スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

女流王位戦&第二部定理三五備考の意味

2016-03-18 19:35:10 | 将棋
 第27期女流王位戦挑戦者決定戦。対戦成績は清水市代女流六段が13勝,岩根忍女流三段が4勝。清水六段の13勝には岩根三段のプロ入り前の1勝が含まれます。
 振駒で清水六段の先手に決まり岩根三段のノーマル三間飛車。先手の天守閣美濃に後手の美濃囲い。中盤は後手が少しやり過ぎたのかもしれませんが,先手の玉頭への攻めを絡めて優勢に。しかし終盤で明快な決め手を逃してしまったために混戦の最終盤にになりました。
                                    
 先手が詰めろを逃れるために5五の桂馬を角で取り,それを後手が取り返した局面。
 ▲6四桂と王手金取りに打ちましたが,ここは▲8八歩と受けに回る手もあり,その方がよかったかもしれません。ただ王手ですから△7一玉と逃げる一手で,悪くしたというわけではないと思います。
 次に▲5八歩と受けましたが,これは明快な敗着。受けるなら▲8八歩でなければなりませんでした。それなら後手も△7八銀と打つほかなかった筈ですが,この場合には△5九銀と詰めろで飛車取りに打つ手が生じてしまったからです。
                                    
 岩根三段が勝って挑戦者に。タイトル戦は2010年の倉敷藤花戦以来の3度目で初のタイトル獲得を目指すことになります。第一局は5月12日です。

 第二部定理三五備考の抜粋した部分でスピノザが主張しているのは次のことであると僕は解します。
 人間が太陽を表象するとき,この表象像は太陽の十全な観念ではありません。したがって第一部公理六によりそれは現実的に存在している太陽と一致しません。つまり太陽の本性を十全に表現することはありません。ですがこの観念が太陽の本性をまったく表現しないのかといえばそうではありません。この観念はある条件の下に,すなわち自分の身体が太陽から刺激されるという条件の下で,太陽の本性を表現しているのです。
 第二部定理一六系二が示しているのは,この観念は対象というべき太陽よりも,条件となっている自分の身体の状態をより多く表現しているということです。でもたとえ自分の身体の状態の方が多く表現されているといっても,太陽の本性を表現していないというわけではありません。すなわち太陽の表象像は,太陽の本性を十全には説明することができない思惟の様態ではあるけれども,太陽の本性をいくらかは含んでいる思惟の様態であることになります。
 僕はこうしたことが混乱した観念のすべてに妥当すると考えます。また,概念notioというのが,個々の観念から抽出された一般性を対象とする思惟の様態であるなら,このことが概念notioにも妥当する筈だと考えます。つまり混乱した思惟の様態というのは,一般にその思惟の様態の対象となっているものの本性を正しく説明する様態ではないけれども,その対象となっているものの本性を含んでいると解するのです。よって単に人間精神のうちにこうした混乱した思惟の様態いい換えれば虚偽が存在するということは,全面的には否定しなくてよいと考えるのです。ただ,繰り返しになりますが,それは虚偽であるという以上,それ自体では肯定的に評価することはできません。この観念は神がその人間の精神の本性を構成するとともに太陽の観念を有する限りにおいては十全であるといわなければなりませんが,あくまでもその人間の精神のうちにある場合には混乱しているのであり,この精神は太陽の表象像に含まれる認識の不足を補う術をもってはいないからです。
コメント
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