無意識日記
宇多田光 word:i_
 



『君』や『あなた』が母のことであるという視点は今では必修項目だが17年前はそうではなかった。当時の歌を今の目で見直すのも悪くない。


さてそうなってくると。この話の端緒に戻ろう。『SAKURAドロップス』の『それとこれとは関係ない』の『それ』と『これ』とは何なのか。

歌詞の中に『青い空をずっと手探り』という一節がある。ヒカルにとって青空は爽快では無く嘲笑と恐怖の象徴だ。太陽という母の比喩が置かれる場所でもある。青い空を探るのは母を探しているのだ。それを『一周りしては戻り』というのだから何度も何度も繰り返している。

では、ヒカルは母に対して何を『heartbreak』しているのか。母親に対する失恋とは何なのか。それが何度も訪れるって一体何が起こっているのか。別に圭子さんはずっとヒカルを放っていた訳ではなく、結果論としてだが気まぐれに接していただけで、全く会えていなかったとかではなかったのだ、の筈である。

つまり、ここからが歌詞なのだ。ヒカルが言うところの『歌詞は日記ではない』と。総ての歌詞が現実に基づいている訳でも無く、実体験も妄想も何れも素材の一つとして扱われているに過ぎない。『SAKURAドロップス』もまた、自分の固有の思いも表現されているし、一方で虚構や想像も含まれている。だから歌詞の総てを現実に即して解釈出来る訳ではない、という点を強調したいのだ。

その一助が『それとこれとは関係ない』な訳でね…ってそろそろこの話終わりにしたいな。次か次の次で切って『Face My Fears』EPの話に移りたいわ。まぁ、どれも自分の好きで書いているので中身にウンザリしてるんじゃあないんだけどね、生活のリズムってものがあるのです。それを取り戻しますよ。

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『SAKURAドロップス』に於ける『君』は、恐らく『真夏の通り雨』の『あなた』に近い。

『桜まで風の中で揺れてそっと君に手を伸ばすよ』は『揺れる若葉に手を伸ばしあなたに思い馳せる時』だし、『止まらない胸の痛み超えてもっと君に近づきたいよ』は『勝てぬ戦に息切らしあなたに身を焦がした日々』だ。こうして書いていてもどっちがどっちかわからなくなる位似ている。となれば答は明白で、『真夏の通り雨』の『あなた』は母のことなのだから『SAKURAドロップス』の『君』もまた母のことだ。

そうあっさり言われても、という不満が出るのはよくわかる。それはこの2曲のラブソングとしての重心の置き所の違いに起因する。

『真夏の通り雨』はまず母への追悼の歌として受け取った人が大半だろう。そこに副次的に、ヒカルが言うところの『中年女性が若い頃の恋を思い出す歌』としての意味づけがなされ得る。追悼歌が主でラブソングが従だ。

一方『SAKURAドロップス』は当時(恐らく今でも)「失恋ソング」として受け入れられていた。これを母に恋い焦がれる歌と解釈した人間は余程少数だったろう。多くのラブソングが親への愛の読み替えだとヒカル自身が言及するまでなかなかそこまで踏み込めなかった。 即ちいわゆるラブソングが主で母への思いを綴った歌としての側面が従だった訳だ。

その主従の差を作っているのが『あなた』と『君』という呼び方の違いで、母のことを「あなた」と呼ぶのはまだ馴染めるとしても母のことを「君」と呼んでいるとはなかなか気付けない。そのトリックを掻い潜れれば違和感や不満も幾らかは減るように思う。


それにしても。当時のメッセを読み返してみると、ヒカルは母のポスターを自分の部屋に貼って悦に入る重度のマザコン…かどうかはわからないが、過度に母を溺愛する娘だったのは明らかだ。何をメッセに書いていても総て受け入れていた私を一瞬とはいえ一歩引かせたのだから大概であった。慣れればそんなもんかと思えたのだけれど。それくらいに母への感情が強かったのだからその思いを歌にしていたとしても自然だった、とまぁ後付けとはいえ今なら思える。

後付けできるようになった今、『真夏の通り雨』や『道』と同じように『SAKURAドロップス』の歌詞も手が届きそうで届かない母に恋い焦がれる歌として聴き直してみればまた新しい展望が拓けるかもしれない。勿論歌詞の解釈に正誤を問うなど野暮な話なのでひとりひとりが自由に読みほどいていけばいいのだが、誰かに視点を添えられるのもたまには悪くないと思うよ。

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