいのだ。無から有が生まれた時、真っ先に現れた力が重力だった。その姿がヒッグス粒子なのだ。無から有が生まれる瞬間、それはビッグバンにまで遡らずとも、歌を聴いた人の心の中で毎日起こっている筈である。彼らは、この点を見落としているからまだまだ真実には辿り着けないだろう。まだまだきっと先は長いぜ。

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今日はWild Life初日記念日。Ustやパブリックビューのあった日もこの日だから大半の人にとっては今日がWild Lifeだろう。朝から検索流でもその話題が出ている。今宵はWL DVD/Blurayを観て過ごそうという人も多い筈だ。長いぞ寝不足に気をつけろ。

12月8日とは真珠湾だったりジョンレノンだったりダイムバックダレルだったりと不吉な影ばかり漂う(力道山が刺されたのもこの日らしい)が、ここに来て漸くHappyな記念日にもなった感じがして光には感謝しきりである。

といっても、年がら年中WLDVDの話をしているこちらとしては12月8日だからといってあらたまった話もないので違う話を。

前のオフ会で「Hikkiを動物にたとえたら?」という問いが出された。私は「さる!オランウータン!」と元気よく答えたかったが「いやでも常識的に考えてこっちだろう」と力なく「ぬこ」と答えた。果たしてほぼ全員が「ネコ」と答えたのだが、それほどに「Hikki=ネコ」という関係は定式化されているらしい。CHUICHIの影響なのかエジプトの影響なのか。いやそれならクマになってしまうのでやぱ全体的なキャラかな。ひとりで居るの好きっぽいし。

他にも、ネコ避けの超音波に反応して「あんたはネコか」と突っ込まれたりもしていたし、それに極度の猫舌である。違うのは猫背でない事位か。宇宙一美しい背中だからなアレは。

しかしまぁ超音波に反応できるってのも単に耳がいいというだけだ。超音波というと何か特別なものを想像しがちかもしれないがただ"高い音"ってだけである。それに対応する有毛細胞があれば聞こえる筈なのだ論理的には。

猫舌なのも、熱がりというよりは口の中や喉の奥の神経が異様に発達している為ひとより過剰に反応しているに過ぎない。舌や口腔や咽頭咽喉の神経が発達しているからこそ微妙な唄い回しがコントロールできるのであり、これは歌の上手い歌手にとっては職業病みたいなもんだ。それに、商売道具に支障がないようにする為には過敏に反応するくらいが丁度よい。プロ野球選手が肩に触られるのを異様に嫌うのと似たようなもんだろう。猫舌万歳。

しかし、今の所歌詞にはネコもCatも出てきてない、かな? とりあえずすぐには思い浮かばないが、そのうち普段の自分を顧みてネコをテーマにした歌だって唄うかもしれない。ぼくはくま書いたんだから、有り得ない話じゃないよね。少なくともオランウータンの歌に較べれば可能性は高いだろう。でももしかしたら「オラの歌」みたいな曲名で…いやなんでもない。

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安直に考えると、例えば光の両親のいずれか或いは両方が男児の誕生を願っていた、なんてケースも有り得る。口に出して言わなくても、時にそういう事は何となく子どもに伝わってしまうものだ。大人の顔色を窺いながら生きてきた幼少時の光にとっては親の心もお見通しだった可能性がある。

そう考えれば、27にもなって胸ぺったんこの自画像を描いて「私女の自覚ない」と光が嘯くのも合点がいく。親からの愛情を受ける為に光が成りたかったもの、それが"少年"なのだ…

…やっぱり安直だな…

…まぁ、そうだとしてみよう。ならばBeautiful Worldに出てくる夢見てばっかのBeautiful Boyは誰という事になるか。夢見させるより愛を見せてと云うのが光だ(いつか結ばれるより今夜一時間会いたい、とかね)。夢見てばっかの少年は、現実の光から最も遠い所にある。

