唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (18)

2013-11-16 22:34:18 | 心の構造について

P1010019
 「論。悔眠尋伺至無別翻對 述曰。不定四法。通染不染三種性故。如遍行觸等。等餘四法。別境中欲等。亦等四法。無別翻對。唯惡不通三性法者。方翻之也。此前或有行相相翻。如捨治掉擧。掉擧相高。捨相靜故。亦得通治。以掉擧是貪・癡分故。又説性對治即忘念等三癡分者。是不忘念等正翻是。或有行相體性皆相翻。不忿等是無瞋一分等。如理應思。然八十九大有諸煩惱名字。一一應翻對之數彼多少何分所攝 第二問答廢立。」(『述記』第六本した・三十三右。大正43・440b~c)

 (「述して曰く。不定の四法は染と不染との三種の性に通ずるが故に。遍行の触等の如し。余の四法を等す。別境の中の欲等にも亦四法を等す。別に翻対すること無し。唯だ悪にして三性に通ぜざる法は、方に之を翻ぜるなり。此より前は或は行相相い翻ずること有り。(行)捨の掉擧を治するが如し。掉擧の相は高なり。(行)捨の相は静なるが故に、亦通じて治することを得。掉擧は是れ貪・癡の分なるを以ての故に。
 又、性の対治を説く。即ち妄念等の三の癡の分なる者是れなり。不妄念等は正しく是れに翻ず。或は行相も体相も皆相い翻ぜる有り。不忿等は是れ無瞋の一分なる等なり。理の如く思うべし。然るに八十九に大いに諸の煩悩の名字有り、一々之に翻対して、彼の多少の何の分に摂せられるかを数うべし。
 第二に廃立を問答す。」)

 対煩悩・対小随煩悩・対中随煩悩・対大随煩悩について、能対治法→所対治法と其の体を述べてきました。それが実法か仮法かについても説明されてきました。尚、六位五十一の心所は頌では、第九頌から第十四頌に述べられています。ただ、この六位五十一の心所は理世俗に依って説かれていると展開されてきます。

 心の構造の分析は、理世俗に依ってのみいわれることで、真勝義には無いんだと。『論』には、「識差別の相は理世俗に依る、真勝義には非ず、真勝義の中には心言絶するが故に。
 伽陀に説くが如し。
 「「心・意・識との八種は俗の故には相別なること有り、真の故には相別なること無し、相と所相と無きが故にと」(『楞伽経』)

 世間世俗・世間勝義は四重二諦によって説明されていますが、世俗諦と勝義諦を世間・道理・証得・勝義の四つに分けてそれぞれの四つがどのように相応するのかを説いたものです。世俗は有我・勝義は無我の立場からの説明ですが、これは二つに分かれているという話ではないのですね。世間の在り方の中に二つの方向性があるということなのです。

 ここは大変大事な所でありますので、随分脱線してしまいますが、少し考究してみたいと思います。  (つづく)


第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (17)

2013-11-14 23:34:29 | 心の構造について

P1010019
 不定の心所である悔(ケ)と眠(メン)と尋(ジン)と伺(シ)の場合はどうであるのかという問題が残ります。これを次科段で説明しています。
 
不定の心所については、『成唯識論』は巻第七に説かれています。
 「已に二十の随煩悩の相を説けり。不定に四有り。其の相如何。」(『論』)
 
「頌に曰く。不定とは謂わく悔(け)と眠(めん)と尋(じん)と伺(し)とのニに各々ニあり」(『論』)
 
「ニ各ニ」(ニに各々ニあり)は不定の意義を顕わしています。

 

 「論に曰く。悔(け)と眠(めん)と尋(じん)と伺(し)とは善・染等に於いて皆不定なるが故に。」(『論』)
 
