夢の中で「ベンツァイ ピエンツァイ」という言葉を聞いた。状況はまったく憶えていませんが、響きは残っています。中国語だと思いますが、聞いたことのない言葉で、意味もわかりません。幸いなことに拼音と声調(běnzài pianzài)をおよそ(四つのうち三つ)憶えていました。もしpianが「piàn」であれば、おそらく「片」であり、「piān」であれば「偏」であろうと、直観も合わせてそう思いました。私が夢で聞いた言葉は「本在片在」か「本在偏在」のどちらかではないかと。
「本在片在」、「本在偏在」という言葉は(四字熟語にも)ありません(ただし「偏在」には「かたよってある」という意味があります)。そこで私なりにこの言葉を解釈してみようと思います。
まずは「本在片在」。字を眺めていて、ハッとしました。「本」は元・基の意であり、「片」はかけらです。要するにこれは、大本(おおもと)であるところのものと、そこに生じるものを表しているのです。老子でいえば「妙」と「徼」、禅でいえば「空」と「色」の関係と同じです。「本在片在」は、本(もと)と現れたもの(片)が同時に存在していることを示した言葉だと考えられます。
「片」は、たとえばジグソーパズルのピースです。そのピースは、一つではありますが、常に「一枚の大きな絵を想定」しています。「片」は「片」のまま終わらないのです。私は、人は地球上に散らばる一つ一つのピースのようなものですが、「大きな何か」とセットになっていると考えています。その「大きな何か」は、人によって違うのかも知れませんが、それが「想定」されているかいないかでは、ずいぶん違うものになります。
次に「本在偏在」。「偏り」はニュートラル(正常)を基準に語られるものです。ニュートラルがあって初めて「偏る」ことができるのですから。「偏り」と「ニュートラル」はセットなのです。私たちは普段「色眼鏡」で物事を観ていますが、そんなに偏った見方をしている実感はないかも知れません。あるいは自分の見方が正しいとさえ思ってしまうこともあります。しかし私たちが人である以上、偏った見方から逃れることはできません。「本」は「ニュートラル」、「偏」は「私たちの見方」と考えることができます。このニュートラルは目に見えないものですから普段の生活の中で忘れがちですが、それを身心の理想の状態として意識するかしないかでは、やはりずいぶん違うものになります。
私がからだを整えようとするとき、周りとつながっている(あるいは分けられない)とイメージするのは、上述した「大きい何か」を「想定」し、想像することで、身心が変わる(ニュートラルに戻る)からです。「大きな何か」が「ある」ということは、科学的には証明できませんが、身心の変化の実感は私にとって、測定される数字よりも信じるに値する基準です。
それにしても、夢の中に知らない言葉が出てくるというのは、どうしてなのでしょうか。夢の中でも新たな思考や創作をしているのだと考えざるを得ません。
余談ですが、もし「pianzài」が似た発音の「biànzài」だと「遍在」となり、「本在遍在」は「本(もと)があまねく存在すること」となります。これはこれで良い意味なのですが、今回は私の聞いた印象とは異なるので、外しました。