気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

たとえモノが見えていても 

2023-10-14 10:36:30 | 「立つ」健康法
 「キチンと立つ」練習のときに、「自分も含めてすべてのものが一つにつながっている」とイメージします。ところが人によっては、このようにイメージすることはとても難しいといいます。すべてのものが一つになっている状態を、禅では「空」、老荘では「道」・「渾沌」と呼びます。一つですから、個々が単独で存在していません。
 わかりやすく例えれば、カレーを煮込み過ぎて、ジャガイモやニンジンなど具の形がなくなっている状態、具はすっかり溶けてしまい特定はできませんが、内容(成分)は鍋の中に残っています。このような渾沌とした状態が、「ひとつ」になったイメージです。
 しかし実際の練習(日常の各々の場面)は、煮込み過ぎたカレーとは違い、イメージするモノの形は崩れることなく明確にあります。それらの物ものを、形が変化することなく、周りと一体化しているように想像するのです。部屋の中で練習する場合、床や天井、壁や窓も目に見えたとしても、それはそれぞれが単独で存在しているのではないと考えます。
 常識的には、見えているものは「ある」と考えます。まして触れることができれば、どうしたって「ある」のです。それを「無い」と考えるのがここでの練習です。名前や概念を否定して行くような方法もあるのですが、今はもっと簡単な「透明」のイメージで」練習しています。自分も透明で、他の人や物ものも透明だと考える。そうすると「透明」は輪郭を持たないから、結果的につながって(一つになって)しまうのです。

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ワークショップを終えて

2023-09-27 22:05:47 | 「立つ」健康法
 8月から9月にかけて「ストレス対処法研究所」さんと共催したワークショップには、3日間で32名の人が参加してくれました。皆さんには概ね満足して頂いたようですが、中には「透明になるイメージがわからない」、「気がわからない」といった声がありました。長く教室に通ってくれている生徒には当然のことが、初めての人にはわからないということを、あらためて感じました。私もわかりやすく話したつもりでしたが、もっと丁寧に説明した方が良かったのではないかと反省しています。
 
 教室ではときどき、「モードを変える」という言葉を使います。よく日常で使われる「オン・オフの」切り替え」という意味ではありません。ここでは、モノを分かれた「多」と見るのか、つながった「一」に見るのかということです。この上なく大きなモードの変化です。モードを、「判断の基準」と言い換えることもできます。
 いうまでもなく私たちが常日頃見ている世界は分かれています。自分と他人は同じではなく、川と山は違うモノです。それは世界が分かれているのではなく、自分が世界を分けて見ているからです。自分がモードを変える主導権を握っているのですから、「すべてがつながっていて、一つになっている」と見ることもできるのです。そして、そのように「ひとつ」に見ていこうとすると、身心が変わってくるのです。
 

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透明な身心2

2023-09-12 08:34:59 | 「立つ」健康法
 書や手紙で文字を書くとき、紙の上には「文字」と「文字でないところ」があります。「文字でないところ」なく、文字だけを書き続けることは不可能です。同様に音楽は、鳴っている音だけで作られているのではなくて、鳴っていないところがあるから音楽になります。すべての音が途切れることなく鳴り続けたら、音楽になりません。歌にしても、声を出すところだけでなく、出さないところもあります。
 つまり文字は「文字」と「文字でないところ(無文字と呼ぶことにします)」の両方があって初めて成立します。音楽も「音」と「音でないところ(無音と呼ぶことにします)」によって成立します。それでは、人はどうでしょうか。ほとんどの人は、カラダという肉体だけで生きていると考えているのではないでしょうか。上述した例に従えば、カラダ以外に「無カラダ」というのがあっても良いはずです。また「自分」とは、人の形をした特定の人間というだけでなく、「無自分」というのがあっても良いのです。
 「無カラダ」や「無自分」は、普段「自分」だと考えている以外のすべてのものが、自分とつながっている状態です。個が独立して(単独では)存在できないのです。逆から見れば、つながることで存在することができるのです。
 