初めに頌を釈し、後に意義を糺します。「善・染等皆不定」
とは、此の三界と性と識は皆、不定であるからと云われています。善・悪・無記の三性において、染は不善と有覆無記を表しますが、それが定まっていないということになります。不定の四は三性を通じて性格が定まっていないのです。「信等」は善の心所ですから、いつも善です。また「貪等」の煩悩は染の心所ですから、いつも染です。しかしここでいわれる不定の四はどちらにも動くのです。どのようにでも変わり得る性格をもっているのが、悔(け)と眠(めん)と尋(じん)と伺(し)の不定の心所であるといっているのです。善につけば善になり、染につけば染になるという性格です。

 

 不定の心所については、2010年3月21日から4月4日のブログを参照してください。

 「悔(け)と眠(めん)と尋(じん)と伺(し)とは染・不染に通ず、触・欲等の如し、別に翻対することは無し。」(『論』第六・九右)

 『述記』には「不定の四法は染と不染との三種の性に通ずるが故に」と説明されていますが、染とは不善と有覆無記・不染は善と無覆無記で、染と不染で三種の性である、善・悪(不善)・無記(有覆無記・無覆無記)を指しています。

 次に「触・欲等の如し」は「遍行の触等の如し、余の四法を等す。別境の中の欲等にも亦四法を等す、別に翻対すること無し。
 唯だ悪にして三性に通ぜざる法は、方に之を翻ずるなり。」

 ただ悪にして三性にわたることのない心所(貪・瞋・嫉等)はですね。所対治として翻対されるものを善の心所とする、と述べられています。     (つづく)

 「初めに悔眠を解す。・・・悔は謂く悪作というは、体(悔)をもって因(悪作)に即す。即ち諸論に説く悪作と云うは是なり。悪作は悔には非ず。悔の体性は追悔するもの是なり。・・・悪作の体は何を以って性と為す。悪とは嫌なり。即ち所作の業を嫌悪す。緒の所作の業を心に起こして嫌悪し(因)、已て之を追悔する(果)。方に是れ悔の性なり。若し所作是れ悪なるときは名づけて悪作と為せば、即ち悔の体は唯善なり。ただ悪事を悔するが故に。若し所作を嫌悪するならば、体、寧ぞ悔にあらざるや。これ悔の因といわんや、若し先に所作を悪むで、方に悔を生ぜば、悪作(因)は悔(果)にあらず。その悪作の体は何ぞや。この義まさに思うべし。」(『述記』)
 悪作(おさ)は「悪作は我作す所を悪しきことしたりとして後に悔やむ心」といわれ、自分がかって為した行為を嫌悪して追悔することなのです。作した事・作さなかったことに対して悪む作用をいい、嫌悪を因とし追悔は果となるのです。ここで倶舎と唯識の解釈の違いについて説明をしておきます。読み方は倶舎では「あくさ」と読み、唯識では「おさ」と読みます。その解釈は倶舎では「悪事をなした事を悔やむこと、即ち悪事の所作を後に追憶して後悔する、」と考えますが、唯識では「作した事を悪むこと、即ち自分の作した行為を憎む」と解釈します。悪むから後悔が生まれるのだと考えたのです。
 作したこと(悪事を作した事を嫌悪して後悔する)を嫌悪する。
 作さなかった事を後悔する(善・悪ともに作さなかった事を後悔する)
善の悪作と不善の悪作があるのです。悪を作さなかった事を後悔することは不善の悪作になります。
 唯識でいわれる「作したことを悪む」ということは大事なところですね。後悔すると云われるでしょう。悪むは後悔というわけにはいかにと思うのですね。もっと深い意味が有っていわれるのでしょう。後悔は自分にとって「しまった」という思いが残りますね。「すみません」と云う中に自分の思うように行かなかったという後悔です。どこまでも自己中心に考えます。「悪む」というのは懺悔という心が働きます。根底に無我の理が働いていて善悪共に後悔をするということなのではないでしょうか。親鸞聖人は『教行信証』の中で云います。
 「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、中に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行を作すは、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して頭燃を灸うがごとくするもの、すべて「雑毒の善」と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲するは、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心の中に作したまいしに由ってなり、と。おおよそ施したまうところ趣求をなす、またみな真実なり。」(『信巻』真聖p215)また『信巻』信楽釈に「雑毒の善・雑修の善」といわれるような自己の姿をみておいでになります。其の善行は「虚仮の行・諂偽の行」であるという確信を以って如来大悲の大海に身を任せておいでになる聖人のお姿を垣間みることができますね。『述記』に慚・愧についての記述があります。「悪作の善なるものは是れ愧なり。悪を拒むを以っての故に。不善なるものは是れ無慚なり。賢善を顧みざるが故に。無記なるものは是れ慧なり。」と。所作を嫌悪するということは、自分のなした悪の行為を後悔し憎むという意義があるのです。作すということは所作のことですが、所作が後悔を生みだしてくるのです。悪(お)が後悔の因になるのですね。因に依って(依因)悔を生じ、悔を生じてくるのが悪という構図になりますね。「其の実は悪とは即ち是れ悔なり」と悪即悔ということに、ただ反省・後悔ということではなく無限の大悲に自身を問う歩みをしていかなければならないという事を示唆しているのではないでしょうか。どちらにでも傾いていく後悔の心は、「この心を機縁として真実に触れていきなさい」という、後押しをされているのではないかと思います。

