大坂城の落城の有様を記した史料に、「お菊物語」がある。これによるとお菊殿は、備前岡山藩の医師田中意徳の祖母だとされる。
一方同名の人物が細川家にもあり、この人物は忠利公幼少時の学友であり、公の死去に当っては殉死をしている。
同一人物としてご紹介してきたが、いささかの疑問も感じていたところだが、今般大坂陣に参加した方々を調べておられる、埼玉在住のTYさまから詳しいご報告を頂戴した。
お許しを得てここにご紹介する。貴重なご指摘であり、別人の可能性が高い。わが侍帳ほか手直しの必要があるように感じている。
一方同名の人物が細川家にもあり、この人物は忠利公幼少時の学友であり、公の死去に当っては殉死をしている。
同一人物としてご紹介してきたが、いささかの疑問も感じていたところだが、今般大坂陣に参加した方々を調べておられる、埼玉在住のTYさまから詳しいご報告を頂戴した。
お許しを得てここにご紹介する。貴重なご指摘であり、別人の可能性が高い。わが侍帳ほか手直しの必要があるように感じている。
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大坂城士調査の一環で、あらためて手元資料により、「おきく物語」における菊の孫田中意が誰か考えてみましたので、以下に報告いたします。
(1)備前池田家臣田中意
①「岡山藩家中諸士家譜五音寄」岡山大学文学部研究叢書:寛文9年田中意38歳書上
②「吉備温故秘録」:貞享2年田中意54歳書上
③「先祖書上并御奉公之品書上」池田家文庫:明治3年田中意氣揚書上
①「岡山藩家中諸士家譜五音寄」岡山大学文学部研究叢書:寛文9年田中意38歳書上
②「吉備温故秘録」:貞享2年田中意54歳書上
それぞれ作成時期は異なりますが、何れも田中家から提出されたものです。
これらを総合しますと、歴代以下の事績がうがえます。
■近江佐々木高嶋の末裔にて近江国田中村に住居し、田中氏を称す。
以後三代田中七右衞門眞は、佐々木義賢に仕え、
主家滅亡後は姓名を隠し近江国内に住居す。
■眞の子田中伊右衞門〔又は猪右衞門〕忠は、織田信長に仕え、
安土在郷方の御役を勤め、千二百石を知行す。
主家滅亡後は山城国八幡田中に住居し、地士となり剃髪して休味と号す。
■忠の子田中伊右衞門〔又は猪右衞門〕は、八幡田中に生る。
24,5歳の時京都に出で、浪人にて弓稽古す。
聚楽の大的で織田有樂家臣と喧嘩に及び宜しき働あり。
南蛮の修道士に金瘡外科の教授を乞い、耶蘇教入信を条件に秘法を伝授さる。
剃髪して「意」と号す。
川家康の代、切支丹穿鑿により、相伝の南蛮の巻物・外科金瘡の道具を
奉行所に提出し、棄教す。この事は上聞に達し、日本の重宝として巻物・道具は
公儀より差下され、以後公式に医業を務む。
二条城にて川家康の指の痛に対して投薬し、早々平癒につき嘉賞せらる。
禁裏へも度々参内し、法橋に叙せらる。
皇族への療治・本復の功により法眼に叙せらる。
死去の前年京都所司代牧野親成に願出で、
弟の子を養子として南蛮一流金瘡外科の家を継がしめ、
意の名を譲り、自らは常安〔又は常庵〕と号す。
■二代目田中意は、寛永9年(1632年)京都に生る。
先代田中意の甥。或は常悦と号す。
寛文6年8月22日池田光政に召出され、250石を賜る。
■三代目田中意は、初め意心と号す。
跡目の内150石を継ぎ、意を号す。
正徳元年(1711年)に100石を加増せられ、都合250石を知行す。
■四代目田中意は、跡目250石を継ぐ。
宝暦5年(1755年)病死す。
其子田中意迪は寛政元年に仔細有て泉州堺に退去し、嫡流家は廃絶。
(2)おきく物語における田中意
「菊」の家系
●祖父山口茂助は浅井長政家臣
●父山口茂左衞門は大坂陣にて行方不知
●菊は大坂落城の時(1615年)20歳。備前にて83歳で死去。
※慶長元年(1596年)誕生、延宝6年(1678年)死去に相当します。
●弟甚左衞門後号意朴(在安芸・医師)
●孫池田家醫田中意
(3)菊の孫田中意とは誰か
◆まず初代田中意(常安)は、その事績が菊とほぼ同年代なので対象外とします。
◆二代目田中意(常悦)とすると、菊37歳の時に生誕の孫となってしまい年代的な無理が否めません。
◆三代目田中意(意心)の生年は不明であるが、
家督相続の際に250石の内150石のみを継ぎ、後に100石加増されていることから、
家督相続時点ではまだ若く、修養熟達の後に旧の家禄250石に復した可能性もあるのではないでしょうか。
菊が田中意の父系の祖母ではなく、外祖母(母方の祖母)である可能性も
完全に否定はできないのですが、私の手元にある資料の範囲で考える限り、年代的には
菊の孫田中意は、三代目田中意(意心)と推定するのが適当かと思われます。
なお、肥後細川家臣田中意は寛永18年(1641年)に63歳で殉死しているので、
また、備前の田中氏と同じ上方の出身ではあるものの、
細川忠利学問の介抱の履歴と算術に長じていることを重宝がられての召出しであり、
医術への関与は全くうかがわれません。
そもそも備前と肥後それぞれの家筋に関連性を示す記載も双方見当たりません。
私はこれらの点から、細川家臣田中意と、池田家臣田中意とは
偶然名前が同じだけの全くの別人であり、家系の関係性も無いものと考えているのですが、いかがでしょうか?
(1)「岡山藩家中諸士家譜五音寄」岡山大学文学部研究叢書:寛文9年田中意38歳書上
倉地克直編『岡山藩家中諸士家譜五音寄』岡山:岡山大学文学部、1993年、? 頁
(2)「吉備温故秘録」:貞享2年田中意54歳書上
吉備群書集成刊行會編纂『吉備羣書集成』作陽書房、1978年 第6輯: 吉備温故秘録貞之卷 , 第7輯: 吉備温故秘録元之卷 , 第8輯: 吉備温故秘録享之卷 , 第9輯: 吉備温故秘録利之卷 , 第10輯: 吉備温故秘録乾之卷 ( 第?輯第?巻)
(3)「先祖書上并御奉公之品書上」池田家文庫:明治3年田中意氣揚書上
恐らくこの史料だと思います。
岡山大学付属図書館: 「先祖書上并御奉公之品書上」写本、明治 2 – 3年、[ 17 ]丁。池田文庫藩政史科:奉公書;D3 – 1579 そのコピーはお持ちでしょうか。
ご教示をいただければ幸いです。
W・ミヒェル (Wolfgang Michel)