気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

「わたし」と「無わたし」

2022-08-30 15:36:14 | 「立つ」健康法
ひさしぶりにブログを書きます。
私が今まで書いてきた記事、特に「キチンと立つ」健康法関係のものは、おそらく多くの人に響くものではないと思っています。太極拳の教室などに通ってきてくれる人たちでも、私が説明してもよく理解できない人の方が多いのです。それでも私がこの方法をお伝えしたいのは、どこかにいる誰かの身心を変えることができるのではないかと思うからです。私がそうだったように、数多くある健康法の中で、「キチンと立つ」方法が一番合う人もいるのではないかと思うからです。

「わたし」には二つの面があります。一つは普段の日常を過ごすときの「わたし」。「わたし」が主体になり、周りの物物はすべて他(客体)。もう一つは、自分の名前を取ってしまった「わたし(〈無わたし〉と呼びます)」。名前がなくなれば、当然それにともなう「意味」がなくなります。意味というのは、肩書きや所属のようにその人を説明するもの。名前がなくなれば自分を証明することができず、存在することができないということになります。しかしそれはまったく何もないのではなく、単独で存在できないというだけのことで、周りとつながっている状態なのです。

そのような「無わたし」を意識することが、カラダを変えることになります。世の中を散り散りに分かれた「多」と観るのか、自分も含めて「一」と観るのかによって、カラダの状態が変わります。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 前回の「キチンと立つ」本販... | トップ | 「無わたし」は自然なこと »
最新の画像もっと見る