来たる11月23日(土) 八尾市本町 聞成坊様にて午後三時より、 『成唯識論講義』 第11回目を開講させていただきます。
御住職からお話をいただきまして右往左往しながら始めさせていただいたわけです。当初は半年位つづければ十分を思っていましたが、御住職の熱意と、聞いてくださっている門徒さんの暖かい眼差しでここまでやってこられました。「ゆっくり読みましょう」という一言に随分たすけられ、また甘えさせていただいて、まだ一頌半の略説唯識がおわっていません。今年中にはなんとか読み終えたいと思っています。そして来年度から、能変の識を明らかにする、初能変から順次読めればと思っています。よろしくお願いいたします。
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「何に縁ってか、諸染の翻ぜる所を、善の中に、有るは別に建立し有るは爾らざりぬる。」(『論』第六・九右)
どのような理由から、諸染の翻じた所を、十一の善の心所の中に説き、或はそうではなく、仮法として立てているのは何故なのか、何の所以があって立てるのか、という外人の問いが出されています。
「諸染」は諸の染法のことで、ここでは根本煩悩(六・或は十)と随煩悩(二十)を指します。合計二十六ですが、善の心所は十一立てられています。余の十五は分位仮立法ということになり、翻じて立てられたものになります。
善の心所の十一は
貪・瞋・癡の三つを翻じたもの → 無貪・無瞋・無癡
(二十の随煩悩の中では)無慚・無愧・不信・懈怠・惛沈・掉挙・害・放逸の八つを翻じたもの → 慚・愧・信・精進・軽安・行捨・不害・不放逸
で、それ以外は何故十一の善の心所には入れないのか、という問いです。次科段で答えられます。
「第二問答廢立 論。何縁諸染至有不爾者 述曰。外人問曰。何縁前説除別境等體外。合根本二十六隨煩惱中。十一別翻爲善。餘者此中及諸論中不別翻之。有何所以。」(『述記』第六本下・三十四右。大正43・440c)
(「述して曰く。外人の問うて曰く。何に縁ってか前に説て、別境等の体を除いて外に根本と随煩悩の二十六とを合して中に、十一のみ別に翻じて善と為す。余とは此の中及び諸論の中に別に之を翻ぜず。何の所以か有る。」)
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