そんなものに、本当になりたかったのかなぁ…この話、前提となる仮定にかなり無理があるんだな。

女としての光のモデルはお母さんだろう。まぁ、これは女親に育てられた多くの女性にとってそうであろうが、光の場合本当に高い所に居る母親だから、その憧れたるや半端ではなかっただろう。今でこそ歴代最高売上記録を持っているから親子としてタメ張れてるが、小さい頃の光には当たり前ながらそんな実績はあるわけもなく、ただただ偉大な母であった事だろう。そんな伝聞の数字なんぞ耳にせずとも、あの背中を見て実際に育ってきたのは大きい。光が大人の女性として成長していく時、「母になる」事が何よりも肝要だった。嵐の女神で"私を迎えに行く"のはまさに自分が自分の親になる事だったのだから。

では、光にとって父親とは何であったのか。仕事を始めてからはマネージャー兼プロデューサーという事で恐らく、人生の時間の中で最も一緒に時を過ごした男性だろうが、幼少時は一体…? 何だか、ここの情報が欠落しているかもしれない。

例えば、他の家庭の父親とその息子がキャッチボールなんかして一緒に遊んでるのを見て、そうか、男の子だったらお父さんとあんな風に遊べるんだ、と考えて"男性化願望"の芽を植え付けられたかもしれない。父親と娘、というのは年齢ごとに様々な微妙さを孕んでいそうだが、5、6歳位までは大きくて逞しくて頼りになる、でも怒ると怖い、でも私には優しい、みたいなストレートなイメージを抱くものなんでないだろうか。ズバリ父親は娘にとって"甘えられる存在"であろう、なんて紋切り型の口上を述べつつ、光の甘え下手の話をしてみるテスト、というのが真っ当な展開なのだが、そんな我田引水でいいのかなぁ。

だって、ここから「父親にうまく甘えられなかったお陰で大きくなってからも恋人や夫にうまく甘えられない」だなんて分析に入っちゃうんだからねぇ。幾ら何でもあんまりな気がする。

今回は無謀な仮定を前提にしたのが間違いだった。しかし、万が一この考察が真実を掠っていたらどうしよう、と余計な事も考えてしまう。どうなんだろう。本当の所は勿論わからない。この点は直接光に訊いてみたいな。

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少年  


心理学の話になるのかもしれないが、男児にとっての男親と女親、女児にとっての男親と女親の在りようによって、人の以後の愛情関係は異なっていくように思われる。

光の場合女児であり…

…と書くと世の中には男と女しか居ないみたいにきこえるが、遺伝子は、自然現象は自由である。何らかの繁殖能力があれば生き残るし、それらから常に生まれ得るなら個々の個体が直接繁殖能力をもたなくても永続的に存在し得る。その無限のグラデーションの中で自然選択的に男と女というカテゴライズが圧倒的多数を形成したに過ぎない。少数派とはしばしば、その圧倒的多数の存在に対して必然的ですらある。その点は踏まえておかなくてはいけない。

で、光の場合は女児として母親に接し、父親と行動を共にしてきた。一人っ子であり、引っ越しを繰り返した為常に行動を共にするような親友も居なかったのではと推測される。飛び級もしたし、小学校の頃の友達の話もきかないし。もう少しあとになって、恐らく日本で同性の親友と呼べる人をみつけ今に至るという感じ。

なので。この物語に"少年"は出てこない。光にとって少年のロールモデルとは何なのだろうか。ここでいう少年とはBeautiful Worldに出てくる少年マンガを読み耽るBeautiful BoyでありStay Goldであなたの瞳の奥に潜む少年であり、Goodbye Happinessで甘いお菓子が消えた後に寂しそうな男の子である。「彼」は一体、誰なのか。

歌詞に出てくる登場人物には偏りがある。芸風によっては語り部たる老人が頻繁に登場する事もあるし愛人だらけの事もあるし妻への愛ばかり歌う人だって居るだろう。光の歌詞でも、登場人物には偏りがあって、多分最多出場は光本人をモデルにした誰かであろう。性別や年齢や生まれ祖田の環境や。あと名前を呼ぶのはお母さんか。Mamaとか母さんとかママとかお母さんとか。

となると、やはり光の人生の中で少年の登場する余地がない。勿論、もしかしたら小学生の頃好きな男の子が居て、でも手が届かなくてとかそんなエピソードもあるかもしれない。ただ、インタビューでそういう話が出たという記憶が私にはない。知ってたら誰か教えて欲しい。

