私が野口整体を勉強し始めた(18年位前)頃と比べて、野口整体の認知度は上がっているようだ。それは整体協会が活動を続けていることと、野口晴哉氏の著作が近年相次いで出版され、多くの人が野口整体に直接・間接的に触れる機会が増えたことと関係があるだろう。
しかし野口整体が、今の日本でメジャーになるのは難しいだろう。それは整体協会の体質云々などという問題ではなく、現代日本人の持っている健康観が、野口整体の健康観を受け容れるには無理(抵抗)があるからである。自然に依拠する野口整体は、無病や痛みを取るだけの治療を目指してはいない。あくまでも自然であるからだをきちんと使い切ること(全生)を目指している(それが自然であるならば、死もまた受け容れようとする)。どんな形であれ延命を望む多くの人々とは、正反対である。
野口整体を、自分の生活や施術に「ちょっとだけ取り入れる」ということは、本来有り得ない。何故なら、野口整体は技術である前に思想であるからだ。思想を形として具現化したのが技術であって、思想のない技術が表面的に有ったとしても、それは野口整体ではない。野口整体の「活元運動」や「愉気法」「整体操法」も治療のためではなく、本人の生を全う(全生)する手助けのための技術である。目指すべき方向が違っていれば、たとえ技術が似ていても別物である(別物も悪くはない。別物であっても、野口整体以外の整体であるならば思想と関係なく、ただ効果の有無で技術を採用することが出来るだろう)。突き詰めれば、野口整体に関わる人は「野口整体的生き方をするか、しないか」という二者択一になる。
私はどうか。私は少々変わっていて、自身の活動と生き方を、野口整体のワクにはめるつもりはない。確かに以前、野口整体を4年間程、熱海の金井省蒼先生について習ったことがある。この時期に勉強したことは大きな財産になり、その後の生き方に大きな影響を与えた。しかし、私には野口整体以外にも禅や老荘思想、太極拳、気功など興味のあることが幾つもあった。父親や友人からの影響も少なくなく、そういうことが全部集まって、私の思想になっている。だから私は何か一つのものを思想の柱とすることはできない。ただ自分らしく生きようとすると、結果的にそれは野口整体的な感じになるのである。野口整体には、純粋にその形を保ってもらいたいと思っている。18年前に野口整体を勉強しているときの喜びは、そこにあるから。
しかし野口整体が、今の日本でメジャーになるのは難しいだろう。それは整体協会の体質云々などという問題ではなく、現代日本人の持っている健康観が、野口整体の健康観を受け容れるには無理(抵抗)があるからである。自然に依拠する野口整体は、無病や痛みを取るだけの治療を目指してはいない。あくまでも自然であるからだをきちんと使い切ること(全生)を目指している(それが自然であるならば、死もまた受け容れようとする)。どんな形であれ延命を望む多くの人々とは、正反対である。
野口整体を、自分の生活や施術に「ちょっとだけ取り入れる」ということは、本来有り得ない。何故なら、野口整体は技術である前に思想であるからだ。思想を形として具現化したのが技術であって、思想のない技術が表面的に有ったとしても、それは野口整体ではない。野口整体の「活元運動」や「愉気法」「整体操法」も治療のためではなく、本人の生を全う(全生)する手助けのための技術である。目指すべき方向が違っていれば、たとえ技術が似ていても別物である(別物も悪くはない。別物であっても、野口整体以外の整体であるならば思想と関係なく、ただ効果の有無で技術を採用することが出来るだろう)。突き詰めれば、野口整体に関わる人は「野口整体的生き方をするか、しないか」という二者択一になる。
私はどうか。私は少々変わっていて、自身の活動と生き方を、野口整体のワクにはめるつもりはない。確かに以前、野口整体を4年間程、熱海の金井省蒼先生について習ったことがある。この時期に勉強したことは大きな財産になり、その後の生き方に大きな影響を与えた。しかし、私には野口整体以外にも禅や老荘思想、太極拳、気功など興味のあることが幾つもあった。父親や友人からの影響も少なくなく、そういうことが全部集まって、私の思想になっている。だから私は何か一つのものを思想の柱とすることはできない。ただ自分らしく生きようとすると、結果的にそれは野口整体的な感じになるのである。野口整体には、純粋にその形を保ってもらいたいと思っている。18年前に野口整体を勉強しているときの喜びは、そこにあるから。