下町ロケット・ゴースト
「あらすじ」
「第七章 ダイダロス」
4.(伊丹が関係した下請け会社重田工業の倒産の経緯)
ギアゴーストを起業する前、伊丹は帝国重工の機械事業部に所属し、エンジンやトランスミッションの企画製造にかかわっていた。
機械事業部に配属される者は、エリート中のエリートばかりであった。
伊丹は大田区で機械加工をしている町工場の一人息子として生まれた。伊丹が高校に進学するころになると社員は3人になり、脇目でも経営の厳しさは一目瞭然であった。
それでも、父は伊丹の教育のためなら、どんな金でも出した。成績優秀だった伊丹が、中高一貫の私立に進みたいと言ったときも喜んで賛成した。
その代わり、こんな町工場は継ぐなよと言われていた。
その父も、肺がん発覚と共に事業を縮小し、死の半年前に工場を清算して閉じた。従業員に退職金を支払い、取引先にも銀行にも迷惑をかけず、母が余生を暮らして行けるだけの蓄えのみを残して死んで行った。
その当時、伊丹の所属していた機械事業部は赤字を垂れ流し、存廃の危機に立たされていた。間もなくして、役員会が起死回生の切り札として送り込んできたのが、的場俊一という男であった。
機械事業部出身で当時最年少で部長に昇進した的場は、様々な施策を矢継ぎ早に打ち始めた。それぞれのセクションに新たな課題を突き付け、成長の見込みがないとなれば容赦なく切り捨てていく。しがらみを一切排した大ナタを振るったのである。
日本的経営慣行を堅持してきた帝国重工には、数多くの下請け企業との長年にわたる緊密な取引があり、そうした下請けとの関係を大切にするいわば"伝統"があった。
その中でも、最重要ともいえる下請け先企業の一社が、伊丹が担当していた重田工業である。
重田登志信会長は取引先の協力界の重鎮で顔役。当時の帝国重工会長の藤岡光樹とは大学時代の同窓という間柄で発信力もあった。一方、長男の登志行は、大学卒業からしばらく帝国重工で修業して家業に戻りその後社長に就任。順風満帆の経営を受け継いでいた。
そして、この重田工業のことが伊丹は嫌いであった。
帝国重工内に人脈もある登志行社長は、事有る毎に伊丹のやり方に意見し、コストダウンの要求にはあれやこれやの理由をつけて応じようとしなかった。協力会とは名ばかりの非協力的な態度である。なくてはならない中核部品を手掛ける自社がいうことなら聞かざるを得ないだろうと、足下を見ているようなところがあった。
挙げ句、「帝国重工のコストダウンは、そこそこにしておいても大丈夫だ」、
協力会パーティーでの、登志行社長のそんな発言まで耳に入ってくる。
遂に伊丹は、下請け企業改革の声をあげることにしたのである。
このとき、伊丹が書いた企画書は大部のもので、その一頁に書いた要約を抜粋する。
「再三のコストダウン要請にもかかわらず、重田工業からの仕入れ価格はほとんど下がっておらず高止まりしたままである。重田社長は非協力的な態度を固持しており、それが協力会全体に蔓延する慢心へと繋がっていると思われる。重田工業との取引歴は長いが、同社との関係は、当社がかねて進めている採算改善を阻む障害に他ならない。この際、同社との取引を全面的に見直し、他社への転注を進めることでトランスミッション事業全体の収益の底上げを図りたい―――」
伊丹が投じた一石は機械事業部を二分する論争となったのだが、最終的にこれを決着させたのは新部長の的場俊一であった。
的場は部内の役職者会議で企画書の方針について承認するや、伊丹にこう命じた。
「重田工業へ発注しているパーツは、全量を他社へ転注してくれ」
帝国重工の伝統としがらみを打破し、まさに聖域に切り込んだひと言であった。
機械事業部長の的場と共に、八王子にある重田工業の本社屋を訪ねたのは、それから三か月後のことだ。
このときまでに、伊丹は10人体制のチームを組み、重田工業に発注していた部品のほぼ全点について転注先の目途を付けていた。
「長いお付き合いでしたが、今期末までのお取引とさせていただきたいと考えております。本日はそれを申しあげるために参りました」
登志行社長の顔つきが一変した。
的場の言葉は続く。「ご存知の通り、私どもの業績は近年非常に厳しくなっており、この立て直しはわが社の急務です。再三の申し入れにもかかわらず御社が反故にしてこられたコストダウン要請は弊社にとって必須のもので、御社の事情の如何にかかわらずご協力いただきたかったものです」
登志信会長が出てきて、藤岡会長のもとで、もう一度揉んでくださいと頼むが、
「機械事業部のコスト改革は、私に一任されております」
一歩も引かぬ構えで的場は登志信会長の言葉を遮った。「御社との取引は来年三月をもって終了させていただくことにしました。ご了承ください」
的場は失礼しますと出口に向かって歩き出す。登志信会長は「部長、部長」と追い縋ろうとする。その傍らで登志行社長は身動きひとつしなかった。
その登志行をそっと窺いながら、人間のこんな貌を伊丹は初めて見たと思った。
絶望と怒り、従容として死地に赴くものを彷彿とさせる悲しみ。輻輳する情念がそこに凝縮している。
重田工業には、数千人の社員がいる。本当にこれでよかったのか。そんな疑問を伊丹は抱かないではいられなかった。
