スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王将戦&誤謬の規準

2016-03-19 19:20:00 | 将棋
 仙石原で指された第65期王将戦七番勝負第六局。
 羽生善治名人の先手で相矢倉。先手の早囲い。この戦型は先手が主導権は握りやすいのですが,玉は先手の方が薄いので,戦いで明確なポイントを奪えないと先手の方が勝ちにくいように思います。
                                    
 先手が▲3五歩と突いて攻めの継続を図ったのに対して後手の郷田真隆王将が△6五歩と打って反撃の構えをみせた局面。すでに先手の方がやり過ぎていて苦しいのかもしれません。
 ▲3四歩△同銀▲3五歩△4五銀▲5七桂と進めました。先手は1五に銀が出るのが狙いのひとつの筈で,そのために後手玉を2三に誘っておいたと思われます。その意図からするとこの手順は曲線的で,変調のように思えました。
 △6六歩▲同金の交換を入れてから△3六銀と逃げたところで先手はようやく▲1五銀。受け方はいくつかあると思いますが実戦の△2七銀打は最も強い指し方だと思います。後手はこの時点である程度の目算が立っていたのではないでしょうか。
 ▲同飛△同銀成と切って▲5二銀と打っていったのはここでは仕方なかったように思います。ただ△6四飛▲同銀成としてから△3三金寄と逃げられるので,後手としてもそんなに怖い順ではなかったのではないでしょうか。
 ▲4一銀不成△3一金と進めるのは打った銀を遊ばせないために当然。そして▲2五歩と玉頭からの攻めを繋ごうとしました。
 ここで後手は△3八飛と反撃。先手は▲2四銀と出たものの△1二王と逃げられ,どうもこれで後手よりも早い攻めが消えているようです。
                                    
 第2図から▲7二飛と打ったのも打ち場所としてはよくなかったのかもしれません。ただ,3三の金を取ってそれを受けに使って粘る展開になっていますから,どちらにしてもここでは後手が優勢といえそうです。
 郷田王将が4勝2敗で防衛第64期に続く連覇で2期目の王将位です。

 虚偽と誤謬のうち,誤謬はそれ自体で否定してもいいけれども虚偽については全面的に否定する必要はないと僕が考えるもうひとつの根拠は,スピノザが第二部定理一七備考で述べていることと関係します。関係するというより,これはこのことの説明そのものであるとさえいえるでしょう。
 ここでスピノザがいっているのは,精神がある事物を表象するとき,いい換えれば混乱して認識するとき,もし同時にそれが表象であるということ,すなわちそれが混乱した観念であるということを知っているならば,精神にとって事物を表象すること,つまり混乱して認識することは,欠点であるどころか長所であるということです。要するにこのブログの用語に適うようにいうなら,精神の現実的有の一部がある虚偽によって構成されているときに,その精神がそれを虚偽であると知っているなら,虚偽が精神の現実的有を構成し得るということ自体が,その精神にとっての長所であるとスピノザは主張しているのです。
 もちろんスピノザは,単に虚偽が精神の現実的有の一部を組織することを長所とみなしているのではありません。それを虚偽であると知っているという条件の下に長所といっているのです。ですからもしも精神がそれを虚偽と知ることが不可能であると仮定したら,これは精神の欠点以外の何物でもないことになります。これを僕は誤謬といっているのですから,僕は誤謬については全面的に否定します。
 一方,スピノザは虚偽であるということを知っているだけで,それはその虚偽を認識する精神の長所であるといっているのであって,それがどのような虚偽であるのか,いい換えれば第二部定理三五にいわれている認識の不足が具体的にどのような不足を意味するのかを知っているかどうかを,混乱した認識の長所の規準とはしていません。だから僕は認識の不足が何であるのかを知っているということを精神が誤謬を犯していることの規準とはせずに,何であるか具体的には分からなくても何らかの認識の不足があるということ,つまりそれがどんな虚偽かは分からなくても確かに虚偽であることを知っているということを誤謬の規準に据えるのです。
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