今年の寛仁親王牌の決勝は一昨日。やはり東高西低の傾向は覆らず,西はひとりだけというメンバー構成になりました。
新田選手がSを取り,そのまま前受け。福島4車の後ろに渡部選手,小橋選手と入り,平原選手が7番手,手島選手が最後尾という周回。
平原選手は残り3周のホームに入る前という早い段階から上昇,ホームでは新田選手に並びましたが,新田選手は突っ張り,結局周回と同じ隊列に戻って残り2周のホームに。ここで平原選手が再度上昇しましたが,そのまま打鐘から新田選手が先行。5番手渡部選手の後ろに飯島選手が入ってほぼ一列棒状。バックから渡部選手が捲っていきましたが,車間を開けて牽制していた山崎選手が合わせて番手捲り。そのまま後続を寄せつけずに優勝。きちんとつけた岡部選手が2着に入り,渡部選手が3着でした。
優勝した福島の山崎芳仁選手は5月の平塚記念以来の優勝。ビッグは昨年12月の全日本選抜以来で,GⅠは4勝目,特別競輪は7勝目。ここはしかし新田選手の頑張りです。前を取ってそのまま突っ張って逃げたので,小橋選手も手島選手も何もできませんでした。最も力のある選手が無風で番手を回っては,ほかの選手では太刀打ちできないでしょう。
有esseとは実在的realiterであるもの,あるいは実在性realitasを有するもののことであり,無とはこれに反して実在的でないもの,一切の実在性を有しないもののことです。そこで有とは,その原因causaが与えられれば必然的にnecessario存在するものであり,逆に無とは,どんなことが与えられようとも,実在することが不可能なものであるということになります。スピノザは必然と不可能を対置しますが,この関係が有と無との関係にも成立しているということが分かります。
そこで,観念ideaというのをたとえば人間の精神mens humanaのような,ある有限なfinitum知性intellectusのうちにのみあると考える限りで,十全な観念idea adaequataというのが何らかの実在性を有する観念であり,これに反して混乱した観念idea inadaequataというのが一切の実在性をもたないような観念のことであるとすれば,十全な観念と混乱した観念との関係は,この限りにおいて有と無の関係にあるということが理解できると思います。
よって,これもまたあくまでも人間の精神のような有限な知性のうちでということになりますが,そこに十全な観念があるというのは,思惟の様態cogitandi modiとして有であるとみなし得るものがあるという意味であって,混乱した観念があるというのは,思惟の様態としては有とはみなし得ないようなものがあるということになります。本来は非実在的なもの,すなわち無があるというのは変ないい方ですが,ここでは便宜的にこのようにいっておきます。
この有と無という関係が,4つの意味のうちの第二の意味と第三の意味が成立するということの根拠になるのですが,ここにはまだ解明されなければならない問題というのが潜んでいますので,先にそちらを考えておくということにします。
新田選手がSを取り,そのまま前受け。福島4車の後ろに渡部選手,小橋選手と入り,平原選手が7番手,手島選手が最後尾という周回。
平原選手は残り3周のホームに入る前という早い段階から上昇,ホームでは新田選手に並びましたが,新田選手は突っ張り,結局周回と同じ隊列に戻って残り2周のホームに。ここで平原選手が再度上昇しましたが,そのまま打鐘から新田選手が先行。5番手渡部選手の後ろに飯島選手が入ってほぼ一列棒状。バックから渡部選手が捲っていきましたが,車間を開けて牽制していた山崎選手が合わせて番手捲り。そのまま後続を寄せつけずに優勝。きちんとつけた岡部選手が2着に入り,渡部選手が3着でした。
優勝した福島の山崎芳仁選手は5月の平塚記念以来の優勝。ビッグは昨年12月の全日本選抜以来で,GⅠは4勝目,特別競輪は7勝目。ここはしかし新田選手の頑張りです。前を取ってそのまま突っ張って逃げたので,小橋選手も手島選手も何もできませんでした。最も力のある選手が無風で番手を回っては,ほかの選手では太刀打ちできないでしょう。
有esseとは実在的realiterであるもの,あるいは実在性realitasを有するもののことであり,無とはこれに反して実在的でないもの,一切の実在性を有しないもののことです。そこで有とは,その原因causaが与えられれば必然的にnecessario存在するものであり,逆に無とは,どんなことが与えられようとも,実在することが不可能なものであるということになります。スピノザは必然と不可能を対置しますが,この関係が有と無との関係にも成立しているということが分かります。
そこで,観念ideaというのをたとえば人間の精神mens humanaのような,ある有限なfinitum知性intellectusのうちにのみあると考える限りで,十全な観念idea adaequataというのが何らかの実在性を有する観念であり,これに反して混乱した観念idea inadaequataというのが一切の実在性をもたないような観念のことであるとすれば,十全な観念と混乱した観念との関係は,この限りにおいて有と無の関係にあるということが理解できると思います。
よって,これもまたあくまでも人間の精神のような有限な知性のうちでということになりますが,そこに十全な観念があるというのは,思惟の様態cogitandi modiとして有であるとみなし得るものがあるという意味であって,混乱した観念があるというのは,思惟の様態としては有とはみなし得ないようなものがあるということになります。本来は非実在的なもの,すなわち無があるというのは変ないい方ですが,ここでは便宜的にこのようにいっておきます。
この有と無という関係が,4つの意味のうちの第二の意味と第三の意味が成立するということの根拠になるのですが,ここにはまだ解明されなければならない問題というのが潜んでいますので,先にそちらを考えておくということにします。