 

 「初めに悔眠を解す。・・・悔は謂く悪作というは、体(悔)をもって因(悪作)に即す。即ち諸論に説く悪作と云うは是なり。悪作は悔には非ず。悔の体性は追悔するもの是なり。・・・悪作の体は何を以って性と為す。悪とは嫌なり。即ち所作の業を嫌悪す。緒の所作の業を心に起こして嫌悪し(因)、已て之を追悔する(果)。方に是れ悔の性なり。若し所作是れ悪なるときは名づけて悪作と為せば、即ち悔の体は唯善なり。ただ悪事を悔するが故に。若し所作を嫌悪するならば、体、寧ぞ悔にあらざるや。これ悔の因といわんや、若し先に所作を悪むで、方に悔を生ぜば、悪作(因)は悔(果)にあらず。その悪作の体は何ぞや。この義まさに思うべし。」(『述記』)
 悪作(おさ)は「悪作は我作す所を悪しきことしたりとして後に悔やむ心」といわれ、自分がかって為した行為を嫌悪して追悔することなのです。作した事・作さなかったことに対して悪む作用をいい、嫌悪を因とし追悔は果となるのです。ここで倶舎と唯識の解釈の違いについて説明をしておきます。読み方は倶舎では「あくさ」と読み、唯識では「おさ」と読みます。その解釈は倶舎では「悪事をなした事を悔やむこと、即ち悪事の所作を後に追憶して後悔する、」と考えますが、唯識では「作した事を悪むこと、即ち自分の作した行為を憎む」と解釈します。悪むから後悔が生まれるのだと考えたのです。
 作したこと(悪事を作した事を嫌悪して後悔する)を嫌悪する。
 作さなかった事を後悔する(善・悪ともに作さなかった事を後悔する)
善の悪作と不善の悪作があるのです。悪を作さなかった事を後悔することは不善の悪作になります。
 唯識でいわれる「作したことを悪む」ということは大事なところですね。後悔すると云われるでしょう。悪むは後悔というわけにはいかにと思うのですね。もっと深い意味が有っていわれるのでしょう。後悔は自分にとって「しまった」という思いが残りますね。「すみません」と云う中に自分の思うように行かなかったという後悔です。どこまでも自己中心に考えます。「悪む」というのは懺悔という心が働きます。根底に無我の理が働いていて善悪共に後悔をするということなのではないでしょうか。親鸞聖人は『教行信証』の中で云います。
 「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、中に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行を作すは、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して頭燃を灸うがごとくするもの、すべて「雑毒の善」と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲するは、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心の中に作したまいしに由ってなり、と。おおよそ施したまうところ趣求をなす、またみな真実なり。」(『信巻』真聖p215)また『信巻』信楽釈に「雑毒の善・雑修の善」といわれるような自己の姿をみておいでになります。其の善行は「虚仮の行・諂偽の行」であるという確信を以って如来大悲の大海に身を任せておいでになる聖人のお姿を垣間みることができますね。『述記』に慚・愧についての記述があります。「悪作の善なるものは是れ愧なり。悪を拒むを以っての故に。不善なるものは是れ無慚なり。賢善を顧みざるが故に。無記なるものは是れ慧なり。」と。所作を嫌悪するということは、自分のなした悪の行為を後悔し憎むという意義があるのです。作すということは所作のことですが、所作が後悔を生みだしてくるのです。悪(お)が後悔の因になるのですね。因に依って(依因)悔を生じ、悔を生じてくるのが悪という構図になりますね。「其の実は悪とは即ち是れ悔なり」と悪即悔ということに、ただ反省・後悔ということではなく無限の大悲に自身を問う歩みをしていかなければならないという事を示唆しているのではないでしょうか。どちらにでも傾いていく後悔の心は、「この心を機縁として真実に触れていきなさい」という、後押しをされているのではないかと思います。

 


雑感

2013-11-13 23:52:55 | 生きることの意味

 私の思いを超えて、深層の意識が働いている、阿頼耶識。アーラヤ、それは雪山、万年の雪をいただいているヒマーラヤを目の前に見て、ヨーガ行者は、深層の意識に蓄えられている金剛石を見だしたのである。その頂は善悪を包み込み、何事も分別無く受け入れていて盤石である。そんな不動の意識が私の中で確実に働いていることを知っていたのであろうか。

 アーラヤ識、その位は我愛現行執蔵位という。迷ってる位という意味である。しかし唯だ迷っているというわけではない。

 アーラヤ識を自相として転回してくる世界は広大無辺である。私が、今、ここに、現に、存在していることを異熟、過去世から今に至るまでの業種子が開花した今という意味である。業種子を一切種子識といい表している。一切という意味は、何事も捨てず、分別せずに受け入れている平等性を表している。私は差別の中心となって時をわかたず、自他差別の中心的人物をして刃を振り下ろしている、しかし、その底に流れている意識は、何事にも覆われず、平等性を生きている。この平等性を法性法身というのではないであろうか。平等性を通して知られる世界、それが法性・真如・無為自然として語られる世界なのであろう。

 アーラヤ識、その持ってる世界観は、人間観でもあり、人間像でもあるのであろう。アーラヤ識、真如無為自然界と一如である。アーラヤ識を自相として転回されてくるのが、果相であり、因相である。

 迷いは、倶生として表されている。倶生の法・我執と真如は一体である。矛盾しているが同一である。そこに救済の事実があるのであろう。

 迷っていること、矛盾しているが、救われているのである。

 私たちは、それを信ずるのみである。信が自相なのであろう。根本本願は第十八願だといわれている。「至心・信楽・欲生」の三心が説かれている。迷悟に関係なく、私は私を信じて生きている。いうなれば勝解者であり、信解している。それは深層のアーラヤ識の純粋性によるものなのだろう。純粋性は三界を超えている。「勝過三界道 究竟如虚空 広大無辺際」である。すべてを包みこんでいる。それを自相としている。そこには浄土に迎えとるという働きがあるのであろう、因相といい、欲生と表わされている。ならば、至心は果相である。果相とは、善悪業果位という。因は善悪、果は無記という位である。私が生きている現今は無記という平等性をもっているのである。いつ、いかなる時であっても無記である。真如が具体性を持って私の命の深層で働いている。一切の有情に、である。

 アーラヤ識を根本識として転識しているのが私の意識である。私の分別識のその真っただ中にアーラヤ識が働いている、なんということなのであろう。私にはなにも捨てるものはなかったのである。「門徒もの知らず」と祖母はよく語っていた。ようやくその意味が、分別を超えた世界を語っていたのであるということが頷けるように育てられてきた。有り難いことである。

 無為涅槃界がアーラヤ識と異にすることはないと語ってることは、迷・悟は異ではないということであろう。救いはすでにして成就していたのである。無始以来である。「この身今生にして」という、今生に「救済の事実」に頷くことであろう。

 親鸞聖人は生涯「救済の事実」を如来回向とし、働きを、本願力として私に回向されているのではないであろうか。事実は還相であり、頷きが往相なのではないであろうか。往相・還相、私の中にあっては、アーラヤ識として私を支えている。P1010019
 

