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気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

夢の中で初めて聞いた言葉

2023-01-28 10:15:16 | 「立つ」健康法

 夢の中で「ベンツァイ ピエンツァイ」という言葉を聞いた。状況はまったく憶えていませんが、響きは残っています。中国語だと思いますが、聞いたことのない言葉で、意味もわかりません。幸いなことに拼音と声調(běnzài pianzài)をおよそ(四つのうち三つ)憶えていました。もしpianが「piàn」であれば、おそらく「片」であり、「piān」であれば「偏」であろうと、直観も合わせてそう思いました。私が夢で聞いた言葉は「本在片在」か「本在偏在」のどちらかではないかと。

 「本在片在」、「本在偏在」という言葉は(四字熟語にも)ありません(ただし「偏在」には「かたよってある」という意味があります)。そこで私なりにこの言葉を解釈してみようと思います。

 まずは「本在片在」。字を眺めていて、ハッとしました。「本」は元・基の意であり、「片」はかけらです。要するにこれは、大本(おおもと)であるところのものと、そこに生じるものを表しているのです。老子でいえば「妙」と「徼」、禅でいえば「空」と「色」の関係と同じです。「本在片在」は、本(もと)と現れたもの(片)が同時に存在していることを示した言葉だと考えられます。

 「片」は、たとえばジグソーパズルのピースです。そのピースは、一つではありますが、常に「一枚の大きな絵を想定」しています。「片」は「片」のまま終わらないのです。私は、人は地球上に散らばる一つ一つのピースのようなものですが、「大きな何か」とセットになっていると考えています。その「大きな何か」は、人によって違うのかも知れませんが、それが「想定」されているかいないかでは、ずいぶん違うものになります。

 次に「本在偏在」。「偏り」はニュートラル(正常)を基準に語られるものです。ニュートラルがあって初めて「偏る」ことができるのですから。「偏り」と「ニュートラル」はセットなのです。私たちは普段「色眼鏡」で物事を観ていますが、そんなに偏った見方をしている実感はないかも知れません。あるいは自分の見方が正しいとさえ思ってしまうこともあります。しかし私たちが人である以上、偏った見方から逃れることはできません。「本」は「ニュートラル」、「偏」は「私たちの見方」と考えることができます。このニュートラルは目に見えないものですから普段の生活の中で忘れがちですが、それを身心の理想の状態として意識するかしないかでは、やはりずいぶん違うものになります。

 私がからだを整えようとするとき、周りとつながっている(あるいは分けられない)とイメージするのは、上述した「大きい何か」を「想定」し、想像することで、身心が変わる(ニュートラルに戻る)からです。「大きな何か」が「ある」ということは、科学的には証明できませんが、身心の変化の実感は私にとって、測定される数字よりも信じるに値する基準です。

 それにしても、夢の中に知らない言葉が出てくるというのは、どうしてなのでしょうか。夢の中でも新たな思考や創作をしているのだと考えざるを得ません。

 

 余談ですが、もし「pianzài」が似た発音の「biànzài」だと「遍在」となり、「本在遍在」は「本(もと)があまねく存在すること」となります。これはこれで良い意味なのですが、今回は私の聞いた印象とは異なるので、外しました。

 

 


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「心をどこにも置かない」とは

2023-01-13 08:55:40 | 「立つ」健康法
 ふと20代の頃に読んだ沢庵禅師の「不動智神妙録」を思い出しました。心をどこにも置かない(執着しない)ということが、禅でも剣の世界でも大事だということが書いてあったと思います。これを実現することは大変難しいことです。少しでもそこに向かうためには、「心をどこにも置かないように」あるいは「執着しないように」と「減らす」方向に考えるのではなくて、すべて(のものもの)に心(ここでは意識と言ったほうがいい)を振り分けていくようにした方が、いいのではないかと思っています。「減らす」のではなくどんどん「足して」いく感じです。仮にすべてに意識が行き渡れば、それはすべてが一つにつながることであり、もはや心(意識)という言葉(認識)は無くなります。一つのものしかなければ、他と分ける必要がなくなり、当然それを表す言葉は要らなくなりますから。「すべてがある」ということは、有無を超越した本当の「無」なのです。

