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気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

枯れてはいない

2013-03-29 20:05:21 | 風景・自然

 昨年の11月に「かねのなる木」を鉢でもらい、ウチで育てることになった。と言っても部屋に置いて、たまに水をやる程度である。ところが冬になって葉を紅くすると、すべての葉を落とした。そして枝が軟らかくなり、折れてしまったのだ。枝の中を見るとスカスカでカリントウの様である。彼にとってこの部屋は耐寒温度(0度・1~3度)を超えていたのかも知れない。

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 枯れてしまったのかと、ほぼあきらめていたら、ナント、新しい芽が出ているではないか!生命力は、人が考えているよりももっと強いものなのだ。

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一人で、レンギョウを植える人

2013-03-21 14:27:12 | 風景・自然

 いつも通る山道の脇に、数日前から、見慣れない苗木が沢山植えられていた。気になっていたら、ばったりその木を植えている人(コヤマさん)に会った。コヤマさんは、昨年は頻繁に山道を整備(木で階段を作ったり)していたので、あいさつは何度か交わしたことがある。

 コヤマさんが植えていたのは「レンギョウ」という黄色い花を咲かせる木だった。「シナレンギョウ」とも呼ばれ、中国から来たものだ。日中関係は今は良くはないが、いづれ良くなり、中国からの観光客も増えるだろう、と言われた。いつか来るであろう中国からのお客さんのために植えているのである。「その時に私は(この世に)いなくても、レンギョウが咲いていれば良いじゃない」と笑う。私は、コヤマさんという個人が、日中友好を願い、大きなスコップを振るう姿に心を打たれた。

 

3月19日の朝にはまだ咲いていなかったが、夕方には開花していた。

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コヤマさんには他にも興味深い話を聞いたので、またの機会に紹介したい。


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思考せずに聴く

2013-02-07 11:30:09 | 風景・自然

 先日、山道を歩いていると、近くで何かの「連続した音」が聴こえた。

 音の正体は、枯葉だった。強風によって、ひっきりなしに枯葉が枯れ枝にぶつかっていた。ほんの数秒、ぼんやりとそれを眺めていた。その後、その音を録音しようと思い、準備をしたが、風はピタッと止んだ。しばらくそこに立ちどまり、新しい風の吹くのを待ったが、もう一度吹くことは無かった。

 帰り道、私は、何か自然との関わり方を誤ったような気がしていた。

 荘子の「斉物論」に、「地籟(木の穴[風で音をたてる])・人籟(笛)・天籟(すべてをありのままに聴く)」の話がある。

 今回のケースに例えれば、枯葉は「地籟」で、風の強弱で違った音を出す。枯葉を楽器にして人が叩くなりして音を出せば「人籟」である。どちらも風や人の力を頼っている。「地籟」や「人籟」そのものが、「天籟」に比べてレベルが低いわけではなく、「天籟」とは「地籟」や「人籟」の聴き方である。枯葉とそれを動かす風と、出てくる音を、「ありのまま」に聴く。

 おそらく、正体不明の「その音」を聴いた瞬間だけが「天籟」だったのだろう。思考(私)が動き出し、「その音」が風に依るものだとわかり、「録音しよう」と思った時には既に、「私」と「枯葉」は二つに分かれていた。だからあの後、風が吹いても、それを取り戻すことは出来なかったのだ。


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165万年続く存在感

2013-01-24 11:16:09 | 風景・自然

 2008年に多摩川で掘りだした貝の化石。写真は上と横から撮ったもの。

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 化石は物を言わない。植物も無口だと思っていたが、、化石はそれ以上に寡黙である。

 化石は動かないが、プラスティックやコンクリートのような人工物とは違う。かつて生命が宿っていた「雰囲気」のような物が残っている。何というか、「外に向かう力」のようなものがある。と言っても貝が外向的で自己主張が強かった訳ではなく、あるがままに存在していただけだろう。

 人間も、どういう心境であろうと(ココロが開こうが閉じようが)、生きているということは、すでに自己の存在を外に向けて現している。

 死して尚、これだけの存在感があるのは、思惑などをはるかに超えた生命力によるものである。


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裏山散歩⑭

2013-01-04 10:23:37 | 風景・自然

 裏山には、入口の異なる二本の山道があり、私は勾配の急な方を登ることが多い。この二本の山道は頂上(と言っても低い山)付近で交わり、一本になる。年に数回「上(勾配の急な方)」の山道から「下」の山道へ「けもの道」を通って降りることもある。

 先日その「けもの道」を、枯葉に足を滑らせ、木に飛びつくようにしながら降りていた。いつもならば「下」の山道とぶつかり、左右のどちらかに行くのだが、何故か私は気がつかずに直進してしまった。しばらく歩いて、ようやく私は間違えたことを悟った。来た道を戻れば良いのだから慌てることはなかったが、それでも初めての処は、私を少し緊張させた。辺りを見渡すと先に平坦な道があったので、進んだ。するとそこに突然、現れた!入口が・・・

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 私は全く予期していないものの出現に驚いた。この山の中に地下壕(戦時中、軍用機のエンジンを作っていた)があることは、聞いていた。この入口はその地下壕に続いているのか。

 私は何だかここに、「呼ばれて」来たような気がした。戦争末期、ここで働いて(働かされて)いた数千人の「想い」のようなものに呼ばれて・・・もし「想い」があるのなら、それは、無念さ?絶望?希望?継承?・・・わからないが、それを考える(感じる)ことは、大事なことだろう。


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