スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

社会契約と契約&観念と表象

2016-03-07 19:13:21 | 哲学
 『神学・政治論』で政治理論に言及するとき,スピノザは社会契約をその理論の中心に据えていると僕は考えます。すでに『神学・政治論』のうちにも垣間見えますが,とくに『国家論』で実践政治に言及するとき,理論としての社会契約は後退している,もっといえば消滅しているように僕には思えます。なぜそうなっているのかはいろいろと考えられるところなのですが,僕は根底にあるのはごく単純なことではなかったかと考えています。
 一般に契約というのは,たとえばAとBが,各々の利益になると判断して交わす約束です。ですからそれが利益にならないと判断されたら,契約を継続する意味はなく,破棄することも可能です。社会契約も契約の一種なのだから,本来はこうしたものでなければならないとスピノザは考えていたと僕は推測しています。
 どんな人間であれ,それが自分の利益になると判断して社会契約を結んでいるわけではありません。たとえば僕は日本に産まれましたが,日本国家の主権者である国民と,自らの判断の下に社会契約を結んだわけではありませんし,それを僕自身の判断の下に破棄する権利を有しているわけではありません。こうしたことがどの国家のどの国民にも該当します。もちろん自然権を部分的に譲渡して社会契約を結ぶということ自体は,その人間の自然権の拡張をむしろ意味するのですから,その人間にとって好ましいことではあります。ですが自分で決めた契約ではない以上,政治理論上の概念としては有効であっても,政治の実践の場では役に立たないというようにスピノザは考えていたのではないだろうかというのが,僕の見解です。
 スピノザは社会契約といってもそれは絶対的なものではなく,その契約内容が国民全体の不利益になる場合には,国民にそれを破棄する権利があると考えていたふしがあるように思えます。この部分にも,スピノザは社会契約を普通の契約と同じようなものと理解していたと考える要素があると思えるのです。

 観念ideaは第二部定義三で定義が与えられています。それによれば観念は概念conceptusです。このことの意味は,観念は知覚perceptioすなわち精神の受動ではなく概念conceptusすなわち精神の能動であるということです。したがって観念と概念conceptusの間にどのような関係があるのかということも,明瞭になっているといえるでしょう。少なくともここでは考える必要はないといえます。ではスピノザがある思惟の様態を観念と記述する場合と概念notioと記述する場合にはどういう相違があると考えるべきなのでしょうか。
 このことを深く論考した思想家に柄谷行人がいます。いくつかの著作に収録されているものかもしれませんが,ここでは『探求Ⅱ』の第三章の「観念と表象」を参照します。『群像』に連載されたもののひとつとあります。
                                     
 この論考で柄谷は,観念と概念が混同されているので,それを正そうとする意図がスピノザにはあったとみています。柄谷は説明していませんが,ここでいわれている概念はnotioの方を指します。哲学史的には,概念notioが万人に通用する同一性であり,観念は個人の精神のうちに発生するものなので,各人によって異なる思惟の様態であると考えれていました。たとえば個々の人間の観念から人間という一般的な概念notioが抽出されるという具合にです。柄谷はこの文脈の中で,アリストテレスがいう神というのはこうした一般的な概念notioであったと指摘しています。この指摘の正否は僕には分かりませんが,このような方法で観念と概念notioを区別することは,紀元前からあった歴史的な区分であったといえるでしょう。
 これに対してスピノザは,概念notioの方を表象すなわち混乱したもの,偽なるものに属するものと考え,観念こそが十全なもの,真なるものと考えることによって,歴史的な考え方を転倒させたと柄谷は考えているようです。史的なことは僕には何ともいえませんが,スピノザの考え方の説明としては正しいと思います。特殊性と一般性に関するスピノザの理解は,確かにそのようなものであったと解せるからです。
コメント
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