津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

遠藤周作

2006-03-18 09:32:34 | 書籍・読書
 最近立て続けに、遠藤周作の「鉄の首枷・小西行長伝」「沈黙」を読んだ。私の遠藤周作への入り込みは、突拍子もないユーモアにあふれたエッセーからだ。ウオッシュレットのトイレが珍しかった頃、トイレに入ったお客が、飛び出す温水に吃驚して驚くのを、にやりとほくそえんで喜んだという、そんな話が最初だった。佐藤愛子とか北杜夫とかの交遊を通しての話も面白く、好きな作家の一人となった。ところが小説のほうは硬い。エッセーとは別人ではないかとさえ思わせる。二作品とも「切支丹」が主人公である。緻密な資料収集によって成された作品であることがよく理解できる。熊本に係りある小西行長について、私はまったくの知識をもっていなかったが、この「鉄の首枷」や巻末の年表によって、行長像は固まってしまった。

 ブックオフに出かけて、エッセーを見つけて又読んでみたい衝動に駆られている。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オン・ザ・ロック

2006-03-17 22:31:18 | 徒然
 私の晩酌は寝酒に近い。早々と飲み始めると、量を過してしまうからである。最近はもっぱら、焼酎のお湯割だけれど、時折オン・ザ・ロックということもある。誕生祝いに娘夫婦からもらった、ワインなどは一度には飲めないから、三日ほどで戴くことになる。お酒は「上善如水」の愛好者である。これは口に柔らかでどれだけでもいけるから・・・余り飲まない。私のお酒修行は、サントリーの「赤」から始まり、「白」「角」「だるま」と進化した。そのあたりでお酒に変わったような気がする。悪友に誘われて、屋台や、路地裏の汚い店で「角うち」で飲んだりした。建築業界が景気良かったある年の十二月は、忘年会22回というのを経験したことがある。さすがに胃潰瘍になってしまった。

 ある店で「オン・ザ・ロック(飲み方)を、日本に持ち込んだのは誰だと思う」という会話が遠くから聞こえる。若い女の子たちが「そんな人知らないわ」とか、答えていた。
教えを乞いに出向きたい衝動に駆られながら果たせず、それっきり忘れていた。

 数年後、山口瞳氏のエッセー「酒飲みの自己弁護」から答えが得られた。昭和20年代の終わり頃、水原円裕なる人が持ち込んだという。
水原円裕・・・「そりゃ誰だ?」又数年経過した。読売巨人軍の名将水原茂氏が、一時期円裕と名乗っていたらしいことを知った。「水原さんか、あのダンディーな水原さんなら納得だなー」
 水原さんは、銀座のバーで「オン・ザ・ロックで」と注文したそうな。バーテンの誰もが知らなかったという。「ショーチュー・オン・ザ・ロック」を準備するとこの話を思い出す。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神戸海軍操錬所

2006-03-16 22:02:45 | 歴史
 勝海舟は「氷川清話」の中で、横井小楠を「長崎ではじめて会ったときから、途方もない聡明な人だと、心中多いに敬服して・・・」と書いている。手元の資料ではその日時の特定は出来ない。元治元年(1864)海舟の肝煎りで神戸海軍操錬所が設けられ、肥後藩士横井忠平、同左平太、岩尾内蔵允、川瀬典次、末松覚兵衛、大谷徳次郎が入所している。いずれも所謂実学党の面々である。うち横井左平太、同忠平、岩尾内蔵之助(ママ)は「勝安房(海舟)家来」の扱いを受けている。このことは、平尾道夫氏の「海援隊始末記」によると、「(坂本)龍馬の同志のものはすべて海舟の家来としてとりつくろい・・・」観光丸乗組員として、月一両を支給される「お雇手伝」と成っている。ところが、僅か数ヵ月後海舟の失脚によりご破算となってしまった。小楠と海舟・龍馬の強い結びつきが伺える。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天地間無用の人物

