気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

体罰をする側の身心

2019-05-18 10:28:51 | 
 体罰をする時、その身心にどのような変化が起こるのか。人は人を殴る時に身心共に緊張する。緊張しなければ殴ることができないからだ。その緊張は、からだの自然(リラックスした自分らしい状態)からみると、「不快」の種に属する。にもかかわらずそれをするのは何故だろうか。本人の感覚が鈍く、緊張を不快だと感じられないからである。本人の生活にストレスがあったりして感覚が偏ると、その解消として体罰が行われることがある。また本人が良かれと思って体罰をしている場合もある。体罰は生徒の能力を高めたり、悪い処を改善させるためにしているのだと思いこんでいる。
 
 体罰の是非を各方面から論じるのも良いが、私は体罰をしない理由として、自分が「不快になるから」というのがあってもいいと思っている。人は普段思考したり行動する時に、善悪・好悪・利害・美醜・勝負・・・などを基準にするが、「快不快(自然不自然)」もそこに入れたい。それが、将来体罰をしないブレーキにもなり得ると考えている。それは体罰だけではなく、虐待やいじめ、言葉で人を傷つける行為に対してのブレーキにも。もちろんそのためには、本人が自分の身心に耳を寄せ、からだの声を聞きとらなければならないのだが・・・。
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