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気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

1987年の中国旅行を、もう一度味わう⑤

2013-01-17 09:50:03 | 中国

 我々は青海湖に行く途中で、手打ち麺を食べた。この姿勢で打つ麺が美味くないわけがない。ただし角砂糖入のお茶は甘くて閉口した。

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 おちゃらけたLちゃんの向こうには、真剣な趣で歩くチベット族の男性?

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 「ヤク」も自分の仕事をしている(根がないのは我々だけか?)。

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 青海湖はまさに海のようだった。対岸が見えないほど大きい。

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 運転手のオヤジさんは、畔で魚をさばいていた(内蔵を取り除いていた)。それが水面にぷかぷかと浮かんでいる。

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 地球を持ち上げる?!

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 青海湖西岸にある「鳥島(渡り鳥が生息している)」には、鳥が密集していた。

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 物事が順調に行くことを「旅」とは、言わない。仲間の一人が「高山病」になってしまったのだ。「高山病」は高度を下げなければダメだと、運転手のオヤジさんが言ったので、観光はここまでにして、「西寧」に戻ることにした。Lちゃんが本人に、どんな感じですか?と訊いたら、「二日酔いにウイスキーを3杯飲んだ感じです」と答えたという。

 

 「青海湖は水が減り続けていて、いづれ消えて無くなる」と、運転手のオヤジさんが言っていたらしい(Lちゃん情報)。

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 鏡のような湖面

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(つづく)


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1987年の中国旅行を、もう一度味わう④

2013-01-10 15:28:20 | 中国

 「西寧」は前に訪れた敦煌や蘭州と比べると、空気に湿気がある。調べてみると、西寧市は海抜2275メートルのところにある高原都市であった。

 道端でヨーグルトを食べるLちゃん。横に立つヨーグルト売りのお姉さんは、恥じらいのある表情を浮かべている。

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 「西寧」では白い帽子を被った回教徒をよく見かける。私の軽い足取りと違って、彼らのそれは、信仰心の深さを現していた。

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 Lちゃん情報によると、私たちはモスクを参観しようとして、知らずに土足で入ってしまい、関係者に叱られたらしい(私はこの事件を忘れている・・・いったい人の記憶とは何を残し、何を捨てるのだろうか・・・)

 さて、我々は「青海湖(琵琶湖の6倍もある)」へ行くためにタクシーをチャーターしようとしたが、その料金が高額だった。そこで、同乗者を探し、一人当たりの旅行費用を軽減しようと考えた。同ホテルに泊まっている日本人をフロントで教えてもらい、彼らの部屋を訪ね、同意を得た。そして、我々+3名の5人で青海湖を目指すことになった。写真はLちゃんと一日限定・3人の仲間。旅先では、ココロが開いているのか、すぐに仲良くなれる。

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 お世話になった車の運転手とその車。草原に良く映える。

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 草原の中の一本道を走る。

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 よく観ると、遠くに羊がいた。

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(つづく)


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1987年の中国旅行を、もう一度味わう③

2012-12-27 16:42:44 | 中国

 我々は河西回廊」に沿って、敦煌から「嘉峪関(かよくかん)」を目指した。途中「安西(アンシー)」で一休みした。「安西」は中国一風が強い所と言われていたが、沙漠だったらどこでも遮るものがないから、いつでも風が吹いている。

 「嘉峪関」は、万里の長城の西の極点である。当時、東の極点は「山海関」で、Lちゃんは両方とも行ったと自慢していたが、2009年に「遼寧省・虎山」が最東端となった(Lちゃん、残念!)

 嘉峪関は高い城壁で囲まれ、その上の通路を歩くことができる。

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 観光名所の北京・八達領などは立派な城壁だが、西は低い土塀である(写真・砂漠の中に城壁が続いている)。

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 既に用を成した長城は、中華民族にとって「誇り」をもたらすだけではあるまい。確かに(日本の国土よりも)長い長城を築き上げることは人類初の出来事で、こんなに大規模な建造物は他に類を見ない。しかしそのスケールは、そのまま遊牧民(匈奴など移民族)への恐怖の大きさを現しているのだから・・・

 

酒を飲まないLちゃんと、「酒泉駅」 

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 「酒泉」には、酒の味のする泉の伝説がある。本当にそんな「酒泉」があれば、「陶淵明」もこのような詩を書かなかったに違いない(白石拙訳)。

  但恨在世時(ただ恨めしいのは、生きている時に)

  飲酒不得足(思う存分酒を飲めなかったことだ)

 酒泉から「蘭州」を経て、「西寧」へと旅は続く。


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1987年の中国旅行を、もう一度味わう②

2012-12-20 11:11:45 | 中国

 敦煌はかつて「沙州」と言われたように、沙(砂)の中にある街だった。風が吹くと沙が舞い上がり、街全体が黄色く染まった。

 さて、我々は郊外の観光地である「鳴沙山」に行くことにした。レンタル自転車を借りてポプラ並木をひたすら走った(道の真ん中でポーズを取るLちゃん)。

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 鳴沙山にはイメージ通りの美しい沙丘が拡がり、空の青と、砂の黄色のコントラストが鮮やかだ。そこで私たちを待っていたのは、観光客用のラクダだった。「月牙泉(げつがせん)」まで乗ってみることにした。ラクダは背が高いので、足を折り曲げて、しゃがんでくれないと乗れないのだが、ラクダ使い(?ラクダを操る人)が何度も「坐(ツオ)!」坐(ツオ)!」と叫んでも一向に坐ろうとしない(写真はようやく乗ったところ。馬やロバと違い、このふてぶてしい顔もまたイイ)。

