意欲は、自分で出そうと思っても出せず、ましてや人から言われて出せるものではない。
金や物、異性などは意欲を喚起する動機にはなるが、絶対ではない。
意欲は自然に内側から出てくるものである。それを待たなければならない。しかしいつまでたっても意欲が湧いて来ない人もいる。それは「待ち方」が悪いのである。キチンと脳とからだを休めることだ。意欲を出そうなんてことも考えず、身体の各処の力を抜いて、ただ「立つ」。静を極めると動が始まるのである。中国語には「物極必反(物事は極限に達すると必ず逆方向に動き出す)」という言葉がある。疲れ切ったときに休みたくなり、良い睡眠がとれるのは、動を極めて、良い静が得られたからである。
私たちは日常、たとえ何もしていないようでも、何かをしていることが多い。テレビやパソコンをしているのも、脳を使った「動」である。だらだらとした生活は、中途半端に「動」を続けていることである。それに対して風呂や睡眠だけでは、完全には休養が取れない(静を全うすることはできない)。日常の中に、少しでもキチンと休む時間を入れることが、睡眠の効果を上げ、意欲の湧きやすい状態を準備することになる。私の提唱している「ただ立つ」ことは、その手段になり得る。
金や物、異性などは意欲を喚起する動機にはなるが、絶対ではない。
意欲は自然に内側から出てくるものである。それを待たなければならない。しかしいつまでたっても意欲が湧いて来ない人もいる。それは「待ち方」が悪いのである。キチンと脳とからだを休めることだ。意欲を出そうなんてことも考えず、身体の各処の力を抜いて、ただ「立つ」。静を極めると動が始まるのである。中国語には「物極必反(物事は極限に達すると必ず逆方向に動き出す)」という言葉がある。疲れ切ったときに休みたくなり、良い睡眠がとれるのは、動を極めて、良い静が得られたからである。
私たちは日常、たとえ何もしていないようでも、何かをしていることが多い。テレビやパソコンをしているのも、脳を使った「動」である。だらだらとした生活は、中途半端に「動」を続けていることである。それに対して風呂や睡眠だけでは、完全には休養が取れない(静を全うすることはできない)。日常の中に、少しでもキチンと休む時間を入れることが、睡眠の効果を上げ、意欲の湧きやすい状態を準備することになる。私の提唱している「ただ立つ」ことは、その手段になり得る。