昨日の向日町記念の決勝。並びは新田-飯野-芦沢-勝瀬で東日本,稲垣-村上-吉田の近畿中部,岩津-小倉の瀬戸内。
稲垣がスタートを取って前受け。4番手に岩津,6番手から新田で周回。残り3周のバックから新田が上昇。ホームで稲垣を抑えにいきましたが,稲垣は下げず,飯野の内で番手戦。バックで岩津が小倉を連れて新田の前に出て打鐘。番手戦は決着せず,新田も駆けずで,残り1周付近から岩津の成り行き先行に。このスピードに乗じて新田もようやく発進。岩津は自力選手ではありませんからこうなればスピードが違い過ぎ,バック出口過ぎでは岩津を飲み込み,2車身差の圧勝。飯野も稲垣も新田を追えず,自力に転じた芦沢が2着。混戦を抜け出し大外を伸びた村上が半車輪差で3着。
優勝した福島の新田祐大選手は前回出走のオールスター競輪から連続優勝。記念競輪は昨年9月の青森記念以来で通算5勝目。向日町記念は初優勝。ラインは関係なしに自分が勝つということだけ考えれば,願ってもない展開になりました。ただ,こういう展開になるのは相手が普通に戦っては勝てないと判断するからです。いわば脚を使う以前に相手を恐れさせているということで,こういう状況が続くようだと,しばらくは1着が多くなりそうです。
聖書の記述にはそぐわない面を含みますが,僕の考えを分かりやすく示すために,単純化して説明します。
民衆が神の「しるし」を求めたとき,それが確かに「しるし」であると最も納得できるのは,いわゆる奇蹟というものでした。つまり神は奇蹟を生じさせることで,民衆から確かに神であると認められたということになります。そこでこの「しるし」というのが特徴であるとすれば,神が神であることの特徴が奇蹟によって示されるということになります。そしてこれは,神が神であることの真理性が奇蹟を通じて担保されるといっているのと同じことです。
この場合,奇蹟というのが内的特徴であるのか外的特徴であるのかと問うなら,それは外的特徴であるとしかいいようがありません。したがって,一般に「しるし」といえばそれは外的特徴を意味するのであって,内的特徴は「しるし」にはなり得ないと判断されていたといってよいでしょう。
これに対してスピノザは,真理の真理性は内的特徴によって担保されると主張したのです。つまり神が神であることの真理性は神が奇蹟を起こすことによって証明されるものではなく,第一部定義六に示されている事柄が知性のうちに十全な形相で実在するときに神の観念の真理性が確保されると主張したことになります。もちろんこの神の観念の真理性というのは,第一部公理六により,神の真理性と同じことです。
「しるし」を外的特徴であると判断する点では,僕はアルベルトもステノも一致していたと考えています。そしてこのふたりに限らず,「しるし」が外的なものによって確保されると判断していた人にとって,真理の真理性が内的特徴によって確保されるというスピノザの主張は,真理の真理性を特徴づけるものは何もないという主張と同じであると思えたのではないかと僕は推測するのです。「しるし」が外的特徴のみを意味する限り,スピノザのいう真理性には何も「しるし」がないのは,僕にも確かであると思えます。
なお,この種の真理観は,哲学の方法論一般とも関係します。僕はここでは詳述しませんが,『スピノザの方法』には関連する記述が含まれています。
稲垣がスタートを取って前受け。4番手に岩津,6番手から新田で周回。残り3周のバックから新田が上昇。ホームで稲垣を抑えにいきましたが,稲垣は下げず,飯野の内で番手戦。バックで岩津が小倉を連れて新田の前に出て打鐘。番手戦は決着せず,新田も駆けずで,残り1周付近から岩津の成り行き先行に。このスピードに乗じて新田もようやく発進。岩津は自力選手ではありませんからこうなればスピードが違い過ぎ,バック出口過ぎでは岩津を飲み込み,2車身差の圧勝。飯野も稲垣も新田を追えず,自力に転じた芦沢が2着。混戦を抜け出し大外を伸びた村上が半車輪差で3着。
優勝した福島の新田祐大選手は前回出走のオールスター競輪から連続優勝。記念競輪は昨年9月の青森記念以来で通算5勝目。向日町記念は初優勝。ラインは関係なしに自分が勝つということだけ考えれば,願ってもない展開になりました。ただ,こういう展開になるのは相手が普通に戦っては勝てないと判断するからです。いわば脚を使う以前に相手を恐れさせているということで,こういう状況が続くようだと,しばらくは1着が多くなりそうです。
聖書の記述にはそぐわない面を含みますが,僕の考えを分かりやすく示すために,単純化して説明します。
民衆が神の「しるし」を求めたとき,それが確かに「しるし」であると最も納得できるのは,いわゆる奇蹟というものでした。つまり神は奇蹟を生じさせることで,民衆から確かに神であると認められたということになります。そこでこの「しるし」というのが特徴であるとすれば,神が神であることの特徴が奇蹟によって示されるということになります。そしてこれは,神が神であることの真理性が奇蹟を通じて担保されるといっているのと同じことです。
この場合,奇蹟というのが内的特徴であるのか外的特徴であるのかと問うなら,それは外的特徴であるとしかいいようがありません。したがって,一般に「しるし」といえばそれは外的特徴を意味するのであって,内的特徴は「しるし」にはなり得ないと判断されていたといってよいでしょう。
これに対してスピノザは,真理の真理性は内的特徴によって担保されると主張したのです。つまり神が神であることの真理性は神が奇蹟を起こすことによって証明されるものではなく,第一部定義六に示されている事柄が知性のうちに十全な形相で実在するときに神の観念の真理性が確保されると主張したことになります。もちろんこの神の観念の真理性というのは,第一部公理六により,神の真理性と同じことです。
「しるし」を外的特徴であると判断する点では,僕はアルベルトもステノも一致していたと考えています。そしてこのふたりに限らず,「しるし」が外的なものによって確保されると判断していた人にとって,真理の真理性が内的特徴によって確保されるというスピノザの主張は,真理の真理性を特徴づけるものは何もないという主張と同じであると思えたのではないかと僕は推測するのです。「しるし」が外的特徴のみを意味する限り,スピノザのいう真理性には何も「しるし」がないのは,僕にも確かであると思えます。
なお,この種の真理観は,哲学の方法論一般とも関係します。僕はここでは詳述しませんが,『スピノザの方法』には関連する記述が含まれています。