2006-03-15 22:36:28 | 徒然
 上田久兵衛は体躯大なるひとであったらしい。京都留守居役として、幕末の京都を駆け回り、朝幕融和に走り回った。僅か一年数ヶ月のことである。実学党が声を上げた「肥大なること豚の如くして、天地間無用の人物」と。横井小楠は大変口の悪い人であったと言うから、案外出所はその辺りかも知れない。この「天地間無用の人物」と云う言葉は、旗本成島柳北が、幕府の要職から身をひくに当たって、自らをそう称したらしい。東京情報大学助教授、乾照夫氏の「成島柳北と東京珍聞」に詳しい。久兵衛は笑って相手にしなかったというが、出所を承知していたのかもしれない。流行り言葉であったかも知れない。もしそうであれば、迫力のないお粗末な話である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浅野内匠頭さま刃傷

2006-03-14 23:59:10 | 徒然
 新暦・旧暦の違いを感じさせる三月十四日、内匠頭の切腹の日は櫻がはらはらと散るような日であったと言うのに・・・寒い・さむい 遠望する阿蘇の山は雪に被われて、白く輝いている。市内も昨日は三月の忘れ雪、一月生まれの小生も振るい上がってしまった。
若しあの日が、櫻ならぬ雪が舞い降りるような日であったなら、内匠頭も逆上することなく、なんとかお役目を勤め上げることが出来たのでは、などと考えてしまう。
この寒さでは、泉岳寺のお参りの人たちも、少々出足が鈍かったのではないか。 
遠く熊本から合掌
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野蒜とか・・・

2006-03-13 23:56:38 | 熊本
 「のびるのぐるぐる」「ひともじのぐるぐる」・・・・これは熊本人にしか分らないだろう。「のびる」とか「ひともじ」を茹でて、3㎝くらいの長さで折りたたみ、最後はぐるぐると巻きつける。これを、酢味噌などでいただく、酒の肴である。

 ある方の句に  野蒜掘る今宵の酒をたのしみて  というのがある。

何でも万葉の時代からの生き残りフードらしい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

興秋係累の憂鬱

2006-03-12 12:00:13 | 歴史
 元和二年(1616)父忠興の命により興秋は自裁する。33歳。錩(なべ)という一人の女子があった。判官贔屓で、その行く末が気になって仕方がない。生母氏家元政女は、興秋自裁後飛鳥井中納言持信に再嫁している。錩は南條元信に嫁す(後妻)こととなるが、生母の再嫁はその後のことであろう。これら一連の興秋遺族の行く末には、忠利も大いなる関心を払ったと考えられる。興秋自裁の大元を辿ると、興秋の忠利に替わっての証人問題が発端となっているからだ。

 忠利の死の一ト月前寛永十八年(1641)二月、末子勝千代が生まれた。生母は不詳と家記は記す。次の藩主となった光尚は、三歳になった勝千代を南條元信・錩夫妻の許に養子に出す。錩にとって勝千代の養育は生きがいであったろう。長じて元信の女・伊千(米田是長室)の女吟と結婚、長岡の姓を賜り、長岡元知と名乗り家老職(5000石)となった。

 寛文九年(1969)、陽明学を研鑚学習してきた藩士十九人が、追放される事件が起きた。幕府が陽明学を「異学」としたためである。時の藩主は綱利、長岡元知にとっては甥に当たる。綱利の処分に対して譴諫し永蟄居を申し付けられた。元知29歳、綱利27歳であった。元禄十年(1697)綱利から頭巾が贈られた。これをもって処分が解かれたとされている。元知の正義心が、その生涯をあたら棒に振ってしまった。三十数年の閉居は異常に思える。綱利にとっても、興秋遺族は扱いにくい存在だったのかも知れない。

 米田(長岡)是長には継嗣がなかった。長岡元知・吟の嫡子是庸が米田家を相続することが、藩庁より申し渡される。是庸の将来を慮ってのことかも知れない。

 話は遡る。南條元信についてである。家督を元知に譲った後、奇異な振る舞いが、数多く見られるようになったと伝えられている。切支丹の疑いも掛けられ、元知が蟄居を申し付けられた寛永九年、長崎奉行所に召還されている。嫌疑は晴れたが再び肥後に還され、竹之丸質屋(牢)に入れられた。