 文字と無文字が、音と無音がセットになっているように、カラダと無カラダ、自分と無自分もセットとして考えます。ただし「無カラダ」、「無自分」とは分かりづらいので、「透明」という言葉を使い、それを表します。「透明なカラダ」、「透明な自分」と。要するに自分は、色のついた普段のカラダと、透明なカラダを持っているということ。色のついたカラダや自分は独立しますが、透明な方は周りとつながっている。

 私たちが日常でこの二つを、どのように具体的に「セット」として活用できるのか。それはカラダを使いながら、意識(イメージ)することです。



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透明な身心

2023-08-09 07:01:53 | 「立つ」健康法
 「透明なカラダを持っている」などと言えば怪訝な顔をされるかも知れません。しかし私はときどき、自分は「透明なカラダを持っている」と想像します。
 カラダには色がついているのが普通です。顔の色・肌の色・髪の毛の色…。一旦それを置いておいて、以外に「透明なカラダ」があるとイメージします。
 なぜそのようにイメージするかというと、そうすると「よい立ち方」ができるからです。自分にとって健康な状態になります。
 なぜ「透明」かというと、「透明」は周りとぶつかることなく、つながるからです。たとえば自分が「透明」で、周りの人や窓や床なども「透明」だと考えてみる。そうすると、普段はバラバラなものが、つながってきます。色がついていると、それぞれが独立してしまうのですが、透明という共通があると、つながりやすくなるのです。

 「色即是空(般若心経)」では、色(しき)とはモノのことで、空(くう)とは無(自性がない・個で独立していない)であり、万物は無だと言っています。それは何もないことではなくて、すべてが有るということ。すべてが有るということは、すべてがつながっているということ。しかし私たちの眼にはモノがバラバラに見えて、つながっているようには見えません。
 つながっているように見ようと思っても、そう簡単にできるわけではありません。そこで「透明」のイメージをしてみると、少し「つながっている世界」に近づくことができます。

 ここで注意したいのは、空(くう)が色(しき)より優っているのではなく、どちらも有るということです。般若心経では「空即是色」ともいいます。
 
 「透明」という言葉をずいぶん使いましたが、ここで言う「透明」は一つの象徴です。もちろんイメージをするときに自分の肉体と同じ形を想像して、それを透明化してもよいのですが、具体的な形象を想像しなくても、「透明」という概念を持つことで、周りとつながることもできます。
 「透明」なイメージ以外にも、「キチンと立つ」ことのできるイメージはあります。それは自分の中に「見えない(もうひとつの)何か」を想定して、それが周りのすべてとつながっているというイメージであればよいのです。
 
 
 

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差別するとからだが悪くなる?

2023-07-14 13:48:33 | 「立つ」健康法
 人が誰かを差別するとき、差別をした人の身心には、少なからず影響があると考えています。差別というのは、相手を認めない、蔑む、或いは無視するというもので、相手を自分と同じところ(レベル)には置きません。
 人は能力や外形、出身などに違いがありますが、だからといって、差別心を強く持つと、自分の身心を傷つけることになりかねません。
 なぜそういうことが言えるかというと、逆に平等に人を見ようとしたときに、身心がよく変わるからです。平等というと博愛主義者と思われるかも知れませんが、そういう思想からではなく、「身心が変わる」ことを色々と試していたら、「自分と他人は同じ」という意識を持つことが身心を変えることになるとわかりました。もちろん「同じ」と言っても、すべて同じなのではなく、共通のものがあるということ。
 差別によって相手の存在を否定するには、普段使わない力が要ります。差別用語を発しているときには、力が入っているのです。よって身心のバランスが崩れます(鈍い身体の人にはわかりません)。
 
 平等と言いましたが、そんなにキチンとやらなくても大丈夫です。イメージの練習のときに、ただ「自分と他人は同じだ」と思えばいいのです。私の場合は、「他人も気で、自分も気」というふうにイメージします。そこには感情が絡まないので、親しく相手を受け入れる必要はなく(ハードルは低く)、淡淡とイメージするだけです。

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