下町ロケット・ゴースト
「あらすじ」
「第八章 記憶の構造」
7.(帝国重工時代の伊丹の処遇)
ダイダロスは、大崎駅に近い小綺麗なオフィスビルに入っていた。
「どうもお待たせしました」
ゆったりとした声とともに、重田がのっそりと顔を出した。
伊丹に重田から、先日の続きを話したいと連絡があったのは昨日のことだ。
伊丹はその誘いを断ることもできた。いや、本来なら断るべきだっただろうが、伊丹にはそれが出来なかった。重田の話には、伊丹を引き付けるだけの吸引力がある。そしてそれは、伊丹にとって忘れがたい過去と密接に結びついているのだ。いまだ納得もできず、許すことの出来ない帝国重工時代の苦々しい過去に―――。
「先日の件でしたら、もう少し時間をいただきませんか」 切り出した伊丹は、
「そんなことを聞くために声をかけたんじゃないよ」
重田は言った。「かって、あんたは帝国重工を追い出された。プライドをずたずたにされてな。自分を追い出した連中を見返してやりたいと思ってるだろう」
重田が口にした過去は、生々しい心の創傷となって癒されることなく伊丹を苦しめてきた。
「あんたは一寸調子に乗り過ぎたんだ」
重田は伊丹の内面を見透かしたように続けた。「目立ち過ぎたために帝国重工という組織に利用される隙を与えてしまった。あんたがやろうとしたことは組織によって必要なことではあったが、同時にそれは彼らのアイデンティティに対する反逆でもあった。あんたは、古い財閥系企業にはびこるダブルスタンダードの罠に落ちたんだよ」
重田の分析は、伊丹から言葉を奪うに十分であった。伊丹の脳裏に、かっての記憶が急速な勢いで蘇ってくる。
それはちょうど、重田が経営する重田工業が倒産した後のことてあった。
「この収益では、まだまだ不十分だ。さらにコストを見直して、収益の底上げを図ってほしい」
機械事業部で開かれた収益会議で、部長の的場俊一が檄を飛ばした。
重田工業の一件で、伊丹に対する評価は賛否両論入りまじることとなった。的場に認められ、抜本的な取引先改革をやってのけた風雲児としての好評価の一方、部長に取り入って好き放題をやる警戒すべき存在としての悪評もまた根強い。もちろんこのことについて伊丹も自覚していた。それでも自分がやったことは正しく、時間の経過とともに理解してもらえるはずだと思っていて、重田工業の一件後の的場の檄を受けて、
―――機械事業部のサプライチェーンに関する考察と提案
という企画書を提出した。
企画書のキモとなるのは、旧態依然とした取引先会の解散と、取引の抜本的見直しだ。協力会というぬるま湯本質と予定調和の破壊によって生まれる競争力をコストに反映させ、機械事業部の構造的転換を図る―――いわば、名門事業部とそれにぶら下がるる取引先が連綿と受け継ぎ、馴れ合ってきた伝統の否定である。
伊丹がこの新たな企画を思いついたきっかけとなったのは、重田工業であった。重田工業を倒産に至らしめたのは何だったのか。それをコストダウンに応じないからといって取引を打ち切ったことに原因を求めるのは間違っている―――そう伊丹は考えた。
そもそも重田工業の技術力と体力があれば、会社をもっと大きく、強くすることができたはずだ。そうしなかったのは、ひとえに帝国重工への強度の依存体質に原因があったからではないか。過度に取引先を重視する帝国重工の特殊性、協力会というぬるま湯がなければ、重田工業はさらに技術を磨いて新たな取引先を獲得し、価格競争力を備えた優良企業になれた。
第二の重田工業を出さないためにいま必要なのは、一刻も早く協力会を解散し、真の競争に基づく取引関係を構築することだ。それこそが取引先を守り、ひいては帝国重工の収益基礎を確固たるものにするに違いない。
一介のヒラ社員がここまで大胆な改革案をぶち上げるのは、帝国重工はじまって以来のことである。
「こんなものが認められるわけはない」
企画書を見て伊丹の上司の事業計画課長の照井は拒絶反応を見せた。
企画を審議する課長会でも、続々と酷評が投げつけられ、ひとりとして伊丹に賛成する者はいなかった。(次の8項でその原因がわかる)
―――まだ可能性がある。的場ならこの企画を必ず評価してくれる。
だが、その思いは実現しなくて、課長会の意見を添えられた企画書が的場の決済に回された日、的場からの声はかからず、照井から投げつけられるように伊丹に戻された。
呆然とした足取りで自席に戻り、開いた企画書には、的場の閲覧印と共に、赤のボールペンで「見送り」とひと言が大書されていた。なんのコメントもなかった。
