唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (22)

2013-11-23 00:06:16 | 心の構造について

 『述記』に、問いが立てられています。

 「問。若し爾らば此れ何ぞ別用ある、余は何ぞ無用なる」

 外人の問いになりますが、「若し、護法の説明によるならば、この十一の善の心所にはどのような作用があるというのか、また十一の善以外の善の心所にはどうして作用がないというのであるのか」というものです。次科段において護法が答えます。

 十一の善の心所には、明確な性用と翻対する業用があるけれども、これ以外の心所には、明確な性用が無いのですね、例えば、無貪の一分を体(相)として作用があり、そして善事を為すことを業用とすると述べられています。

 煩悩と諸識との関係について、先ず述べておきます。

 「諸識相応門」に於いて、「此の十の煩悩は、何れの識と相応する」という問いだ出され、それに対して、「蔵識には全に無し、末那に四有り、意識には十ながらを具す、五識には唯三のみあり、謂く貪と瞋と癡とぞ、分別無きが故に、称量するが等きに由って慢等を起こすが故に。」と答えられています。

 随煩悩は20、数えられるわけですが整理をしますと実の随煩悩が7・仮の随煩悩が13・悪の随煩悩が全部・有覆無記の性質をも持つ随煩悩が9、そして諸識との関係に於いてどのように働くのかという問題が述べられます。その前に随煩悩とはどのようなものかが述べられています。

 「随煩悩と云う名は、亦煩悩をも摂む。是れ前の煩悩の等流性(同類因から生ずるもの)なるが故に。煩悩の同類たる余の染汚の法をば。但だ随煩悩とのみ名づく。煩悩の摂に非ざるが故に。唯だ二十の随煩悩のみと説けるは。謂わく煩悩に非ず、唯だ染なり、麤(そーあらい)なるが故なり。此の余の染法は。此の分位なり。或いは此の等流なり。皆此に摂めらる。其の類の別なるに随って理の如く応に知るべし。」

 煩悩はすべて随煩悩なのですが、随煩悩は煩悩とはいわないのです。随煩悩は染汚の法を云うのですね。染汚は煩悩によって清浄の心を穢す、悪と有覆無記です。煩悩の因から生み出されたものなのです。そして随煩悩が煩悩と名づけられないのは根本では無いからである。

 問 ー 何が故に、此の中に唯だ二十とのみ説けるや。(『瑜伽論』などに多くの随煩悩が数えられているのですが 『成唯識論』には何故、二十なのかという問いです)

 「唯だ二十の随煩悩のみと説けるは。謂く煩悩に非ず。唯だ染なり、麤(そーあらい)なるが故なり」

  • 煩悩に非ず(随煩悩は煩悩とはいわない。
  • 唯だ染なり(それはただ染汚心だからである。
  • 麤なるが故に(あらあらしい煩悩であるから

 実有の随煩悩ー無慚・無愧・不信・懈怠・掉挙・惛沈・散乱(無慚・無愧・不信・懈怠とは定めて是れ実有なり。教と理とをもって成ずるが故に。掉挙・惛沈・散乱との三種をば、是れ仮と云う。是れ実と云う。)
 
仮有の随煩悩ー忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂・害・憍・放逸・失念・不正知(「小の十と・大の三、失念・放逸・不正知とは定めて是れ仮有なり」)

 悪の随煩悩ー二十、すべてが悪・不善
 
有覆無記の性質も備える随煩悩ー誑・諂・憍・不信・懈怠・放逸・失念・不正知・散乱

 八識との関係でいうと、

  •  前五識ー無慚・無愧・不信・懈怠・掉挙・惛沈・放逸・失念・散乱・不正知。
  • 第六意識ーすべての随煩悩
  • 第七末那識ー不信・懈怠・掉挙・惛沈・放逸・失念・散乱・不正知
  • 第八阿頼耶識ーすべて無し(第八阿頼耶識には煩悩は働かないという事)

 二十の随煩悩は倶生(生まれながらの煩悩))と分別(後天的な煩悩)とに通ず。(分別・倶生)の煩悩の勢力に随って起るからである。

 

 


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