役所では、生まれた子供の名前が戸籍に登録されてはじめて、その子が国民になる(存在する)。子供の家族からみれば、名前など付ける前から明らかに存在しているのだが・・・。
ゴダイゴの「ビューティフル・ネーム」が流行った頃、私は子供で、全ての子供に名前が有るのは当たり前だと思っていた。その子の名前を叫べば、誰もが答えていたからだ。
それから数年経って、中国には「黒孩子」と呼ばれる名前の無い(戸籍に載らない)子供が沢山いることを知った。「一人っ子政策」の下、労働力等のために、こっそりと生まれた子供である。彼らは正式に国民として認められてはいないから、学校にも行けず、国の保護は受けられない。
老子は、名前の付く前の「混沌」とした世界を「無名」と呼んだ。名前は「存在」に付いた記号に過ぎず、記号が無い「無名」もまた存在しているのである。現に「黒孩子」が存在しているように・・・
名前が有ろうと無かろうと、子供(存在)は「燃える生命」であり、「どの子にも一つの生命が光っている」。
この歌の作詞家は、名前そのものにこだわった訳ではなく、個々の「存在」を大事にしようという願いを込めて書いたのだろう。また、個々の存在は、それぞれ別々に在るのではなく、他者ともまた通じ合う。だから
「ひとりの子供のかなしみも 仲間の名前に溶ける」
もともと「一つ」だったものが、名前を付けることで分かれた。しかし「存在」のレベルでは分かれていないから、何時でも元の「一つ」に戻れるのだ。名前、それは一つであって一つでない。