唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (10)

2013-11-04 21:45:06 | 心の構造について

後半は、不覆・不誑・不諂という三法は、二の善根(無貪・無癡)の一分であることを述べる。

 「不覆と誑と諂とは無貪癡の一分なり、応に随って正しく貪・癡の一分に翻ぜるが故に。」(『論』第六・八左)

 この三法は小随煩悩です。先ず少しこの三法について説明させていただきます。そしてこの三法は無貪と無癡の一分でることを述べます。

 諂(てんーへつらう心)『法相二巻抄』には「諂は、人をくらまかし迷はさんが為に、時に随ひ事に触れて、姦(かたま)しく方便を転(めぐ)らして人の心をとり、或いは我が過を隠す心也。世中に諂曲(てんごく)の者と云うは此心増せる人なり。」と述べられています。人を騙して迷わす為に、時に随っていろいろな方便を駆使して人を自分の方に惹きつけようとするのです。それは自分の過失を隠すためなのですね。人をまるめこみ、だますのです。人に近づいておべんちゃらを使いへつらう心をいうのですね。自分の本性を隠しているのが諂の特徴です。自分の本性を隠してのらりくらりとつきまとい相手に取りいろうとするのです。姦はよこしま・心がねじけて正しくないということ。姧と同字です。姧詐(かんさ)百端といいますが何処まで行っても悪賢く偽りしかないということなのです。諂曲は自分の本性を曲げて人の気に入るように心にもないことをいうことです。此れは自分に対する貪りと道理を無視した癡から引き起こされるのですね。

 『論』には
 「他を網せんが為の故に矯しく(かたましくーいつわって)異儀を設けて険曲(けんごくーよこしまに)なるを以って性と為し。能く不諂と教誨(きょうけー誤ったものを正しく直す)とを障うるをもって業と為す。謂わく諂曲の者は。他を網悁(もうけんー網でとらえること)せんが為に曲げて時宣(じき)に随って矯しく方便を設けて。他の意を取り或いは己が失を蔵(かく)さんが為に。師共の正しき教誨に任ぜざるに故に。此れも亦貪と癡との一分を体と為す」                        (「云何爲諂。爲網他故矯設異儀險曲爲性。能障不諂教誨爲業。謂
諂曲者爲網帽他曲順時宜矯設方便爲取他意或藏己失。不任師友正教誨
故。此亦貪癡一分爲體。離二無別諂相用故。」)

 『論』によりますと諂曲の者は師友ですね、師匠や友人の忠告を聞かない、聞く耳をもたないのです。獲物を捕えるためにじっと茂みに隠れているような猛獣みたいなもにです。言葉巧みに網をかけるのです。これがへつらう心だと言っているのですね。ここには自分は存在しません。他に気に入られようとする心でいっぱいなのです。険曲は相手を自分の思い通りにしようというのに油断がないような心といわれています。『述記』には「名利を貪るが故に諂する、是れ貪が分なり。無智の故に諂するならば癡が分なり。・・・謂わく自の過を覆蔵す。・・・覆の因なり・・・罪を覆う故に・・・」と、自分の罪を覆い隠してしまうという過失が諂であるといいます。

 「誑」(おうーたぶらかす) 
 『述記』には、誑と云う心は、「自ら徳無きを偽って徳有りと詐す。」と。 詐はいつわる、あざむくという虚言です。何故起こるのかと言いますと「利誉を貪するが故に。」といわれているのです。自分の利益と栄誉を貪る、つまり利誉を獲るために偽って自分には徳が有るのだというような顔をするのですね。要するに人々を欺いているわけです。「邪命を依と為す」 間違った生き方ですから邪命といいます。そのような生き方を依り処としているのですね。『論』には「利誉を獲んが為に矯しく(かたましく)徳有りと詭詐(きさ)するを以って性と為し。能く不誑を障えて邪命なるを以って業と為す。」といわれています。「あるがままの人生をあるがままに生きればいい」のですがそれができない自分がいるのです。「私はわたしになればいい」のです。それが道理なのですが、それに背いていろいろなものを身につけて自分を大きく見せようとしています。それもですね。できるだけ人の上に立ちたいからです。自分に自信をもてないのです。ですからいろいろな物を着飾って武装するのです。曽我先生は信心を「自信力」とお教えくださいましたが、その自信力がもてないのですね。何故かといいますと世間の富と栄誉に目が眩むのです。それが絶対の価値だと思い込むのですね。これが顛倒といわれることなのです。裸で生まれてきたのですから裸で生きればいいのです。ありのままの人生とはそのようなことなのではないでしょうか。それがなかなかできないのですね。自分をよく見せたいんです。これが「誑」ということです。私の心が言い当てられています。「心に異謀を懐いて多く不実邪命の事を現ずるが故に。此れは即ち貪と癡との一分を体と為す」と。心に自分を偽って他人をたぶらかすために謀略・謀を懐いて多く間違った生き方をするのですね。「心に意、同じきに非る異の謀計を懐いて。詐(いつわっ)て精進の儀を現ず」るのです。親鸞聖人は「愚禿が心は内は愚にして外は賢なり」と自身をみつめておられますね。「内は愚にて」ということが謀計を懐いてということでしょうし、「外は賢なり」が精進の儀を現すということでしょう。そして「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ。内に虚仮を懐きて」とあるがままに生きることを宣言なさいます。それは「貪瞋邪偽姧詐百端(とんじんじゃぎかんさひゃくたん)にして悪性侵めがたし、事蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり」(真聖P215・436)という心の中に渦巻く様々な煩悩を見切っておいでになるのです。私たちははこのことがわからないのですね。ですから煩悩に翻弄されるのです。翻って真実の業に目覚めなさいと教えて頂いているのです。

 「覆」について
 「云何なるか覆と為す」。「覆」はおおうということですが、何を覆うのでしょうか。自分にとって都合の悪いことを覆うのですね。身に覚えがありますね。隠しますわ、追求されると余計に隠します。どうにもならなくなった時に観念するのですが、ただ観念するのでは無いですね。怒り、腹立ち、恨みが心の中に芽生えます。どうにもこうにも救われがたいですね。そのような私ですが「覆」について考えてみたいと思います。ここは本当に大事なところですのでじっくりと考えたいのです。何が本当か、嘘か誠かを知っているのは自分なのですね。それを自分の都合、自分にとって何が利益をもたらすかを判断して真実を覆い隠してしまうのです。自分の心の中に閉じ込めてしまうと言った方がいいのかもしれません。ばれる時のことを思うとハラハラドキドキです。すでにここで後悔し、悩んでいるのです。後でばれると「あの時本当のことを言えばよかったと」後悔し悩むのですけれどね。くよくよしますね。心は悶々状態です。いつばれるか判らない悶々と、ばれてしまったという悶々で身動きが出来ない状態になりますね。これが「覆」という随煩悩なのです。 

 「自の作れる罪に於いて利誉(りよ)を失うを恐れて隠蔵するを以って性と為し。能く不覆を障へて悔悩(けのうー後悔して悩むこと)するを以って業と為す。謂く罪を覆う者は。後に必ず悔悩して安穏ならざるが故に。」といわれています。『述記』によりますと「自ら罪を造りおわって財利・名誉を失うことを恐れるが故に、隠蔵を以って性と為す。・・・罪を覆う者、心憂悔す。此れに由って安穏にして住することを得ず」

 自分が築きあげてきた財産や名誉が一たびの罪に依って失ってしまう恐れがある時に、やっぱり守りたいですよね。ですからひたすら隠すのです。しかし心は憂い後悔するのですから平穏ではいられないのです。そしてこの「覆」は貪と癡のとの一分に摂めるといわれるのです。これはですね。因縁の道理を無視していますから惑・業・苦の法、セオリーです。こうすればこうなるのだという縁起の理を無視をして罪を隠すのですから癡の一分に摂められるのですね。そして財利や名誉に執着していますから貪の一分にも摂められるのではないでしょうか。自分を守りたいが為に嘘をついたり隠し立てをしたりするとですね、自分が安穏といわれる、安らかに穏やかに生活が出来ない状況に追い込まれるということになるのでしょう。

 すべては自己中心に回っているのですが、そうは思えないんですね。問題は他にあって自分は唯だ翻弄されているだけである、と。この解決法はどこまでいっても解決はつかないですね。何故かというと、覆・誑・諂は貪・癡の一分を仮に立てた法、分位仮立法であるからである、と説いています。これを翻じたものが不覆・不誑・不諂であるということになります。

 本論に戻って考えていきます。  (つづく)