スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

意図的ないい換え&共通概念の永遠性

2016-03-05 19:24:55 | 歌・小説
 私に対してKが自殺したと言わずに変死したと言ったことについて,Kが自殺したということが奥さんの認識のうちにはなかったという解釈はあり得ません。これは常識的に考えてもそうなのですが,テクストの他の部分からも断定できます。下五十一にはなぜKが自殺したのだろうとお嬢さんに尋ねられたという主旨の先生による記述があるからです。ということは考えられるのはただひとつ,もし変死したと言うことで私がKは自殺したと理解できると奥さんが考えていなかったとすれば,奥さんは何らかの意図があって自殺という語句を選ばずに変死という語にいい換えたのです。
                                    
 意図的にいい換えたと解する限り,それは自殺とは言えなかったからに違いないと僕は解します。ではなぜ言えなかったのか。それは言ってはいけないことだったからではないでしょうか。言ってはいけないことがあるということは,奥さんが私に対して前もって告白してあったことであり,Kが自殺したということがそれに該当するという可能性は否定できないと僕は思います。
 これより前のことになりますが,上十四の奥さんの呼びかけもこれと関連付けて解することができそうです。このときは確かにKについては語られていません。ですが先生がKについて語り出しそうだということは,襖を隔てた次の間で針仕事か何かをしていた奥さんには分かった筈です。私自身が,この話を奥さんが聞いていることは分かっていたと記述しているくらいですから,確かに奥さんは先生と私との会話を耳にしていたことでしょう。そのとき,何であるかは不明だけれども,先生が言ってはいけない何かを言ってしまいそうになったから,奥さんが先生に冷静さを取り戻させるために呼んだという読解は,テクストのその部分からは十分に成り立つものです。そして言ってはいけない何かというのが,Kが自殺したということだったという可能性も,完全に否定することはできないでしょう。

 共通概念が個物の本性を説明しないということが,直ちに共通概念は永遠の相の下での認識であるということに結びつくのは,以下の理由からです。
 ある人間Aが外部の物体Bによって共通概念Xを認識する場合,XはAの本性からもBの本性からも同じように必然的に流出する特質の概念notioです。このときその特質とXは同一個体である,少なくとも同一個体に類する関係にあると考える必要があります。Aの特質はAの本性から流出するのですから,第一部公理四により,Aの特質の十全な観念はAの本性の十全な観念に依存する必要があるからです。第二部定理七証明の意味は個物の認識に特化したものと考える必要があるかもしれませんが,その意味が共通概念にも妥当しなければならないという点では同じであると僕は考えます。
 この特質は現実的に存在しているAの身体の本性から流出します。そこでもしもこの特質がAの身体が持続を停止することによって消滅すると仮定してみましょう。もしAだけに注目するならこれはこれで真理だといえます。しかしこの特質はBの本性からも必然的に流出するのですから,Aの持続の停止と共に消滅する特質であると仮定することは,Aが持続を停止するとともにBも持続を停止すると主張していることにほかなりません。もちろんBに限らず,この特質を有しているすべての物体が,Aの持続の終了とともにその持続を終了すると主張していることになります。これが不条理な主張であるということはとくに説明する必要はないでしょう。とりわけ第二部定理三八の方で言及されている一般性の高い共通概念は,すべての物体の本性から流出する特質が存在するということを示します。これでみればある物体が持続を停止するとすべての物体も持続を停止すると主張しなければならなくなってしまいます。このために共通概念というのは,永遠の相の下での認識でなければならないのです。
 ここから分かるように,共通概念を思惟の様態としてみた場合には,永遠性を確保するのは第一部定理一六ではなく第二部定理三七でなければならないと僕は考えます。スピノザの証明もそうなっているといえます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする