無意識日記
宇多田光 word:i_
 



では次は“グローバルサイト”の話だ。『Face My Fears』EPの世界的な盛り上がりを視覚化しようと地球儀を転がして各地のデータにアクセスできるサイトを作った。チャレンジ精神は大いに評価したい。こういった新奇な試みにはどんどんと手を染めるべきだろう。

しかし、ファンの間での評判はどうなのか。個人で統計をとるのも限界があるので私の個人的な推測を書いておこう。


地球儀を転がすのは楽しい。スケルトン・ガイアが掌の上でころころと転がる。現実の地球儀では転がらない方向にも廻ってくれるのは非常に嬉しいものである。

また、世界地図上で各地のデータにアクセスできるのも嬉しい。世界の色んな国でヒカルの歌が聞かれてるんだなぁと思うと感慨深くなるものだ。中には位置をよく知らない国なんかも在って、「キプロスってこんなとこにあるんだ…」とか「イスラエルってこんなカタチしてたんだね…」とかそんなことまで気がついてしまう。こういう時間も楽しい。

が、この2つを結びつけてしまうのは成功しているとは言い難い。ただデータを見たい人にとってはいちいち地球儀が廻るのを眺めるのは面倒くさいし、そもそも字が読み辛い。データ表示もいちいちアルファベット・カウンターが廻るのでやたら遅い。デザイン重視が邪魔をしている格好だ。

一方、地球儀を回して楽しむ方は3分で飽きる。スケルトン・ガイアを回す以外は、何か細い棒が刺さっているだけだからだ。なんか棒の高さがデータの数値を表しているようだけれど、なんかよくわからない。

何が言いたいかというと、「地球儀が回せる」のと「各地のデータが見れる」のに相乗効果が無いのんだなこれ。それぞれ独立した楽しみなのにアクセスするとお互いが邪魔し合うだけになってしまう。

データというのは単独の数値だけを眺めていても味気ない。様々な数値同士にどういった関係があるかなどの比較検討・考察があって初めてデータを見るのが面白くなる。グローバルサイトにはその工夫が少ない。確かに棒グラフの高さと数値を対応させるのはオーソドックスなのだが、地球儀上でそれをやるとインパクトに欠ける。何故なら、見た目が疎らになっていて迫力に欠けているからだ。

地球上で人間の住んでる場所というのは案外偏っている。何しろまず地面は3割しかない。7割は海だ。その3割の中で、山や砂漠には住めない。結果、海岸線沿いの平地に都市が集中する。その都市を点で表して棒グラフを立てても、ボールの端の方にカラースプレーが刺さってるようにしか見えない。

無理矢理数値の大きさを可視化するというかインパクトに繋げたいというのであれば、自分なら数値の大きさに従ってその国の国土全体を底上げする。海岸線が断崖絶壁になってしまい仕上がりは何ともグロテスクだが、わかりやすさやインパクトは遙かに上だ。当然、全くスタイリッシュではなくこの感じの空気では採用されないだろうけどな。

結局、地球儀というツールがデータの比較検討・考察に向いていないんだから、どうせなら地球儀上の方にツイートの吹き出しをつけるべきだったのではないだろうか。地球儀を回すと各国から呟きの吹き出しが次々とポップアップしていて、それをタップすると吹き出しが大きくなって字が読めるような。イメージ伝わるかな? そっちの方が「世界中でヒカルの歌が聴かれている事を視覚化する」という目的の為には理にかなっていた気がする。技術的には更に難しいのだろうけど。更に地球儀を時間軸方向にも回せたら…地軸を掴んでぐるっと回すと過去のツイートが読める、とかね。そうなれば「地球儀であることの意義」はぐっと上がるだろう。


そういったアイデアはすぐには実現できないだろうから、差し当たってデータ一覧を読みやすい大きさと色の字でサクサクアクセスできるようにテキストページを併設してくれたら嬉しいな、っと今日はそれだけ付け加えておきますかね。

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前回の話を違った書き方で。内容は一緒。

リアリティってのは普段の生活の中で対話が成立しているかどうか、だ。対話といっても人間や犬猫相手に限らず、何であれコミュニケーションがある対象なら当て嵌まる。

CDプレイヤーのイジェクトボタンを押せばCDが出てくる。これだけだって立派な対話だ。こちらが働きかければ何らかの反応がある。ビデオの予約録画が出来ない人はビデオデッキとの対話が成立していない、という風な言い方が出来る。

対話の仕方も変遷する。ビデオデッキに日時を入力してテープの残量を確認して…なんていうのは昔の話。今はキーワードを投げておいて後日ライブラリを確認する方法が多いだろう。「キーワードを入力する」と「番組を録画しておいてくれる」というのもまた対話だ。

音楽の聴き方も同様に変遷を辿る。今は気に入った曲にマークをつけておけばそのデータに従って曲を紹介して貰えてすぐに聴ける。そういう日常を送り始めると今度はCDとの対話の仕方を忘れてしまう。ピクチャーレーベルが裏返しに入っている事に気付かずに「シンプルな盤面だな」とそのままCDトレーに乗っけてしまい再生出来なかった、なんてエピソードを聞くと「そりゃ普段CDシングル使ってないとねぇ」となる。

リアリティの遷移とは、そういう単純な、日常に根差した感覚でしかない。今回CDシングルを手にして思ったのは、結局、作り手側もそんな感じなのかな、という事だった。

確かに、昔と変わらない。変わっていないだけなのだ。だから遠く感じる。ブックレットの字が小さいのも素っ気ないのも、そういえば昔からだからもしかしたらその時代の印象が強い人にはリアリティがあるのかもしれない。しかし、例えば自分はそうではなかった。寧ろ、今のリスナーとの対話が成立してないなとすら思えた。

宇多田ヒカルのファンでCDシングルを買ってた層なんて大体アラフォー以上つまりヒカルが15歳でデビューしてきた時に年上だった世代なわけで、そろそろ老眼が話題になってくるお年頃だ。そういう人達に読ませる気がないのだろうかと思ってしまった。スマホの画面は大抵幾らでも拡大がきくがブックレットはそうはいかない。字が小さすぎるならスマホの虫眼鏡アプリで拡大して…ってそんなのWEBで歌詞検索した方がずっと早いがな(笑)。

自分としては久々にCDシングルを買えて嬉しかったが、いざ使ってみると、即ち、CDと対話を始めると目の前の円盤に生気が無いというか対話が成立してないという感覚が勝ち、結局これも棚を飾るだけのものになるんだろうなと溜息を吐くことになった。これが1.4万枚も売れててまだ積む様相ってある意味凄いなと。次にCDシングルがリリースされたときもきっと喜んで買うのだろうが、何しろ実質的な価値がスタッフクレジット1ページだけなのでみんな大丈夫かなと他人事が心配になるのだった。あーあ。

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