伊丹の心が痛むのは、父の会社のことがあったからだ。父は従業員を守るために、必死だった。
重田工業が会社更生手続きに入り、重田親子が経営から逐(お)われたのは、それからさらに半年後のことである。
5.(重田工業の登志行社長がダイダロスの社長に。その重田社長の買収案は)
あれから8年以上の歳月が過ぎ、その登志行の名をこんな形で目にするとは夢にも思わなかった。
「実は私、重田社長と面識があるような気がするんですが」
控えめな表現で聞いてみる。
「特に聞いていません」
青山は首を横に振った。「なんでしたら直接聞いてみてはいかがですか。重田社長は、一度、伊丹さんとお会いして直接、意向を伝えたいとおっしゃっています」
伊丹はすっと息を呑んだ。
「実は、本日打ち合わせで重田社長がこちらにいらっしゃっています。もし、伊丹さんがよろしいのでしたら、いまここに来ていただきます」
これは最初から仕組まれていたことなんだろう。「いいですよ、私は」、伊丹は平静を装った。
最初に姿を見せたのは、中川だ。「どうぞ」、と背後にいる男を中に招き入れる。
「久しぶりですねえ、伊丹さん」
聞き覚えのある太い声が放たれたとき、伊丹は反射的に椅子を立っていた。
「その節はご期待に応えられず申し訳ありませんでした」
感情を排した口調で、伊丹は応じた。「ただ、あのときは私どもにも切羽詰まった事情というものがありまして………」
「オヤジは死んだよ」唐突に重田は、壁を見つめた渇いた声で告げた。
………。
「ウチには万が一のときのためオヤジが隠していた資産があって、そのカネで何をやろうかと考えていたとき、エンジン回りの会社が経営難になっていて、それを買収し、オレ流のやり方で立て直しを図ったんだ。リストラを断行し、社名を変え、社員の意識を変えた」
重田は詫びれずに言って、名刺を伊丹に渡した。
㈱ダイダロス 代表取締役 重田登志行
「ダイダロスは急成長を遂げ、新たな事業展開を探るステージにまで辿りついた。そして俺が次に目を付けたのがトランスミッション―――あんたの会社だ」
伊丹を真正面に見据え、重田は続けた。「覚えているかな。オレは以前、M&Aの仲介業者を使ってお宅に買収を提案したことがある。名前を名乗る前に、門前払いを喰らったがね」
………。
「こちらが重田社長からの買収条件案、その骨子です」
一枚の書類を滑らせて寄越した中川が、重田の代わりに読みはじめた。
「まず、一番目。買収は重田社長個人ではなく、法人名義の㈱ダイダロスによって行います。二番目。㈱ダイダロスは、ケーマシナリーの紛争とその賠償など、かかる費用の一切を負担する代わり、ギアゴースト全株式の無償譲渡を希望します。三番目。従業員の雇用は保証しません。不要な従業員には退職してもらいます。四番目。伊丹さんには社長を続投していただきます」
「どうだ、よい条件だろう」重田は自画自賛した。
だが、その書類にはどうしても首を縦に触れない一文があった。
従業員の雇用を保証しない、というくだりである。それを飲んだら、町工場の息子として生まれた自分のアイデンティティを踏みにじることになる。
断るべきだ。だが―――。
「検討しますので、時間をいただけますか」
自分でも驚いたことに、伊丹はそう告げていた。と同時に、父の言葉が胸に蘇る。
―――カネに縛られるほど、無様(ぶざま)なことはない。
伊丹の心に、たちまち、苦いものが滲み出た。
6.(伊丹は重田登志行からの買収話を島津には何故か内緒にする)
その日の夕方、思いつめた顔で戻ってきた伊丹に、島津は、話し合い、どうだったのと聞いた。
「ケーマシナリーとは交渉の余地なし」
「末長先生は何て言ってた」
「中川弁護士とは親しくも何ともないとさ」
「嘘だよね、それ」と眉を顰めた島津に、「ああ。嘘だな」
何事かを考えながら、伊丹の応えはどこか虚ろだった。
「見せたの、神谷先生からもらったあの記事」
「いや。結局、見せなかった。見せると手の内を明かすことになると思ったから」と言って、封筒を取り出した。
先日の神谷との面談時、帰り際に神谷から渡された封筒である。それは、ある雑誌に掲載された記事のコピーであった。
「ロービジネス」という業界誌に、一昨年、掲載された対談記事だ。見開きで大きく写真が掲載されているのは、右が中川京一、左に末長孝明というふたりの弁護士である。
司法修習生時代から親しい間柄で今も時々ゴルフゃ会食で親交を深めている様子が嬉々として語られているものだった。
「やっぱり、神谷先生に頼んだ方がいいんじゃないかな。この前のこと謝ってお願いすれば、引き受けてくれる気がする」
島津の言葉に、伊丹が返して寄越した言葉はあいまいな返事であった。
「何か迷っているの、伊丹くん?」
返事はない。
東京地方裁判所からの訴状が届いたのは、その2週間後のことであった。
7.(佃は、島津の副変速機に関連する特許化していない論文を探す)
遅く帰った娘の利菜が、佃の眼の前のテーブル一杯に広げられた論文や専門誌の山を見て感心するというより、呆れたような顔をして見せた。
「こんな論文をひっくり返して、また何か開発するの?」
佃は、「実は、何とか救いたい会社があってな」、と利菜に、神谷弁護士から聞いた話をして聞かせた。
佃がようやく一つの論文に行きついたのは、その数日後のことであった。
「第八章」に続く