「長い散歩」 A long walk
母親に虐待されつづけて心を閉ざしてしま
った少女(5歳)と、妻への贖罪の念を背
負った初老の男性。
男は少女を旅に連れ出す。
「おじいちゃんといっしょに行くか。
青い空を見に行こう」
そこは昔、家族と行った山の頂、彼にとっ
てのユートピアなのであった。
白い雲がぽっかりと浮かび、鳥が大空をの
びやかに舞っているという、男の遠い記憶
にある山の頂。
果たして2人は旅の終点のユートピアに行き
着けるか?
途中から、バックパッカーの青年ワタルが
旅に加わる。
ワタルもまた、深く心を病む青年だった。
ワタルが合流したことにより、次第にうち
とけ、笑顔も見せるようになった少女……
☆ ☆ ☆ ☆
~とまあ、ストーリーを追っていくとキリ
がないのだが、途中からふと気付いた。
私は映画を観にいきながら、
映像を見るのではなく、
「作品」として視ているのだと。
この場合の作品とは「活字の作品」のこと。
どうにも気になって仕方がなかったのは
そのせいだったのだ。
例えば、ワタルが突如いなくなったと思っ
たら、山の湖の前で銃で頭を貫いて自殺し
てしまうのだが、
追いかけていった主人公の男がその場を
目撃して嘆く場面ーー
「△●■△○~」
男が地面をたたきながら阿鼻叫喚の叫び声
を上げる。
それだけけで充分ではなかったか。
(むしろその方が感情が伝わる)
なのに、映画では緒形拳に喋らせ過ぎていた。
20歳そこそこの行きずりの青年(ワタル)が
自殺したことの哀しさ、悔しさ、衝撃……
等は映像なのだから、緒形の演技であらわ
すべきだったのではないかと思うのだが。
或いは、監督としての別の意図があるのだと
したら、聞いてみたい。
そこでワタルが自殺した理由まで主人公に
語らせたら、艶消しではないのか。
他にも2か所ほど余分というか蛇足と思う
ところがあって、気になって仕方がなかっ
た。
すでに私は自分のことを語っているのである。
日ごろ私が陥りがちで、尚かつ、よくやる
ミス。
つい説明し過ぎてしまうのである。
その場の情景、会話であらわすべきなのに。
実は暮れから悩んでいて、原稿がちっとも
進まなかったのはそのことだったのだ。
それは、自分の未熟さ、非才のせいでも
あるのだが……。
かくして、このブログのタイトルは最初
から
「他人(ひと)ごとなら分かる!」で
よかったのだ。
副題「自分のことは分からない」として。