goo blog サービス終了のお知らせ 

気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

「弾き語る」という整体

2013-04-19 19:01:41 | 音楽

 「ギターを弾き語る」ということは、ギターを弾いて唱うだけではなく、自分の身体を変えることでもある。唱っているうちに調子が出てくるのは、身体が徐々に目覚めてくるからだ。片足を、低いテーブルの上に載せて(行儀が悪いが)唄うと、自然にリズムに合わせて、全身を動かしている。気分も昂揚したり、開放されてくる。「ギター」と「自分」と「歌」の一体感が生じる。

 私にとって「ギターを弾き語る」ということは、結果的に自分を取り戻す手段になっている。


歌いたい時に歌うために

2013-03-28 11:45:27 | 音楽

 仕事に出かける前に、必ずと言っていいほど、ギターを弾き語りたくなるのは何故だろう。仕度を終えて、家を出るまでの5~10分間で歌をうたう。

 最近私の中で流行っているのは、ビートルズの「ミッシェル」「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」、山口百恵の「曼珠沙華」「横須賀ストーリー」、玉置浩二の「夏の終わりのハーモニー」、中村雅俊の「俺たちの旅(この歌はギターの師匠のGちゃんに教わった。彼はROCKな男だがこういう歌も知っている)」など。時に自作の歌をうたうこともある。

20130328_1

 歌は必ずしも、休みの日など時間のたっぷりある時に唄うとは限らない。出発間際になって急に歌いたくなることもあるのだ。「鎮静作用」を求めてのことかも知れない。仕事に行く前には多少なりとも緊張があり、それを解すために歌うのかも知れない。

 そんな訳で、ギターは直ぐに手に取れる処(2箇所)に分けて置いてある。いつ歌いたくなるかわからないので(そういえば昨晩は遅くなってから、2、3曲程歌った)。ギターはケースには入れず(辞書も同様)、チューニングは「半音下げ」で合わせてあるから(ギターを丁寧に扱う人には叱られそうだ)、歌いたくなったら、間髪入れずに唄える。要するに、歌いたくなったら、直ぐに歌いたいのである。ケースから出したり、チューニングをしている間に、気分が落ちてしまうかも知れない。いや、もっと恐れているのは、その手間を先に考え、意欲が湧きづらくなってしまうことだ。私はそういう「機(タイミング)」にコダワル人間らしい。

 写真は、手を伸ばすとつかめるギターと、空のギターケース

003


思考せずに聴く2

2013-02-28 14:19:25 | 音楽

 に荘子の「地籟・人籟・天籟」について少し触れた。今日はその続き。

 私たちは、ある音楽を聴くときに、その音楽の背景にあるもの(情報)を先に知っていることが多い。その音楽は誰が演奏しているのか、録音されたのはいつなのか、作曲者は誰なのか、使っている楽器は何なのか・・・。それらの情報はイメージになり、先入観となる。要するに私たちは、ある程度の先入観を持ちながら音楽に向かっている。色眼鏡ならぬ「色補聴器」をつけて音楽を聴いていると言える。

 情報(知識)を「ただの情報」にしておくだけなら良いのだが、先入観になってしまうと、それが邪魔をして音楽をありのままに(一期一会の音楽として)味わうことができなくなってしまう。

 喫茶店のBGMや、たまたま付けたラジオから流れてくる音楽にココロが動くことがある。先入観が無いから、音楽が「純な形」のまま耳に入るのだ。しかしながら先入観の無い状態を、偶然でなく意識的に作るのは大変なことである。

 先入観を起こさせない(減らす)ためのヒントが、荘子の「斉物論」にある。

「形 固 可 使 如 槁 木 , 而 心 固 可 使 如 死 灰 乎(カラダやココロを、枯れ木のようにする・・・白石拙訳)

「吾 喪 我(自分を忘れる・・・白石拙訳)

 私にとってこれを目指す具体的な方法は、「気功」や「坐禅」である。


足を止めれば

2012-06-14 10:21:36 | 音楽

   コレッリ(アルカンジェロ。バロック時代の作曲家)のCDをようやく手に入れた。以前から探していたので、それを「中古CD店」で見つけた時には、嬉しいより先に震えた(左上のCDが今回手に入れたもの)。

2012613_028_30

    

    コレッリは作品を6つしか残していない。私はすでに作品2・4・5・6のCDを保有し、コレッリの音楽を大変気に入っていた。作品1・3も何とか聴いてみたいものだと思い、(できれば演奏は「ロンドン・バロック」のものを)探していた。しかしこのCDは廃盤で、探すのが容易でなかった。

    そのCD(作品1・3 演奏は「ロンドン・バロック」)が、有った!のである。

  

   もともと、その日は「中古CD店」に行くつもりなど毛頭なかった。本屋に向かう途中の交差点の信号が赤になり、立ち止まり、その数秒で気分が変わり、中古CD店でも行ってみるかとなったのである。

    もしその時、交差点の信号が「赤」にならなければ、このCDは私とは巡り合わなかっただろう。

   もし、青信号の点滅を走って渡っていたら、何も起きずに、当たり前の日常が過ぎただけかも知れない。

   もちろん信号など無くても、足を止めれば、何かが変わることもある。


CDプレーヤーも冬眠

2011-12-25 14:33:07 | 音楽

 12月に入ってからCDプレーヤーの調子が悪く、CDが聴けなくなってしまった。恐らく寒さのせいだろう。ストーブを炊いて部屋が暖まれば、音が出ることもあるからだ。CDラジカセもあるのだが、コレは気まぐれで、日によって音が出たり出なかったり。仕方がないから、昔のカセットテープを聴くことにした。

 「グレン・グールド」がチェンバロで弾く「ヘンデルのハープシコード組曲1番~4番」。こんなテープが有ったことさえ忘れていたが、聴いてみたら止められなくなった。今の私の気分に合うのか、毎日繰り返し聴いている。私はテンポの遅い「アダージョ」や「サラバンド」などの楽章が好みであり、CDであれば速い「アレグロ」などの楽章は跳ばして、緩楽章だけを味わうことも多々ある(こんな聴き方をするなんて素人だなぁ~と自分でも思う)。しかしカセットテープだとそういう風に楽章を跳ばすことも不自由なので、すべてを聴くことにした。聴いて見ると、案外速いところも良いもので、緩楽章がより一層甘く感じられるということがわかった。お汁粉をお新香などと一緒に食べるのと同じである(あくまで緩楽章中心主義?ではあるが)。

 その時々に、気に入った音楽があるというのは、しあわせなことである。