 『群萌響命』 という書物がでました。


第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (16)

2013-11-12 20:53:10 | 心の構造について

P1010019 『群萌響命』 購入ご希望のお方はコメント欄に住所・氏名・冊数をお書き込み下さい。よろしくお願いいたします。

 別境の念・定・慧の一分として、不散乱・正見と正知・不妄念が仮立されている。

 散乱・悪見と不正知・妄念(失念)はすべて染心に通じて起こってくる。

 「論。不散亂體至即是正念 述曰。不亂體即正定。雖散亂別有體或無體。即定少分。皆翻彼名正定。性對治故。根本中染見隨中不正知。今翻皆入善惠所攝。不正知・或別境惠分。或癡分皆爾。性對治也。不忘失念。是正念。設別境念分。或是癡分。亦爾 此三設是翻癡分者。以有別境分故。別境通三性。不翻爲善。欲・勝解亦爾。然此唯説是癡分者。所以不説。前忿等即翻入善。以無別體不通三性故。」(『述記』第六本下・三十二右。大正43・440b)

 「述して曰く。不(散)乱の体は即ち正定なり。散乱は別に体有り、或は体無しと雖も、即ち定の少分にして皆な彼(散乱)に翻ずれば正定と名づく。性は対治なるが故に。

  • (体) 正定 - (能対治)不散乱 → (所対治)散乱

 根本の中の染の見と随の中の不正知とを、今翻じて皆な善の慧に入れ摂せらる。
 不正知は、或は別境の慧の分、或は癡が分皆な爾なり。性は対治なり。

  • (体) 正慧 - (能対治)正知 →(所対治)不正知

 不妄失念は是れ正念なり。設い別境の念の分、或は是れ癡の分と云うも亦爾なり。

 爾(ニ) - しかり(その通り)

  • (体) 正念 - (能対治)不妄念 →(所対治)妄念

 此の三は設い是れ癡の分に翻ずるは、別境の分有るを以ての故に。別境は三性に通ずれば翻じて善(無癡)と為さず。欲と勝解も亦爾なり。然るに此れ唯だ是れ癡の分なるものを説く。所以に説かず。前の忿等は即ち翻じて善に入るは、別体無く三性に通ぜざるを以ての故に。」

 不正知について

 「不正知は、しるべき事をあやまちて知る心なり。」(『ニ巻抄』)境に於いて誤解を起こさせる心所なのです。正しく知る(正知)のは智慧ですね。それに対し不正知は間違って知る心です。

 「云何なるか不正知。所観の境に於いて謬解(みょうげー誤った理解)するを以って性と為し。能く正知を障えて毀犯(きぼんーそこなうこと)するを以って業と為す。謂く不正知の者は、毀犯する所多きが故に。」(『論』)

 対象に於いて謬(びゅう)は誤る、誤解することですね。解は理解、了解で、謬解は誤った了解ということになります。それが不正知の性格であると云われています。此の事に由り、正知という、はっきりと心にとめていることを妨げ、そこなうことが行為となって現れるのですね。『成唯識論』宗前敬叙分の造論の意趣に「迷・謬」とありました。迷は無明・縁起の理や真如の理に昏いのですが、謬は厄介ですね。知っているのですが疑っているのです。疑惑です。仏智疑惑という謗法です。知ったかぶりの仏教ということがありますね。知っているのですが間違って理解をしているのです。その誤った理解が正知を邪魔をする不正知です。

  1.  不正知は慧の一分に摂める。
  2.  不正知は癡の一分に摂める。
  3.  不正知は倶の一分に摂める。(慧と癡の両方の働きによる)

 「不正知は倶の一分に摂めらる、前の二の文に影略(ヨウリャク)して説けるに由るが故に。論に復、此れは染心に遍ずと説けるが故にと云う。」(『論』)