反対側に妄想を振り切る事もできる。光にとって"少年"とは徹頭徹尾フィクションなのではないか。人生における様々なフェイズの中で、少年という項はとても影が薄いのではないか。いやそりゃ全く交流がなかった訳ではないけれど、光の人生に目立った影響を与えてこなかったのかもしれない。

そういう影響の薄い存在であったとして、ならば何故歌詞でこういう描写をされるのか。また次の機会に考察します。

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親友への想いから母への恋慕に行き着いたのが嵐の女神なら、一方で自らに母性が存在する事を気付かせたのはBeautiful Worldだ。ここからStay Goldを経て嵐の女神の『私を迎えに行こう おかえりなさい』へと結実するのだ。この物語は美しい。

そもそも何故この構造が顕現したのか。BWがEVAの主題歌として運命づけられていた事を想起。光が力説した「古びれないダシの部分」とは何であったのか。

それは、碇シンジ、碇ゲンドウ、碇ユイ、そして綾波レイの関係性であり、そして物語の重要な"仕掛け"としてのエヴァンゲリオンそのものだ。母へと向けられてきた愛情が、母から向けられてきた愛情が、息子の成長と共に、一体どこに向かうか。碇ユイと綾波レイの2人が、ゲンドウにとって、シンジにとってどういう存在なのか。そして、シンジとレイを繋ぐエヴァンゲリオンとは何なのか。そもそも人を慕う心とは、どこから来てどう変化してどう向かうのか。エヴァンゲリオンという"仕掛け"を使う事で、フィクションとしての世界観を強固に保ちつつ、親と子の関係性を炙り出す。確かに、これは文学そのものである。ネタバレ(といってももう何年前の作品だろう)をギリギリで回避しようとして歯切れの悪い言い方で誠に申し訳ないが。

恐らく、私もまだまだ理解出来ていないのだろう、しかし、BWで暴かれた少年を優しく見守る目線は、Stay Goldで自覚的に明示され、嵐の女神にまで行き着くそのプロセスにおいて、ずっとそこに居る「"自分の美しさまだ知らない"無垢な少年」とは誰なのだろう。こちらの終着点はGoodbye Happinessだ。

端的に『恋の歌くちずさんで あなたの瞳に映る私は笑っているわ』に描かれている通り、無垢な少年を見つめる眼差しはどこまでもどこまでも慈しみに溢れ、優しく美しい。彼のinnocenceにもここで別れが告げられる。母性に満ちた眼差しを受けながら愛の意味に気づいていく少年。BWの時に彼の傍で眠ろうとしていたのは誰なのだろう。小さなベッドでおやすみ、と迎えられた私を寝かしつける私は一体誰なのだろう。

このストーリーを概観すると、やはりEVAの最終局には嵐の女神が相応し過ぎる。もしかしたら、EVAはQで完結しないのかもしれない。また更に10年の時を経て三度び甦るのかもしれない。嵐の女神で母への想いを暴露するまでのプロセスと、その出発点であるBeautiful Worldと。恐らく、EVAでは殆どそのまんまの物語が展開される筈である。ダシのダシたる所以だ。

一見すると、複雑過ぎて難しい。しかし、結論は単純で美しい筈である。「お母さんに会いたい」、必ずEVAの登場人物の誰かがそう口にするはずだ、と最後にひとつだけ明確な予想を書いて今回は稿に一息吐くとしよう。

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嵐の女神は元々親友か誰かを想い書き始めた歌だったが、途中から話が変わり母を想う歌になっていった、と光がインタビューで答えていたと記憶している。

一聴すると、何か違和感というか「それでいいの?」という気持ちも湧いてこなくはない。

2つ捉え方があって、ひとつは楽曲が自らの手垢を離れ独立した一個の存在として確立する為には、私情はそのキッカケや素材に過ぎないという事。即ち曲の中で語られている物語は現実を基盤にしているとしてもちゃんと虚構として着地している、という解釈。これなら光にとって対象が誰であったかは一次的な重要性をもたなくてもよい。

