唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (14)

2013-11-09 23:19:39 | 心の構造について

 第四は、不疑について

「疑」とは、仏法を聞いて疑いを持つ心なのです。「本当かな」と云う疑いです。親鸞聖人は「疑」を「聞不具足」といわれていますね。不疑は何かといいますと、「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。といわれていますから、疑う心を縁として本願を尋ねるということが大切なことになるかと思います。「信順を因とし、疑謗を縁として、信楽を願力に彰はし妙果を安養に顕はさむと」生きることの意味とはこのことなのでしょうね。因は信・縁は疑です。疑うということが疑いを晴らすことにつながりますね。そしてあるがままに生きるのです。信心は、「よく迷いの過ちを捨離せん」ことになるのでしょうね。

 

 「云何なるをか疑と為す。 諸の諦と・理とに於いて猶予するをもって性と為し。不疑の善品を障ゆるを以って業と為す。謂く猶予の者には善生ぜざるが故に」

 

 「諦」は四聖諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)のこと。「理」はその道理ですね。私が苦しむのは何故か。その理由を明らかにし、苦からの解放は如何にしたら可能かという道理に対し疑いの心を起こすのです。「本当かな」というためらいをもつのが「疑い」の本性だといっているのです。そしてためらいをもっている限りですね、善という菩提心は生まれてこないと教えているのです。「疑」はですね。苦の因は自分に有るということがわからないということでありますし、また苦のない世界があるということにも疑いを持っているということだと思います。道諦はそこに到る道があるということを明らかにしているのですが、苦の因を自分の外に求めていますからためらいがあるのですね。

 

 不疑に三解あることを述べていますが、まず『述記』の釈に学びたいと思います。

  「論。有義不疑至無猶豫故 述曰。不疑三解如文可知。瑜伽第八。疑謂分別異覺爲體。覺即惠也。五十八云簡擇猶豫。故正簡擇即是正見。不疑説爲正見少分。亦有此理。然隨煩惱有八。相翻入善之中。謂無慚・無愧・不信・懈怠・惛沈・掉擧・害・放逸。餘十二不翻」前解九法訖。以是小煩惱攝一段明之。下有三法。皆通染心起。故在後簡。」(『述記』第六・八左。大正43・440b)

 (「不疑の三解も文の如く知る可し。瑜伽の第八に、疑とは謂く分別の異覺(イガクを)體と為す。覺とは即ち慧なり。(『瑜伽論』巻第五十八)に云く、簡擇し猶豫するが故に。正しく簡擇するは即ち正見なり。不疑を説いて正見の少分と為す。亦た此の理有り。然るに随煩悩に八のみ有って相翻して善の中に入る。謂く無慚・無愧・不信・懈怠・惛沈・掉擧・害・放逸となり。餘の十二は翻ぜず。前に九法を解し訖る。是れ小煩悩に摂むるを以て、一段として之を明かす。
 下に有る三法は皆な染心に通じて起る。故に後に在って簡ぶ。」)

 「(第一説)有義は、不疑は即ち信に摂めらる、謂く若し彼を信じぬるときには、猶豫すること無きが故にと云う。
 (第二説)有義は、不疑は即ち正勝解なり、決定の者は、猶豫すること無きを以ての故にと云う。
 
(第三説)有義は、不疑は即ち正慧に摂めらる、正見の者は、猶豫すること無きを以ての故にと云う。(『論』第六・八左)

    猶豫 = 疑 

    不疑(能対治) - 疑(所対治)

  •  (不疑の体は) 第一説 ー 信
  •  (不疑の体は) 第二説 - 正勝解
  •  (不疑の体は) 第三説 - 慧

 第三説を以て正義とする。