 我執によって空・無我の理が覆われ、正しく簡び分けられないのです。第一説の慧の一分ということですが、慧は正しく分別するということですね。簡択の義といわれていました。不正知には慧という心所が働いているといわれているのです。しかし間違って働いているという事が厄介なのです。それが無知という無明煩悩と共に働いてくるのが不正知なのです。これもまた「染心に遍ず」といわれ、「散乱」と同じく悪と有覆無記の心です。

 「境に迷って闇鈍に非ざるなり。但だ是れ錯謬して邪に解するを不正知と名づく。不正知、多く業を発し。多く悪の身語業を起こして、多く惑を犯す。」(『述記』) 間違った理解は、間違った行為を起こし、間違った身・口・意の三業を起こして多くの惑、迷いを生み出してくるのですね。惑染の凡夫といいあてられています私ですが、何が惑染かといいますと、はっきりと不正知であると、唯識無境といいますが、境に迷っているのではないですね。自己の執着が錯謬させているのです。自己の利益が優先されますから道理に反し邪に理解をしますから惑をもたらして来るのです。

 「此の三は設い是れ癡の分に翻ずるは、別境の分有るを以ての故に。別境は三性に通ずれば翻じて善(無癡)と為さず。」と云われていますように、別境の善慧(正慧)を以て翻ずる、従って、此の三は癡の分であっても、癡を翻じての無癡とは云わないのです。 

 

 


第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (15)

2013-11-11 22:00:46 | 心の構造について

P1010019
 『群萌響命』 (「内と外」・「人間と生れて」・「邂逅」の三題) 発売中

 seikantutomu@yahoo.co.jp

よりお申込み下さい。頒価 500円

          -      ・     -

 次は、不散乱と正見と正知と不妄念について。

 これらは、別境(欲・勝解・念・定・慧)の分位としての善の心所であることを明らかにする。

 「不散乱の体は、即ち正定に摂めらる。
 正見と正知とは、倶に善の慧に摂めらる。
 不妄念とは、即ち是れ正念なり。」(『論』第六・九左)

 先ず、散乱について

 「云何なるか散乱。諸の所縁に於いて心をして流蕩(るとうーほったらかしにすること)ならしむるを以って性と為し、能く正定を障えて悪慧の所依たるを以って業と為す」

 といわれます。失念は意識の対象に於いて不能明記であると、記憶できずに正念を障えてしまうと言われていましたが、散乱は正念をもてないことから意識の対象に於いて心が散乱するのです。散乱した心をほったらかしにして正定を障えるのです。正定を障えることに於いて悪の知恵の依処となるのですね。仏陀の最後の説法は「自を灯とし、他を灯とすることなかれ。法を灯とし、他を灯とすることなかれ。」自灯明・法灯明と遺言されました。法に由って明らかにされた自己を灯として人生に立ち向かうのが善の方向だと教えられている。それに反し自我中心に人生を考えるあり方が悪の方向になるのでしょう。正念を障えて失念し、失念することに於いて散乱を招き正定を障えるのですが、そのことにより悪の知恵の依り処となるといわれるのです。

 流蕩とは「流は馳流(ちる)なり。即ち是れ散の功能の義なり。蕩とは蕩逸(とういつ)。即ち是れ乱の功能の義なり。」

 といわれます。心が川の流れのように、流れる様子を散といい、蕩はとろける・とろかすという意味があります。水がゆらゆら揺れ動く様子を言い、心がだらしなく、しまりがない状態を乱というのです。「散乱は、あまたの事に心の兎角(とかく)うつりてみだれたるなり」(『ニ巻抄』)

 「散乱は別に自体有り。三の分と説けるは。是れ彼の等流なればなり。無慚等の如し。即ち彼に摂むるに非ず。他の相に随って説いて世俗有と名づけたり。」と、散乱と云う煩悩は独立して有ると言われます。三の分とは貪・瞋・癡の事ですが、この中に「散乱は有る」という説を退けるのです。「別に自体有り」と。散乱は仮法ではなく、実法である。

