スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

たちあおい賞争奪戦&永遠性の根拠

2016-03-01 19:09:50 | 競輪
 静岡記念の決勝。並びは早坂‐小野の北日本,片寄‐根田の南関東に神山‐磯田の栃木,竹内‐南の中部近畿で吉本は単騎。
 早坂がスタートを取ってそのまま前受け。3番手に竹内,5番手に片寄,最後尾に吉本で周回。残り3周のバックを通過すると片寄が上昇。吉本は続かず磯田までの4人でホームで早坂を抑えました。このまま片寄がスピードを緩めなかったので5番手に早坂,7番手に竹内,最後尾に吉本の一列棒状でバックから打鐘を通過。ここから竹内が発進。ホームで根田が番手捲りで応戦すると隊列に乱れが生じ,根田の後ろに竹内が嵌り,その後ろに神山。南も磯田もそれぞれ離れたため,バックでは前の3人が後ろに差をつけました。直線は根田の外にいった竹内と根田の間を突いた神山が伸びて優勝。粘った根田が半車身差で2着。展開的には有利になった竹内は,前に追い上げるときに脚を使い過ぎていたようで思いのほか伸びず,離れた南の後ろから自力で捲り追い込んだ吉本が4分の1車輪差の3着。
                                    
 優勝した栃木の神山雄一郎選手は昨年4月の共同通信社杯以来のグレード制覇。記念競輪は一昨年12月の広島記念以来で通算99勝目。静岡記念は現行制度以前に2度の優勝があり3勝目。1999年の日本選手権を当地で勝っています。僕は公式サイトのメールマガジンを登録していて,それで前日に並びを確認しているのですが,昨夜はそれを読んで意外に思いました。まず,片寄が前で根田がマークするというのが謎で,さらにメンバー的には早坂の先行と思えただけに,北日本追走を選択できた筈の栃木勢が南関東マークを選んだのも謎でした。二段駆けは競輪の常套手段で,この並びだとそれも十分に推測できたものの,地元の片寄が死に駆けするかどうかは半信半疑だったのです。結果的に推測した通りのレースになったのですが,この展開を誘発するように南関東の後ろを選んだヘッドワークが神山の最大の勝因であったといえるのではないでしょうか。あと1勝はぜひ達成してもらいたいです。

 それが神の無限知性のうちにあるとみられる場合には,共通概念は永遠であると考えなければなりません。無限知性とは思惟の属性の直接無限様態なのですから,第一部定理二一からそれは永遠であることになり,無限知性に含まれるすべての観念は永遠であるといわれなければならないからです。
 第二部定理一一系から,現実的に存在する人間の精神も無限知性の一部を構成するのですから,その人間の精神のうちに共通概念が存在する場合,というより第二部定理三八系からそれは必然的に存在するのですが,この共通概念は神の無限知性のうちにある共通概念と同一の形相でなければなりません。現実的に存在する人間の精神のうちにある共通概念ならびに共通概念による認識である理性的な認識によって生じる観念が永遠なものであると解するための根拠は,ここにしか求められないであろうと僕は考えます。
 ですが上述の説明は,単に無限知性のうちにあるどんな観念も永遠であるということと,人間の精神のうちにある十全な観念は,形相としてみれば無限知性のうちにある観念と同一であるということだけを説明しているのであって,後者が永遠であるということの確かな説明にはなっていません。無限な観念を有する神のうちにある観念はどれも永遠であるといわなければならないでしょうが,現実的に存在するある人間の精神の本性を構成する限りでの神のうちで十全である観念が永遠であることにはならないからです。
 『異端の系譜』でヨベルが示していたように,それについての解釈はスピノザの哲学の理解にとっての難問のひとつではありますが,僕は個物の本性にはその個物が持続するものであるということが含まれているという立場なので,なおさらこのふたつのことを単に観念の形相の同一性を根拠として同一であるとみなし難いのです。その本性に持続するということが含まれているものの本性を構成する限りでの神のうちに,永遠であるといわれるような観念が含まれるということは,矛盾を含んでいるように思えるからです。もちろん持続というのは第二部定義五にあるように,無限定な継続ですが,無限定な持続と永遠は異なるものだからです。
コメント
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