前回の話を違った書き方で。内容は一緒。
リアリティってのは普段の生活の中で対話が成立しているかどうか、だ。対話といっても人間や犬猫相手に限らず、何であれコミュニケーションがある対象なら当て嵌まる。
CDプレイヤーのイジェクトボタンを押せばCDが出てくる。これだけだって立派な対話だ。こちらが働きかければ何らかの反応がある。ビデオの予約録画が出来ない人はビデオデッキとの対話が成立していない、という風な言い方が出来る。
対話の仕方も変遷する。ビデオデッキに日時を入力してテープの残量を確認して…なんていうのは昔の話。今はキーワードを投げておいて後日ライブラリを確認する方法が多いだろう。「キーワードを入力する」と「番組を録画しておいてくれる」というのもまた対話だ。
音楽の聴き方も同様に変遷を辿る。今は気に入った曲にマークをつけておけばそのデータに従って曲を紹介して貰えてすぐに聴ける。そういう日常を送り始めると今度はCDとの対話の仕方を忘れてしまう。ピクチャーレーベルが裏返しに入っている事に気付かずに「シンプルな盤面だな」とそのままCDトレーに乗っけてしまい再生出来なかった、なんてエピソードを聞くと「そりゃ普段CDシングル使ってないとねぇ」となる。
リアリティの遷移とは、そういう単純な、日常に根差した感覚でしかない。今回CDシングルを手にして思ったのは、結局、作り手側もそんな感じなのかな、という事だった。
確かに、昔と変わらない。変わっていないだけなのだ。だから遠く感じる。ブックレットの字が小さいのも素っ気ないのも、そういえば昔からだからもしかしたらその時代の印象が強い人にはリアリティがあるのかもしれない。しかし、例えば自分はそうではなかった。寧ろ、今のリスナーとの対話が成立してないなとすら思えた。
宇多田ヒカルのファンでCDシングルを買ってた層なんて大体アラフォー以上つまりヒカルが15歳でデビューしてきた時に年上だった世代なわけで、そろそろ老眼が話題になってくるお年頃だ。そういう人達に読ませる気がないのだろうかと思ってしまった。スマホの画面は大抵幾らでも拡大がきくがブックレットはそうはいかない。字が小さすぎるならスマホの虫眼鏡アプリで拡大して…ってそんなのWEBで歌詞検索した方がずっと早いがな(笑)。
自分としては久々にCDシングルを買えて嬉しかったが、いざ使ってみると、即ち、CDと対話を始めると目の前の円盤に生気が無いというか対話が成立してないという感覚が勝ち、結局これも棚を飾るだけのものになるんだろうなと溜息を吐くことになった。これが1.4万枚も売れててまだ積む様相ってある意味凄いなと。次にCDシングルがリリースされたときもきっと喜んで買うのだろうが、何しろ実質的な価値がスタッフクレジット1ページだけなのでみんな大丈夫かなと他人事が心配になるのだった。あーあ。
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