もうひとつの捉え方は。光にとって、曲作りは精神的な探訪のプロセスである、という事。つまり、当初は自分でもその感情は親友に向けてのものだと考えていたのだが、自らの心を掘り下げていくうちにそれが母に向けた感情であった事に気がついた、という解釈だ。作詞作曲を通したセラピーの一種だといえるかもしれない。そこまでドラスティックに捉えなくても、自らの感情の"起源"が母への想いであった、という見方もできる。ここまで抽象化されると、人間にとっての恋愛感情の起源とは、という普遍的な問いにまで辿り着いてしまう。光ならそこまで行っているのではないかと思わせる。

しかし、取り敢えずはここで一歩引いてみよう。もし光が、嵐の女神に至るまで自らの"お母さんに会いたい"という本音に気付かなかった、或いは薄々感づいていても相対しようという所まで行かなかったというのなら、それ以前に光が書いてきた詞の中で、実際は母への想いが根底にあるのにもかかわらず、別の人への感情として表現されているものがありはしないか、そう考えるのも理にかなっているように思えてくる。

例えばPrisoner Of Loveだ。ラストフレンズが若者同士の恋愛を取り上げたドラマであった事から、これは親友か恋人同士か或いは、といった解釈になりがちだし、実際に光もそのつもりで書いたのだと思われるが、この中に母へのメッセージが隠れているとしたらどうだろう。

後半は、相手との"出会い"から運命が変わった描写が主体となっているがその前段、

『ないものねだりブルース 皆安らぎを求めている 満ち足りてるのに奪い合う 愛の影を追っている』

の一節は、元々母に満たされていた感情が欠落した、というプロセスが内包されているとも見て取れるのである。ここから"出会い"を通じて"傍に居る人"に満たされていく過程がPoLに、そのまま代替ではなく母に直接向かったのが嵐の女神だという解釈の仕方も可能になるだろう。

まだまだこの手法で読み解ける歌がありそうだ。今後の課題としておくかな。

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さてさて今週はあれやこれやが何周年週間である。デビュー13周年は言うに及ばずWild Life 1周年でもある。早いもんだ、というのがしっくり来るんだか来ないんだかわからない不可思議な感覚だ。取り敢えずCan't Wait 'Til Christmasを聞こう。

何度も繰り返しているのにしつこく何度も繰り返すが、この曲が最後の最後に出てきた意義は私には本当に大きかった。人によるとは思うが私にとってCWTCは宇多田ヒカルのベストソングのひとつである。いやお前のベストソング何曲あるんだと訊かれると答えに窮するが、つまり気分的に最高潮で人間活動を迎えた、という話だ。負け惜しみでも何でもなく、音楽的才能が下り坂になってきたからここでアーティスト活動休止という雰囲気をこれっぽっちも感じない。その完璧な露払いを務めたのがこのCWTCという訳だ。

実際、"ラスト・ソング"としてのこの曲の扱いは別格であった。勿論SC2では曲順的に全18曲中最後の楽曲、大トリである。ただのアルバムのラストというだけでない、宇多田ヒカル6年間の、2004年から2010年の間の楽曲の締めを託された楽曲なのだ。

そしてWild Lifeではアンコール2曲目という位置である。1曲目のカバーはスペシャルサプライズという位置付けだし、更に基本的にヒカルのフルサイズのショウはバラードで終わらないので、CWTCが最後の最後のハイライトだったと言っていいだろう。この、最も新しい成果であるCWTCから最も年月を経たtime will tellへの流れは、1998年12月9日と2010年12月9日を一瞬にして繋げてみせた。最新と最古の淀みないメドレー(ってMC挟んだけどな)が成立する事で、宇多田ヒカルという稀代の、唯一無二のアーティストシップが12年間全く揺るぎなかった事をさりげなく伝えたのである。

勿論、クリスマス2週間前というシチュエーションも最高だった。この時このタイミングで最新曲としてCWTCをナマで聴けたのは掛け替えのない一生の思い出である。ちゃんと自分でチケット当てて行ったんだぞ。(だからどうした)