 錩の心情を考えると誠に憐れである。父は自裁し、母とは別離させられた。養嗣子元知は不遇な生涯を強いられ、夫たる南條元信は晩節を汚した。孫・是庸が米田家を相続することにより、名門南條家は絶家することと成る。錩は没後、米田家菩提寺見性寺に葬られ、名家米田一族の人々と共にある。もって瞑すべし・・・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これでいいのか 乞う・読み方

2006-03-11 18:46:28 | 徒然
 「侍帳」を編集しながら、読み方にとまどう事がある。例えば「余田」という姓があるが、「よだ」とばかり思っていたら、大叔母の便りで「よでん」と読むことを教えられて唖然とした。ある文書を読んでいたら「余田・余傳」とあり証明された。「朽木」氏は「くつき」だろうし、「波々伯部」氏は「ほうかべ」だろうと理解しているが・・・。赤穂義士・堀部弥兵衛を介錯した米良氏は、「めら」「まいら」などと解釈が異なっていたが、これは「めら」で間違いないようだ。分らないものがいろいろある。例えば「神西」氏、「細川家家臣略歴」では「ち」の項にあるから、「神」は「ち+‘」=「じん」なのだろう。「じんせい」と書かれているものを見たことが有る、如何?。「町」氏は長曽我部氏の子孫で「ちょう」らしい。「越生」「神鷹」「樹下」など、正確な読みに自信がもてない。お叱りを頂戴することが続くことだろう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大名の過去は野に伏し山に伏し

2006-03-11 14:34:48 | 徒然
 かって、会社の応接室などには喫煙三点セットが置かれていたものだ。灰皿・ライター・そして煙草が入れられた器があった。明治も初期の頃の話だろう、H侯爵が明治天皇に拝謁するにあたり、陛下をお待ちする間一服していた。目の前の煙草を入れた器から、煙草を無断拝領におよび懐中したらしい。ちょうどその時陛下がお出ましになり、事の次第はお見通しである。笑いながら陛下が言われた。
「H、出自は争えぬのー」

 大名と言わず、維新後爵位を頂戴した人たちには、少なからず当てはまる話なのだろう。H家の至鎮は、徳川家康の養女(実・小笠原秀政女)を室としているから、細川忠利とは相壻の関係にある。当然東軍に参じて大坂の陣を戦い、その功により阿波徳島藩主となった。(H氏と伏せる必要はなかったか・・) 初代はともかく、徳川の血もはいり明治までの250年ほどを過し来たものを、「無断煙草拝領」で、明治天皇に古傷を触られてしまった。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久美浜という所

2006-03-10 12:35:57 | 徒然
 久美浜原発問題は、関電の計画撤退で幕を閉じそうだ。原発街道とも揶揄される若狭湾沿いから、その道筋が久美浜へ伸びる事は止められた。久美浜は松井氏にとって由緒ある土地である。松井氏の根本家臣をみると、久美浜で召し出された人が数多く見られる。細川家に於ける「青龍寺以来」に匹敵するもので、細川の戦いの大きな戦力であった。松井家は天正九年久美浜に入ったというから、豊前に入る二十数年前である。松井水軍はここで誕生したのだろう。松井康之の嫡男與八郎興之のお墓などが残されている。久美浜は地図を見たばかりで、風光明媚な土地であろうことが伺える。原発が来なくて良かった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

与(あたえ)勇樹氏の世界

2006-03-09 14:10:50 | 徒然
 昼食後「徹子の部屋」を見ていたら、人形作家与勇樹さんが今日のゲスト、失礼ながら私は存じ上げなかった。紹介される作品を見て、TVのまえから動けなくなった。髷姿の子供達が、歌ったり、日向ぼっこをしたりしている。豊かな表情とともに、接ぎがあたった着物や、足元の草履や、手元の箒などみな手作りだと言う。外国の展覧会で、食い入るように見つめる展観者も、異国の文化に固唾を飲んでいる様子だ。なんという素晴らしさ、妻と二人約三十分身動きもせず拝見した。地方でも展観の機会はないものだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

