管領斯波氏は左兵衛儀近の代、織田信長と不和になり永禄二年感触停止となった。
二男津川辰珍は蒲生氏や蜂須賀氏をへて、忠利代豊前細川家に客分として召し寄せられた(1,000石)。
肥後入国にあたり250石加増、寛永19年には妹(織田信重室)の子・細川家家臣津田三十郎に700石分知している。
万治元年に亡くなっているが、以前から病気がちであったらしい。
「大日本近世史料・細川家史料25」のp264「五三七八」にその消息が見える。寛永十六年六月十日付けの宮木越前以下
6名に宛てた書状である。
一筆申入候、我等内津川四郎右衛門尉と申者、歳五十六ニ罷成候、常々病者ニ御座候間、
乗物ニ乗せ申度候條、被成御赦免可被下候、恐惶謹言
「病者であるから乗り物に乗る事をお赦しいただきたい」というのだが、名門の人成るが故の忠利の配慮が見て取れる。
寛永十六年(1638)56歳とあるから、没年である万治元年(1658)は76歳であることが判る。
一病息災で長生きした。辰珍には男子がなく、兄・近利の孫・辰房を継嗣としている。
二男津川辰珍は蒲生氏や蜂須賀氏をへて、忠利代豊前細川家に客分として召し寄せられた(1,000石)。
肥後入国にあたり250石加増、寛永19年には妹(織田信重室)の子・細川家家臣津田三十郎に700石分知している。
万治元年に亡くなっているが、以前から病気がちであったらしい。
「大日本近世史料・細川家史料25」のp264「五三七八」にその消息が見える。寛永十六年六月十日付けの宮木越前以下
6名に宛てた書状である。
一筆申入候、我等内津川四郎右衛門尉と申者、歳五十六ニ罷成候、常々病者ニ御座候間、
乗物ニ乗せ申度候條、被成御赦免可被下候、恐惶謹言
「病者であるから乗り物に乗る事をお赦しいただきたい」というのだが、名門の人成るが故の忠利の配慮が見て取れる。
寛永十六年(1638)56歳とあるから、没年である万治元年(1658)は76歳であることが判る。
一病息災で長生きした。辰珍には男子がなく、兄・近利の孫・辰房を継嗣としている。
斯波義近---+-----近利-----数馬-----辰房
| ↓
+---四郎右衛門辰珍===辰房---辰行・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川藩・津川家
|
+------女
織田信長弟 ‖--------津田十三郎長相・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川藩・津田家
信秀----信包----信重
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+---四郎右衛門辰珍===辰房---辰行・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川藩・津川家
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+------女
織田信長弟 ‖--------津田十三郎長相・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川藩・津田家
信秀----信包----信重
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