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不害が善の心所の十一の中に入れられる理由を述べる。
「害も亦然なりと雖も、而も數々現起し、他を損悩するが故に、無上乗(大乗)の勝因たる悲を障うるが故に、彼が増上の過失を了知せしめむが為に、翻じて不害を立てたり。」(『論』第六・九左)
害も亦、第六意識のみに存在するといっても、しかし、しばしば現起し、他を損悩する為に、無上乗の勝因である悲を妨害する為に、彼(害)の増上の過失を了知させる為に、害を翻じたものを不害として立てたのである。
前科段に於て述べられていましたように、六識中第六意識にのみ存在する煩悩・随煩悩は勝れたのもではないから、これらを翻じて立てられた善の心所 答えは、害は「數々現起し、他を損悩するが故に、無上乗の勝因たる悲を障うるが故に」という、害は悲を障礙する働き顕著である為に、というのがその理由である、と述べています。 ① 「しばしば現起する」。害はしばしば現起する心所であり、他の煩悩・随煩悩に勝れている。 不害については、不害の心所を述べる項を参照してください。(2013年10月17~21日)アヒンサーという非暴力は、悲の心所から生み出されてくるものなのですね。害はいかに人間生活の営みにとっておおきな障碍をもたらすのかが知られます。 では何故、無瞋とは別に不害の心所を立てられなければならないのかということですが、 無瞋は慈の働き(与楽)、不害は悲の働き(抜苦)を明らかにし、「有情を利楽することに於て、この二の働きは勝れたものだからである」、と、理論上から、そして実際的な視点から説明されています。 如来の願心は大悲心であるということが思いだされます。南無阿弥陀仏は法であると聞いて、理解していたんですね。感覚的にですが。しかし、はっきりと法であるということがどうも解らなかったんです。法というと無為法ですね。無為法というと真如。真如というと、虚空の如く、幻事のごとく、有にも非ず、無にも非ずということで、働きが見えてこなかったんです。はっと思いましたね、ああこれだ、と。迷いが大悲なんだと。苦しいことが大悲に預かっているんだと。教法を聞いていますと、教えの外に苦悩の原因を求めているような、教えを阻害している自分が有る、と。しかしそんな存在はないんですね。いうなれば法に迷っている、苦しんでいるということになりましょうかね。この苦悩が法の働きなんですね。法の中で苦悩しているんだな、と。疑惑とは胎宮というのは法を実体化している罪なんですね。法を実体化している罪を遍計所執性と表わしているんですね。気づきは、依他起性なんでしょう。それを包んで、まろやかな光の形をもったものが円成実性、南無阿弥陀仏なんですね。それが大悲として表現されているんではないかと思いました。大悲と倶にあるものが我が身、「大悲無倦常照我身」、大悲の働きに於て我が身が照らされている、「すでにして道有り」と。 『述記』の記述は明日紹介します。
煩悩 - 不慢・不疑・正見
随煩悩 - 不忿・不恨・不覆・不悩・不嫉・不慳・不誑・不諂・不憍 (これらの煩悩・随煩悩は、第八阿頼耶識・第七末那識・前五識には存在しない。)
は、善の十一の心所には入れられないという。これと同意にして、害もまた六識中第六意識にのみ存在する随煩悩の心所であるから、害を翻じた不害は善の十一の心所の中には入れられないはずである。にもかかわらず、何故害を翻じた不害は善の心所に入れられているのか、というのが設問であり、問いに対する答えが本科段になりますね。
② 「他を損悩する」。嫉・慳には他を損悩する働きは無い。
③ 「無上乗の勝因である悲を障うるが故に」。害は、大乗仏教の勝因である悲を障礙する。
不害は、無瞋の一分(無瞋の作用の一部)に依って仮立されたもの。これは、無瞋の働きの一部である抜苦を不害という一つの心所として仮立した心所であるということを述べています。
「慈と悲の二の相、別(コトナル)ことを顕さんが為の故なり」
「願ハクハ往生セン、願ハクハ往生セン。人天大衆皆圍繞シテ心ヲ傾ケテ合掌シテ経ヲ聞カンコトヲ願フ。佛凡聖ノ機ト時トノ悟ランコトヲ知リ下ヒテ、即チ舎利ニ告ゲテ用心シテ聴カシメ下フ。一切ノ佛土皆嚴浄ナレドモ、凡夫ノ乱夫ノ乱想恐ラクハ生ジ難シ。如来別シテ西方ノ国ヲ指シ下フ。是従リ十万億ヲ超過セリ。七宝ノ荘嚴最モ勝レタリト為ス。聖衆人天ノ壽命長シ。佛ヲバ弥陀ト号ス常に説法シシタフ。極楽ノ衆生、鄣自ラ亡ブ。」(『阿弥陀経集註』)