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ラクダは気まぐれな動物らしく、一度道端の草などを喰い始めると、いくらラクダ使いが叱咤しても動こうとはしない(遥か昔から東西を結ぶシルクロードを旅した駱駝の末裔はプライドが高いのだ)。あっちこっちで道草を喰い、我々の存在などすっかり忘れ、最後まで自分のペースで月牙泉まで歩いた。

 月牙泉は、沙の中にある「三日月型」をした池である。エメラルドならぬ翡翠色した水は美しく、また貴重である。ラクダも水を飲みに行くときには道草をしないようだ。

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 「莫高窟(ばっこうくつ)」は敦煌最大の名所だ。そこには数百の洞窟があり、そのひとつ一つに壁画や仏塑像が安置されている。莫高窟には見学コースが2つあり、少数見学コース(10箇所程度)と多数見学コース(40箇所程度)がある。文化・歴史に知識のない私たちは、安易に少ない方を選んでしまった。数年後に知った(本の写真で観た)のだが、第158窟には大きな臥仏があり、それはそれは美しい表情をしていた。おそらく当時でも、この窟は見学はできなかったに違いない。それでもその存在を知っていれば、その窟の重い扉の前に、立ったことだろう(木々の向こう側が莫高窟)。

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※ Lちゃんよりメールがあり、長距離バスに関してひと騒動あったことが書かれていた。私はあんまり憶えていないのだが、面白い話なので紹介したい。

 バスが目的地に到着し、我々はそこで途中下車した。荷物はバスの屋根に積んでいたので、てっきり荷物はバスの関係者(運転手?)が降ろしてくれるものだと思っていたら、バスが発車してしまい、慌てて走ってバスを追いかけ、事なきを得たという。 


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1987年の中国旅行を、もう一度味わう①

2012-12-13 15:34:16 | 中国

 先週書いたように、1987年(厦門大学留学中)に友人のLちゃんと中国を旅したのだが、実は始めは二人で行く予定ではなかった。経緯は・・・

 私が旅の計画を立てていた頃、Lちゃんは北京に遊びに(彼女に会いに?)行っていて、いつ厦門(アモイ)に戻ってくるのか分からなかった。私は彼の動向に関係なく、一人で旅に出ようと準備を進め、いよいよ明日出発という時に、Lちゃんから長距離電話が来た(当時、長距離電話をかけるには、電話局など決められた場所へ行き、申し込み、長い間待たされ、ようやく通じるという具合だった)。

「俺は今、上海に居て(ガールフレンド達とワイワイやっていて?)、明日厦門へ帰るから~」

私は咄嗟に彼を旅行に誘うことにした。

「俺は敦煌に行こうと思って、明日汽車で上海(36時間程かかる)に行くんだよ。一緒に敦煌に行かない?」

彼は既に 上海→厦門 の汽車の切符を購入していた(当時中国で汽車の切符を取るのは大変だった)こともあって、返事をシブっていた。次に私が何を言ったのかを忘れていたが、彼はしっかりと憶えていた。

「今、敦煌では『敦煌』っていう映画(西田敏行主演)の撮影をやっていて、女の娘が沢山押し寄せているらしいよ~」

その一言は彼の意志を変えるのには十分だったらしく、即汽車の切符をキャンセルし、一緒に敦煌を目指すことになったのである(結果から先に言うと、敦煌では女の娘など一人も見かけることなく、ツアーで来ていたおじさんがロバに手を伸ばしていただけだった)。

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 上海でLちゃんと待ち合わせ、復旦大学で顔見知りの女の娘たちと再会したのも束の間、翌日には 上海→ウルムチ 行きの汽車に乗り込んでいた。寝台などいつ取れるかわからないから、とりあえず「座席」で乗って、後で寝台が空いたら移動しようと考えた(車掌にその旨伝えておいた)。運良く途中から寝台へ移ることもできて、無事に最初の目的地「敦煌」の最寄駅である「柳園」に着いた。記憶が曖昧だが、深夜に駅に着いたのではなかったか。駅近くの安宿で、敦煌行きのバスが出るまで数時間休んだ。

長時間の汽車の旅を終えて、宿でくつろぐLちゃん

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 バスは窮屈でとても衛生的だとは言えないが、若いからなのか、性格なのか、こういうことが全く気にならないのである。

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 バスの屋根の上には乗客が預けた荷物が山のように盛り上がり、アヒルまで載せられてガァーガァー鳴いていた。

 

 それにしても、あの時、もし電話が無かったら、一緒に旅することもなく、彼はそのまま厦門に帰り、私は一人で出かけて行ったのである。彼は 上海→厦門 の汽車に乗り、私は 厦門→上海 の汽車に乗り、互いにそれを知ることなく、汽車はどこかの村ですれ違っていたに違いない・・・面白いな~と思う。[つづく]


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