 散乱の別相について「散乱の別相とは。謂く躁擾(そうにょうー心が落ち着かない、心を落ち着かせない事)なり。」(「躁とは散を謂う。擾とは乱を謂う。倶生の法をして流蕩ならしむ」)軽躁(キョウソウ)という言葉があります。こころが落ち着かず、あわただしくさわいでしまう。あるいは軽佻浮薄(けいちょうふはく・心がうわついて軽薄であるという意ー軽佻の佻は跳ね上がりで落ち着かない意)ともいわれます。
 

 散乱とは、その性は心が散漫にして、きちんとしていないということである、と。正定を障へて不正見を起こす。掉挙(じょうこ)と散乱との用の違いは「掉挙(じょうこ)は心を挙す境はこれ一なりと雖も、倶生の心・心所の解をして縷縷転易せしむ。即ち一境に多解するなり。散乱の功は心をして別の境を縁ずることを易へしむ。即ち一心を多境に易へしむるなり。」(『述記』) 

 私は「今」を考える上で大切な指摘をいただいていると思うのです。ただ単に「今」は不連続のとぎれた「今」になりますでしょう。今を大切にと云った時、瞬時を大切にすることが、つながりを大切にしているのかという問題が残ります。ですから今は「永遠の今」でなければなりません。今だけという今は縁に由って対象が変わりますから落ちつきがありません。間断しています。本当に「今」といういことは「無間断」でしょうね。散乱は「相続するに於いて易わる義有るが故に」といわれることには故あるかな、ということです。

 「染汚心の時には掉と乱との力に由って、常に念念に解を易え縁を易えしむべし。或いは念等の力に由って制伏(せいぶく)せらるること猨猴(えんこう)を繋ぐが如く暫時住せること有るが故に掉と乱とは倶に染心に遍ず。」

 染汚心は末那識ですね。不善と有覆無記です。この心には掉挙と散乱との両方の力に由り、瞬時瞬時に解を変易し、縁を変易するのです。心が寂静でない状態では静かにものを考えるということはできないですね。また心が写り変わりますと落ち着かないでしょう。猨猴(えんこう)は猿です。大きな猿と、手長猿ですね。何を言っているのかといいますと、人の心は猿のようで、そわそわして落ち着きがないと。「繋ぐが如く」正念・正定・正見等の力に由って制するのですが、その間、暫らくは掉挙と散乱の状態が続くのであって、それは染心であり、煩悩だと云っているのです。掉挙は定心という禅定において心が落ち着かないという状態ですが、散乱は日常的に起こる何事にも集中できない状態をいうのでしょう。忙しい時には時間がない、時間がないといって苛立ちですね、暇な時はいくらでも時間が有るのに何事にも集中できずにですね、勝手なもんです。家に居てもですね、何かに集中しようとすると、これがですね、今まで何も思っていないことが次から次へと思いだして落ち着かず右往左往しています。

 この散乱を対治する心所が不散乱で、その体は正定であると解しています。

 後に随煩悩についての諸門分別が述べられますが、少し随煩悩を整理してみますと、

 随煩悩は20、数えられるわけです。実の随煩悩が7・仮の随煩悩が13・悪の随煩悩が全部・有覆無記の性質をも持つ随煩悩が9、そして諸識との関係に於いてどのように働くのかという問題が述べられます。その前に随煩悩とはどのようなものかが述べられています。

 「随煩悩と云う名は、亦煩悩をも摂む。是れ前の煩悩の等流性(同類因から生ずるもの)なるが故に。煩悩の同類たる余の染汚の法をば。但だ随煩悩とのみ名づく。煩悩の摂に非ざるが故に。唯だ二十の随煩悩のみと説けるは。謂わく煩悩に非ず、唯だ染なり、麤(そーあらい)なるが故なり。此の余の染法は。此の分位なり。或いは此の等流なり。皆此に摂めらる。其の類の別なるに随って理の如く応に知るべし。」

 煩悩はすべて隋煩悩なのですが、随煩悩は煩悩とはいわないのです。随煩悩は染汚の法を云うのですね。染汚は煩悩によって清浄の心を穢すのですね。悪と有覆無記です。煩悩の因から生み出されたものなのです。そして随煩悩が煩悩と名づけられないのは根本では無いからなのだといわれています。