しかし、この曲の世間への浸透度というのは何とも心許ない。ペプCMが流れる度にTwitter検索流が「かわいい」で埋め尽くされるのを見て、「(もう来年で28なのに)」と余計な一言をつけ加えながら評判自体は頗る良好という感触は得られていたのに、なんというかまだまだこの曲自体が知られていないようだ。SC2の2枚目の存在自体を知らなかった人やらこれがヒカルの歌だと知らなかった人やら様々である。こんな事ではいけない。出来るだけ毎年12月はCWTCをラジオ等にリクエストして盛り上げていきたい所、なのだなぁ。

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EVAQがどうなるか。11年末の今の時点でもまだまだ何の情報も現れない。8月に来年12年秋公開予定と発表になったが、大半のファンは「急いで作るより質の高いものを」というスタンスのようだ。つまり、少々なら遅れても構わない、興行には影響がないとみるべきだろう。

こういう態度が表面化するのは、序破の作風に原因があると思われる。前世紀のEVAは、あの時代の閉塞感、とりわけあのアニメを観るような若年層の不安感のようなものを捉えたというか受け皿になったというか、切実な思いの数々を乗せて迷走暴走しまくった事が魅力だった。

それに較べ、今世紀のEVAは一大エンターテインメント作品である。勿論前世紀からの重々しいテーマ性も引き継いではいるものの、何よりもまずアニメーション映画作品としての娯楽性、カタルシスに重点を置いている。

こういう軸足の移動があっても作品の世界観が揺るぎないのがこのアニメの凄い所だが、ともかくそうなってくると確立したブランドとして特に時代の空気に乗り遅れるとかそんな事は考えなくてもいい立場になったといえる。娯楽の本質が、一年や二年のズレで薄れるなんて事は気にしなくていいのである。寧ろ業界全体を代表して時代を切り開き牽引する役割を担っているといえる。

その前提に立っていえば、やはり結局主題歌は宇多田ヒカルが相応しい。彼女の立場はもはや、少なくとも日本市場においては確立されており、時代性云々をいわれるキャリア、年齢ではない。堂々と娯楽性を追求した楽曲を提供すればよい。尤も、それならBeautiful Worldで事足りる為、来年秋の復帰のキッカケになるかというと微妙な所だが。

加えて考えたいのは、Utada Hikaruの海外展開である。アジアで宇多田ヒカルの国内盤が出ている地域はそうでもなさそうだが、英語圏での知名度の高さはかなりの程度においてKingdom Heartsが担っている。つまり、海外に輸出できるコンテンツとタイアップするかどうか、だ。EVAの海外展開については詳しく知らないが、光なら英語版のBeautiful Worldを提供する事もできるかもしれない。実現可能性は薄いが、僅かばかり頭の片隅に入れておいてもいいだろう。何しろ、2012年のアニメーション映画は例年にない激戦区になりそうだし、もしかしたらシーン全体が伝説化するかもしれないのだから光がそれに関わるか否かは否応なく注視しなくてはならなくなるだろうから。

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トラベ10周年の時に青く堅い果実に喩えたDeep Riverアルバムだが、実際全アルバム中最もテンションの張り詰めた作風だと思う。このあとのULTRA BLUEとHEART STATIONの主眼はアルバム全体のダイナミズムに移る為曲毎の、曲中での弛緩・抑揚がどんどん大胆になってゆくが、Deep Riverはいうなれば"とことん必死"であり、全パートを最高のものに仕上げようという気迫、執念のようなものを感じる。前2作に気合いが入ってなかった訳では全くないのだが、このアルバムは「これが最後になるかもしれない」と思いながら作ったのではないか。兎に角兎に角全力につぐ全力である。

そんな張り詰め切った作風を象徴してる楽曲が、A.S.A.P.だと思う。ある意味このアルバムのイメージソングと言えるかもしれない。

なにしろ、タイトルがA.S.A.P .、As Soon As Possibleである。出来るだけ早く、という意味だが特に"As Possible"、出来る限りという所がこのアルバムに相応しいフレーズだ。

サウンド的にはサンプリングされたコントラバス~チェロの音域のストリングスと冷たい(エレクトリック)ピアノの響きを効かせたユーロ・エレクトリック・ゴシックな音作りだが、光の個性が発揮された、この曲を最も特徴づけるパートが打ち込みのリズムセクションだ。

