唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第三 心所相応門(5) 触の心所 (4)

2015-08-30 00:55:17 | 初能変 第三 心所相応門
  
 
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 心所相応門における、遍行心所総説及び各説については、『安田理深選集』第二巻 p187~200 を参考にしてください。
 触の心所につきましては、先回も述べましたが、『成唯識論』では、五遍行の並びが、触・作意となっています。世親の『百法明門論』によりますと、作意・触という順に説かれています。良遍も『二巻鈔』においては、作意・触の順に説いています。
 触の新所は、作意(さい)を抜いて、「受・想・思等の所依たるを業と為す」と云われています。安田先生は、「触は直接に受の基礎になるということを語る。この順序が変わっているということは、作意・触も、触・作意も、受想思の所依というものをあらわすのではないか。・・・心所の所依としての心所なのである。所依も心所である。」と教えられています。
 触が先なのか、作意が先なのかはわかりませんが、これが認識の一番基礎になっているのは間違いのないところです。これが基礎となって、受想思が生まれてくるのです。
 根・境・識の和合体を三和生触と云う。三和によって生じてくるのが触の心所なんです。三和が=触ではないというところに注意していかなかればなりません。
 根 - 識の所依
 境 - 所縁
 識 - 所依と所縁をもったもの。根を(所依)として境(所縁)の区別が成り立つ。
 「触は彼(三和)に依って生じ、彼(三和)をして和合せしむるが故に説いて彼(三和)と為す。」(『論』第三・初左) (触は三和に依って生じ、三和をして三和せしめるから三和を触とする。)
 三和は触の因なんですね。前回も述べましたが「彼と云うは即ち根等なり。是れ触の因、三和に依るが故に亦三和と名く。」(『述記』第三末・三右)
 亦、「彼をして和合せしむ」と云っていますように、三和は触の果でもあるわけです。因即果(三和は触の因であると共に果である)という意味をもっています。
 触がどのようにして生起してくるのかと云いますと、種子生現行なのです。種子として在る場合は、根・境・識はバラバラです。現行する場合は、縁をともなって三つが和合し、触の心所が生まれてくるのですね。これを「変異に分別する」と云われる意味なんです。
 「そのものが出会った時に、根境識の三つが変わる、というのが変異に分別するんです。どういうことかといいますと、黒板を見ますでしょ、黒板を見るその時に常に根境識の出会いで見るわけです。その時の条件といいますか、この三つのものの出会い方によって見えてくる世界が変わってきます。」(太田久紀述『成唯識論抄講』巻第五p128~129)
 ここを見てもですね、境が実存在ではないことがわかります。私の方に境を捉える認識主体があるということです。自分の色眼鏡を通した世界でしか、世界を見ることはできないんですね。自分の変化が、イコール世界も変わるという構図になります。
 穢土とか、娑婆という世界も実体としてあるわけではありません。浄土もそうですね。穢土と浄土は対立概念ではないのです。自分の心が作り出してきた、「無始より来、異熟識が持する所の一切の有漏法」によってこの世界を築いてきたのは、他ならぬ自分であったという頷きです。この頷きが「この世は穢土だ」と言わしめたのですね。この頷きには、慚愧の心が働いていますから、浄土の一分に触れていることなんです。しかし、有漏の住人ですから、浄土の住人というわけにはいきません。
 分別(ぶんべつ)は触につき、変異は三和につく。
 『論』には
 「三が和合する位に皆順じて心所を生ずる功能有るを説きて変異と名づく。」
 三つの法がバラバラの時はなにも生まれてきませんが、三つの法が和合する時に心所が生ずるわけです。それを変異と名づけるんだ、と云う。
 「触いい彼に似て起こるが故に分別と名づく。」
 分別の用は触の功能である。三和の法が功能の上に起こっている。それで分別をブンベツと読むのです。『述記』の釈によりますと、「謂く触が上に前の三が順じて心所を生ぜしむる変異の用に似る功能有るを説いて分別と名づく。分別とは即ち是れ領似(りょうじ)の異名なり。
 領似 - 五遍行の心所の一つである触の働きを説明するなかで用いられる概念。変異とは根境識の三つが和合(結合)する時に様々な心所を生ずる力を持つように変化することであsり、その変異を分別するというなかの分別を言い換えて領似と云う。受け止めて似るという意味である。
 いい喩がだされています。
  「子の父に似るを以て父に分別せりと名づくるが如し」(生まれた子供が、生んだ父母に似るように、また似た行動をするように、触もまたそれを生ぜしめた根境識の三つの変化ににることによって、さまざまな心所を生ぜしめる力を持つという。)
 「此の意は総じて根等の三法が能く順じて心所を起こす功能有るを以て名づけて変異とす。この触も亦順じて心所を生ずる功能作用有って彼の三に領似せり。是の故に名づけて変異に分別すと云うことを顕すなり。」(『述記』)


 

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