 私の「キチンと立つ」健康法では、モノを一つに見るイメージをします。完璧にはできませんが、そうすることで意識が変わり、カラダも変わってきます。すべてを意識することは、特定のところに居着いている心(意識)をなくしていくことになるのです。

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今年も身心のニュートラルを

2023-01-05 09:13:02 | 「立つ」健康法
 「♪もしもあの日 あなたに逢わなければ(麻丘めぐみ・[芽ばえ]」)という歌がありますが、私がこの「キチンと立つ」ことに出会わなければ、私の身心は今とは違ったものになっていたでしょう。自分で作ったものなのに「出会う」という言葉を使ったのは、私だけの力では作れなかったからです。
 健康観として一番影響を受けたのは野口整体。ものの考え方として新たな見方を拓いてくれたのは「荘子」「老子」、「臨済」。実際の体の使い方として学んだのは「陳式太極拳」と「気功」。私と同様の仕事をしている先輩と友人からは、会うたびに学びがあり刺激を受けました。それから教室で、疑うことなく真面目に取り組んでくれる生徒がいなければ、私の進むのはこの道で良いのかと、もっと迷っていたかも知れない。もう一つ、忘れてはならないのは、かつての「嫌な経験」。「嫌な経験」を二度としないように、あるいは「嫌な経験」から逃れようとして、考えたいろいろなこと。これらが合わさって、初めて「キチンと立つ」健康法ができました。

 今後も、「キチンと立つ」方法を、できるだけわかりやすく、必要な人に届けられるようにしていきたいと思います。よろしくお願いいたします。



 

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意守(気功のイメージ)の範囲を限定しない

2022-12-25 07:58:16 | 「立つ」健康法
 少し前に、気功の意守(イメージ)の方法を書きましたが、「百会(ひゃくえ)」と「湧泉(ゆうせん)」の意守について少し解説を加えます。
 「百会」は頭頂部にあり、「湧泉」は土踏まずの前方にあります。それらを意守するときには、からだの極(際)という認識を自然に持つのではないかと思います。しかし一方で、そこは百会であれば天(空気)の極であり、湧泉であれば地の極でもあるのです。渡辺真知子の「たかが恋」という曲の中に「岬は海と陸の最果て」という歌詞があります。岬は普通、陸の最果てとは考えても、なかなか海の最果てとは考えないものです。同様に百会や湧泉をからだの極とだけ考えているよりも、同時に天や地の極でもあると考えたほうが、からだに拡がりが出て、いい感じになるのです。

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次元(モノの見方)を変えるとは②

2022-12-18 08:52:53 | 「立つ」健康法
 次元を変えても、個々のモノモノがなくなるわけではありません(見たり、触れたりすることができます)。その状態はモノを一つにつなげてみる前の状態と同じように見えますが、質が違います。それは「つながっている」という前提の上で、本質を持たない個々が分かれている、いわば「つながっていながら分かれてもいる」という矛盾的な状態です。そのようにモノがつながった状態を基準にして身心を見てみると、カラダは軽くなり、動かしやすくなります。カラダに一体感があり、全身を使うことができます。ココロは穏やかになり、不安が減り、悩みなどがそれほど気にならなくなります。身心にとっては、普段のように相対的な見方をしているときよりも、このような見方をしているときの方が良いのではないかと思っています。

 そうは言っても日常のあらゆる場面でそのような見方をすることは不可能に近いです。しかしそこまで徹底的にやらなくても、からだは変わるのです。程度は落ちるかも知れませんが、日常に少し取り入れるだけでも生きやすくなります。私は「モノを一つに見る」ことを健康法として「理想の立ち方を身につける」ことを紹介しています。

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