資料

2006-03-09 00:43:16 | 徒然
 有り難い事にあちこちから、いろんな資料を送っていただく。冊子であったり、史料のコピーであったり、またメールで画像を送っていただいたりする。最近その量が増えて、その管理に頭を悩ませている。私は資料を取り出して、ちゃんと元に戻すという事がない。その内に行方が分らなくなり、周辺を大事して整理するという悪循環になる。先祖附のコピーも段々増えてくる。掃除もままならない状態で、わが部屋は女房殿の手が入ることはない。PCもデーターの入れすぎで随分重くなった。なんとかしなくちゃ・・・頭が痛い。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いきなり団子

2006-03-07 18:45:47 | 熊本
 アニメ「ケロロ軍曹」の原作者吉崎観音氏は熊本生まれ、郷土愛に溢れた方らしく、ケロロ軍曹の好物に、熊本名物の「いきなり団子」を登場させてくれた。東京の「銀座熊本館」あたりで、ケロロいきなり団子が受けて売れているらしい。「いきなり団子」とは、からいも(さつま芋)を小麦粉の衣で被せ蒸したものである。急なお客があっても短時間に拵えることが出来るから、この名がついた。いきなり出来る団子である。ちなみに地元では、「いきなりだご(団子)」という。最近は芋と衣の間に、小豆あんを入れたりして、バリエーションも豊かになっている。東京での商品は、これにケロロ軍曹が焼き判で押されているらしい。これが受けている。エンターテイメントの世界である。県知事や熊本市長などお歴々はこのことをご存知だろうか。只今「いきなり団子」東京区で活躍中・・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

利休鼠-Ⅱ

2006-03-05 23:44:29 | 徒然
 「利休鼠」の話は何処にあったろうと、本をひっくり返していたら、桑田忠親著「茶の心・茶道名言集」にあった。原典は「長闇堂記」の利休の狂歌からきている。
「茶事に招かれた際にも、華美な服装をして行ってはならない。ただ、汚れやすい着物の襟を清潔なものに取りかえて、墨染めの布子か、同じ色の綿入れを着て、出来れば、帯と足袋と扇子だけは新しいものを用意していけ」と言っている。その色が持て囃されて今日に至っている。いささか危険な発言だが桑田氏は、「原色一遍倒の好みは、色彩の上からいって、未開人種の好みである。これを利休好みの洗練さと比べると、まるで野蛮と文明の対照である」としている。そして「(原色好みの若者も)年齢と共に、やがて自国の文化の色彩に目覚めるに違いない」と言い「文化を消化するのも、一生の問題」だと言う。        お説ご尤も
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

利休鼠

2006-03-05 15:18:08 | 徒然
 大学で青春を謳歌した若者たちが、茶髪を黒色に戻して整え、濃紺のスーツを誂えて就職という新しい門出に備えている。なんで、皆同じような色のスーツを誂えるのだろうか。利休鼠という色がある。北原白秋作詞の「城ヶ島の雨」という歌に出てくる。

    雨はふるふる城ヶ島の磯に 利休鼠の雨が降る・・・・・・・・・・

 子供の頃はわけもわからず口ずさんでいたが、長ずるに及んで「利休鼠って何?」という事に相成り知ることと成るのである。スーツショップには利休鼠色のスーツもあるのだが、社会人一年生は手を出さないらしい。
 手許にひと頃ベストセラーになった、「大日本インキ化学工業(株)」が発行した、「日本の伝統色」という色見本帳がある。ネーミングされた色265色が色再現されている。この見本帳で利休鼠を見ると、「緑みがかったグレイ」で、利休は葉茶の緑みを形容したと説明している。単色のこの色のスーツはご免蒙りたいが、江戸小紋などの着物であれば、さぞかし粋なことであろう。265色の9割方に日本名で名がついている。これもまた、日本の文化の奥深さを感じさせる。ちなみに「色の三属性による表示」によると利休鼠は「3.0G4.0/1.0」ということに相成る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする