下町ロケット・ゴースト
「あらすじ」
「第八章 記憶の構造」
1.(特許侵害の訴状が届く。伊丹は社員に状況を説明する)
届いた訴状の内容は、これまでの交渉で先方が主張してきたものと同様であった。
訴状にひと通り目を通した島津は、「どうするる。末長先生とはもうやっていけないよね」と、眼の前で思案している伊丹に聞いた。
「さっき佃さんに連絡を入れて、訴状の件は話した」
ため息交じりに伊丹は言い、「明日の午後、今後のことを相談に行こうと思う。一緒に行くよな」、そう島津に問うて、そして続ける。「結局、神谷先生が正しかった。それは認めるしかない」
社長室のガラス窓を挟んで、オフィスにいる社員たちの不安そうな顔がこちらを見ている。ケーマシナリーから特許侵害で訴えられたことは、すでに全員が知るところだ。
社長室を出て、伊丹がその場で社員たちを集めた。ギアゴーストが置かれている状況について搔い摘んで説明し始めた。
「もし裁判に負けたら、ライセンス料、支払えるんですか」
遠慮がちに社員が聞く。
「正直、自力では無理だ。それを承知でケーマシナリーは訴訟を仕掛けてきた。ウチを潰すためだ。だが、一方で力を貸してくれる会社もある。どうあれ、オレはみんなの職は必ず守るから。心配かけるが、今まで通り、安心して仕事を続けてほしい。頼む」
社員が聞く。「力を貸してくれる会社って、どこなんですか」
「最初の候補は、佃製作所だ。佃さんからは真剣に今日慮気を申し出て貰っている」と伊丹は応える。
さらに、いくつかのやり取りがあって、その場は散会となる。
島津は気になることがあった。
佃製作所のことを、最初の候補、と言ったことだ。ならば二番目の候補があるのか。このときの島津にはわからなかった。
2.(訴訟に勝つための手段となる、或る論文)
「社長、ギアゴーストさん、その後、どうなったんですか」
3階に上がってきた佃に、立花が問うた。
「訴状が届いたらしい………」
「顧問契約を打ち切って、神谷先生に頼みたいとのことだ」
「だけど、神谷先生はこの訴訟、引き受けて下さるんですか」
まさに肝要を口にした立花は続けて、「ほぼ勝ち目のない訴訟ですし、どうなんですか、社長」
「………正直どうなるかわからんが、ただ、勝ち目が全くないわけではない」
軽部が聞いた。「どんな手を使うんですかね」
「ここだけの話だが、ヒントは論文だ」
佃が話しはじめた内容に、全員が真剣に耳を傾けた。
3.(神谷は佃が或る論文を見つけたので、勝てると弁護士を引き受ける)
社長室に佃を訪ねてきた伊丹と島津は、前回、神谷・坂井事務所での、半ばケンカ別れのような一幕があっただけに、揃って恐縮した面持ちでソファにかけた。
挨拶のあと、訴状を佃の前に広げた伊丹は、
「私共としましては、神谷先生に弁護をお願いしたいと考えております。ただ、先日のこともありますので佃さんから口添えをいただけないでしょうか」と言って、島津とともに頭を下げる。
佃が、先生も間もなくいらっしゃいますからと言うのとほぼ同時に、神谷本人が入ってきた。
伊丹が先日のことを謝罪すると、別に気にしていないからと言って、神谷は早速に尋ねる。
「末長さんがケーマシナリー側に開発情報を漏洩させたことを証明できますか」
島津から答える。「私から末長先生にお渡しした情報が外部に流出したとすれば、こちらで証明することは不可能です」
頷いた神谷は伊丹に問う。
「末長弁護士とは、どうされるおつもりですか」
「顧問契約は打ち切るつもりです。ついては神谷先生に弊社の代理人を、お願いいただけないでしょうか。お願いします」 島津と一緒に頭を下げる。
「私は負ける裁判はやりません。ところで先日、島津さんは問題の副変速機について、『以前から知られている技術の応用だと解釈していた』とおっしゃいましたが、それは何故でしょうか」
「なぜと言われても………」 島津は返答に窮する。
神谷はカバンの中から一通の書類を取り出し、「どうぞ」と島津の前に滑らせた。
書類を広げた島津の目が見開かれるのを、佃は見た。
「この論文を佃さんが見つけて私に送ってくれていなかったら、この裁判の弁護、検討するまでもなくお断りしたと思います」
神谷は視線を佃に向けた。「実は私も調べたが、この論文に行きつくことは出来ませんでした。佃さん。よくぞ見つけられました。敬服いたします」
「いえいえ。最初は先生と同じく有名論文集や専門誌の論文を当たっていたんです。ところがみつからなかった。そこで目を付けたのが、公けの位置づけになっていますが、目につきにくい可能性のある論文の中から東京技術大学発行の論文集に目を付けました。島津さんが在籍されていたころ、当時の大学院生だった方が書かれた論文を見つけるのはそう難しいことではありませんでした」
素晴らしいご推察でしたと褒める神谷に、佃は、ギアゴーストの代理人をお願いする。
「もちろんです」神谷は大きく頷いた。
4.(中川と末長の内密話)
「そろそろ訴状が到着している頃だと思いますが、伊丹社長からは何かいってきてませんか」
中川に言われて、末長は酌の手を止めた。赤坂にある和食の店である。
末長は思案顔で応える。
「届いていれば、すぐに連絡がある筈なんだが。この前、買収の話はしたんだよね」
「予定通り、重田社長とご対面いただきましたよ。検討すると言って持ち帰られました。結論からいえば、伊丹社長は買収を受け入れる以外の選択肢はないと思うんですが」
「それは私も同感だが」と言って末長が表情を曇らせた。末長が口にしたのは、先日、伊丹から中川との関係を問われた件である。
「先生、何か気取られるようなことをおっしゃったんじゃないですよね」と言う中川に、「とんでもない」、と末長は不機嫌に首を振った。
中川からいい儲け話があると誘われたのは、かれこれ3年以上も前のことだったろうか。
「ギアゴーストという会社、末長先生、顧問されていませんか」
司法試験に合格したのは同年度だが、歳は末長が二つ上なので中川はいつも敬語を使う。
末長は頷いた。「一応、顧問だけど。何かあるの?」
「実はその、開発情報をいただければ嬉しいなと思いましてね」
中川の誘いは単刀直入である。
一旦は末長も断った。
「これだけ払います」、と中川は指を3本立てて、「単位は億です」と言う。続けて、「有益な情報であれば、いただいた時点で1本、残りは買収が完了した段階で。先生には絶対に迷惑はかけません」
末長の胸の中で葛藤が渦巻いたが、長くは続かなかった。
「開発情報というと、どんなものが欲しいんだ」
中川の計画は実に周到であった。先鋭的な知財戦略をとるクライアント・ケーマシナリーに技術情報を流して特許で先行させ、その後、特許侵害で訴える法廷戦略だ。そして、ギアゴーストを窮地に追い込んだところで、ダイダロスの買収案を提示する。
15億円ものライセンス料を要求しているが、多くが弁護士費用やコンサルタント料として中川とダイダロスに還流すると取り決めがすでに出来ているに違いない。
その数か月後、末長が提供したのは、ギアゴーストの新トランスミッション「T2」に関する開発情報である。(開発情報を島津から如何にして手に入れたか、作品には記述がない)
「いずれにせよ、末長先生には早晩、伊丹社長から買収提案についての相談があるでしょう。そのときは応ずるように誘導していただけますか」
「言われるまでもないよ」なにしろ、残額2億円の成功報酬がかかっている。
末長のところに、ギアゴーストの伊丹から連絡があったのは、その二日後のことであった。
「第八章の5」に続く