とにかく、この曲の打ち込みリズムはまるで床にタイルを敷き詰めるようにひたすら音符を途切れずに並べてある。その為、ダークで妖艶ですらあるSEやオブリガードを纏いながら異様に曲全体の印象が硬質である。リズムを敷き詰める事で張り詰めた空気を作り出し、メロディーの切迫感を増強する。決してテンポは早くはないのにこの楽曲が醸す焦燥感は尋常ではない。『緊急時以外は掛けないと約束するわ』という言葉が逆に緊張を喚起するかのように響くのもこの、落ち着いたテンポと忙しいボトムの組み合わせが齎すマジックなのだ。

ある意味、このアルバムの出発点となったFINAL DISTANCEとは対極の方法論である。FDが悠久の流れのような、永遠に触れるような荘厳で神聖な感覚を、DISTANCEからリズムをごっそり抜き取る事で達成しているのに対し、A.S.A.P.では『今すぐに聴かせて』という刹那的な圧迫感をリズムを敷き詰める事で表現している。とても同じ人の作詞作曲だとは思えない。

この曲で歌われているのは、女の業とでもいえる側面であるが、細かい話はまたの機会に譲るとして、その"狼少女"な光の性格・感情は、FDや、後のぼくはくまのように裸のサウンドで表現されたピュアネスと比較するとますます恐ろしくなる。

が、『時にはそれが魅力的なのさ』ですか。確かに、そうです。先に貴女に言われては、返す言葉もございません。

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「言葉にならない気持ち」は当欄ではあまり取り上げてこなかった。理由は単純で、言葉だけで構成されているテキストブログでこのタイトルを掲げると何も書けなくなってしまうからだ。

歌という体裁をとる事によってその難点は幾分か解消される。当然ながら歌は言葉だけではないからだ。勿論メロディーだけでもないんだが。

これの先駆者といえば小田和正だ。『La la la La la la 言葉に できない』というのを初めて聴いた時のしてやられた感といったらもう。別に彼が最初にやったという事でもないんだろうがこの歌がやっぱり有名だろう。言葉にできない、言葉にならない気持ちをここまで的確に、少しのユーモラスさを隠しながら表現した例は少ないだろう。

ヒカルはといえば、もっとオーソドックスに、こういう場合の戸惑いを素直に書き綴る線で歌を構成している。元々は1stアルバムのInterludeから発展した曲で、恐らく当初は『喜び悲しみ感動切なさ』と言い切ってしまった以上この後に別に何も続かないなと思ったのかもしれないが、「そうだ、じゃあもう後に何も続かないって唄っちゃえばいいじゃん」と気がついたんじゃないかな。ミュージシャンが曲を書けなくてスランプに陥った時「そうか、じゃあ曲が書けない苦しみについて唄おう」と思い立つパターンがあるが、大体それと同じだろう。

その、何とも曰く言い難い、言葉にならない気持ちを村上春樹よろしく夕日やマニキュアを使って喩えてみたり、思い出せないのに忘れたくない、とかとにかくこう何とももどかしい、という気分をそのまま歌詞にして歌っている。ラララと歌詞ナシで唄ってみたりスランプそのものを唄ったりしたのと同じように、伝わらないもどかしさを今私は感じています、という感覚は確かに伝わってくる訳で、表現としては成功している。

しかしそこで気がつくのは『いつか伝えたい』の一節だ。Eternallyでも光でもBeMyLastでも一貫して"今"を唄った光が"いつか"という"夢"を語っている所がこの曲の特異な所で、だからこそヒカルにしてみれば力が入りきらなかった所があるのかもしれない、とも考えたりした。ヒカルは、"今"にフォーカスすればするほどメロディーが際立つのだろうなぁ。

書いてみて思った。やっぱりこの曲はテキストブログに向いてないや。でも、終盤のフェイクも含めて、疲れてる時とかふと聴きたくなるんだよね。こういう、シングルとして売り出すにはどうもという曲でも世に出せるアルバムという形態は、やっぱり必要かな。配信でのバラ売りが一般的になった今だからこそ、10年以上前のこの曲を聴いてそんな事を感じてみるのもいいかもしれない。

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