顔と体を真正面に向けて、両腕を垂らし、左右の足に均等に重心を分けて立っている・・・こういう姿勢の写真や絵を見たことがない。もちろん何処かにはあるだろうが、あまり多くはないだろう。美の世界では、真直な(真直に近い)姿勢は敬遠されるのだろうか。その理由を考えてみたい。
「偏り」は美の世界から観れば決して悪いことではなく、むしろバランスを壊さない範囲内で偏らせることこそ、美の表現だとも言える。だからカメラマンや画家が、被写体(モデル)には何らかのポーズを取らせるのが普通である。
では、全く偏りの無い「不偏の」姿勢(最初に述べた姿勢・・・顔と体を真正面に向けて、両腕を垂らし、左右の足に均等に重心を分けて立つ)では、美を創りだすことができないのだろうか。形で誤魔化せない分難しいが、不可能ではない。形の上で制限があるのならば、形の中(質)で表現をすれば良いのだ。それは筋肉の緊張と弛緩のバランスを絶妙に取ることで創りだせる。高度に脱力する技術と、バランス感覚を磨けば、その「静の極地」を現すことができるだろう。「偏り」を「動」だとすれば、「不偏」なものは「静」である。「静」は限りなく力が抜けてはいるが、「死」ではない。「静」の中には形に現れない「動」もまた含んでいる。そうでなければ「立つ」ことはできないし、喜怒哀楽を併せ持つ人のココロと共鳴はしない。躍動や情熱を現す「動」よりも「静」のほうが、精神性を筋肉の緊張に載せて現すことができる。
ところで作品は、優れていればいるほど優れた鑑賞者を要求する。絵や写真を観る時に、モデルの腕や足よりも顔に意識が多くいってしまうような鑑賞者は、優れた鑑賞者ではない。観る方のバランスが崩れているのに、どうして被写体の全身のバランスなど上手く把握することができるだろうか。もしかしたら、作者が鑑賞者のレベルの低さを知って、不偏の姿勢を作らないのかも知れない。作ったところで理解されないと・・・。或いは作者自身に、不偏の姿勢の善し悪しを見抜く身体感覚(規準)が無いのだとしたら、当然そのような作品は作れはしない。不偏の作品の少なさは、単にその姿勢が魅力的ではない(面白くない)ということではなく、上のような問題があるのではないかと思っている。