このとき、伊丹は、この機械事業部にとって、ただの邪魔者に過ぎなくなった自分を意識した。
そんな伊丹に総務部への辞令が下ったのは、それから間もなくのことであった。
伊丹が着任して間もないころ、半期決算のささやかな打ち上げ会が部内で開かれた。
部員たちの間を回っていた課長の塩田からビールをつがれた後、伊丹は、「君、終身刑だから復帰は期待するなよ。恨むなら、照井を恨め」と言われた。
そのあとで、「ここ、帝国重工の墓場だからな」 そんな声が聴こえてきた。
そんな場所で、見かけた顔を見つけた。
「あの、君は―――」
「島津です。島津裕」と軽くお辞儀した。
トランスミッションの開発チームに島津という天才的な女性エンジニアがいる、という話は聞いたことがあった。
噂と現実の人物が一致した瞬間であった。
数分後、ギアゴーストを起業した共同経営者のふたりが一所に野郎と握手したその場面でもあった。
8.(重田から告げられた伊丹がお払い箱になった真相と復讐への誘い)
伊丹がバックオフィスへお払い箱になった後、機械事業部はどうなったか、重田は問うてくる。
「的場さんの活躍で、業績は急上昇。結局、赤字体質から脱却した」と伊丹は応える。
「その通り。結局あんたが提案した事業再構築は必要なかったということだ」
重田は断じた。「既存の取引先をうまく使い、それまで以上の収益をあげることができた。あんたの負けだ」
その負けを認めたくないために、帝国重工を飛び出し、彼らが切り捨てたビジネスモデルで見返してやろうと考えたのではないか。
「協力会の名の下に胡坐をかいてきた取引先では、コストダウンは難しいとあんたは判断したはずだ。なのに、その取引先をそのまま使って収益が上がった。何をどうやったんだ?」
重田の指摘は、重く伊丹の脳裏に響いた。
「コストダウンに非協力的だということでウチとの取引が打ち切られた後、協力会の中で警戒感と反発が強まった」
重田はおもむろに続ける。「的場は聖域なき改革を断行したつもりらしいが、一方ではそのやり方に危機感を覚え、あるいは反発する上層部もいたんだ。さらに決定的にしたのは一つの新聞記事だった。帝国重工の非情なリストラらによって、千人近い期間工がクビになったという東京経済新聞社社会部の記事で、帝国重工批判が巻き起こった」
これは帝国重工として捨て置けないイメージダウンである。
「すると的場は、そうした社会的イメージを気にする上層部におもねる形で、抜本的改革の鞘を収めてみせたのさ。それだけじゃない。あんたが出してきた事業再構築の企画書を課長らに命じて徹底的に批判させ、さらにあんたを事業部から外に出す決断をした。間違った改革の象徴としてのあんたをスケープゴートに仕立ててな」
伊丹は言葉もなく、重田を見据えるしかなかった。
「的場は収益を改善しなければならない命題を抱えているのだが、果たして、従来通りの取引先を抱え、どうやって、収益を改善していったのか」
重田の自問自答のようなものだ。
「取引関係は継続した。その代わり、的場がやったことは、徹底的な下請け叩きだったのさ。重田工業でどんなことが起きたのか、知らない会社はいなかった。それを利用して取引継続を条件に、徹底的にコストを削減する。発注時の仕切りを無視し、支払い時にはさらに値下げさせるんてことはしょっちゅうだ。それを上層部は見て見ぬふりをした。それだけのことだ。取引先はこのコストダウンによって体力を奪われ、疲弊していった」
「それが真相ですか………」 やがて、呟くように伊丹は言った。
思いもよらなかった過去の真相を突き付けられ、目から鱗が落ちた。うちひしがれた伊丹に、重田は言った。
「オレはあんたを恨んでいない。なぜなら、あんたもまた被害者だということを知っているからだ。的場俊一という悪党に騙され、踊らされ、用済みとなった途端、打ち捨てられた同じ被害者だからよ」
続けて、「あんたはこのままでいいのか。やらればなしで平気か。もし、あんたが的場を見返してやろうと思うんなら、オレと組むことだ。オレはあんたに復讐しようと思って買収を提案したんじゃなく、あんたと一緒に戦おうと思って提案したんだ」
重田の真剣そのものの目が伊丹を射た。
「訴訟になって悪あがきをするのはあんたの勝手だ。やりたけりゃやればいい。だが、オレと組むのは、あんたにとって悪くないはずだ。もし、的場俊一を叩き潰したいのであれば」
重田は、それだけ言って立ち上がった。「もうこれ以上、余計な勧誘をする気はない。後はあんたが決めればいい。オレは待っているから」
「最終章 青春の軌道」に続く