 問。何が故に、此の中に唯だ二十とのみ説けるや。(『瑜伽論』などに多くの随煩悩が数えられているのですが『成唯識論』には何故に二十なのかという問いです)

 「唯だ二十の随煩悩のみと説けるは。謂く煩悩に非ず。唯だ染なり、麤(そーあらい)なるが故なり」
? 煩悩に非ず(随煩悩は煩悩とはいわない)
? 唯だ染なり(それはただ染汚心だからである。)
? 麤なるが故に(あらあらしい煩悩であるから)

諸門分別

 仮実分別
? 実有の随煩悩ー無慚・無愧・不信・懈怠・掉挙・惛沈・散乱(無慚・無愧・不信・懈怠とは定めて是れ実有なり。教と理とをもって成ずるが故に。掉挙・惛沈・散乱との三種をば、是れ仮と云う。是れ実と云う。)
? 仮有の随煩悩ー忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂・害・憍・放逸・失念・不正知(「小の十と・大の三、失念・放逸・不正知とは定めて是れ仮有なり」)

 三性(悪と有覆無記)による分別
? 悪の随煩悩ー二十、すべてが悪・不善
? 有覆無記の性質も備える随煩悩ー誑・諂・憍・不信・懈怠・放逸・失念・不正知・散乱

 八識との関係
? 前五識ー無慚・無愧・不信・懈怠・掉挙・惛沈・放逸・失念・散乱・不正知
? 第六意識ーすべての随煩悩
? 第七末那識ー不信・懈怠・掉挙・惛沈・放逸・失念・散乱・不正知
? 第八阿頼耶識ーすべて無し(第八阿頼耶識には煩悩は働かないという事)

 倶生分別 

 二十の随煩悩は倶生(生まれながらの煩悩))と分別(後天的な煩悩)とに通ず。(分別・倶生)ニの煩悩の勢力に随って起こるるが故に。    (つづく) 

 


第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (14)

2013-11-09 23:19:39 | 心の構造について

 第四は、不疑について

「疑」とは、仏法を聞いて疑いを持つ心なのです。「本当かな」と云う疑いです。親鸞聖人は「疑」を「聞不具足」といわれていますね。不疑は何かといいますと、「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。といわれていますから、疑う心を縁として本願を尋ねるということが大切なことになるかと思います。「信順を因とし、疑謗を縁として、信楽を願力に彰はし妙果を安養に顕はさむと」生きることの意味とはこのことなのでしょうね。因は信・縁は疑です。疑うということが疑いを晴らすことにつながりますね。そしてあるがままに生きるのです。信心は、「よく迷いの過ちを捨離せん」ことになるのでしょうね。

 

 「云何なるをか疑と為す。 諸の諦と・理とに於いて猶予するをもって性と為し。不疑の善品を障ゆるを以って業と為す。謂く猶予の者には善生ぜざるが故に」

 

 「諦」は四聖諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)のこと。「理」はその道理ですね。私が苦しむのは何故か。その理由を明らかにし、苦からの解放は如何にしたら可能かという道理に対し疑いの心を起こすのです。「本当かな」というためらいをもつのが「疑い」の本性だといっているのです。そしてためらいをもっている限りですね、善という菩提心は生まれてこないと教えているのです。「疑」はですね。苦の因は自分に有るということがわからないということでありますし、また苦のない世界があるということにも疑いを持っているということだと思います。道諦はそこに到る道があるということを明らかにしているのですが、苦の因を自分の外に求めていますからためらいがあるのですね。

 

 不疑に三解あることを述べていますが、まず『述記』の釈に学びたいと思います。

  「論。有義不疑至無猶豫故 述曰。不疑三解如文可知。瑜伽第八。疑謂分別異覺爲體。覺即惠也。五十八云簡擇猶豫。故正簡擇即是正見。不疑説爲正見少分。亦有此理。然隨煩惱有八。相翻入善之中。謂無慚・無愧・不信・懈怠・惛沈・掉擧・害・放逸。餘十二不翻」前解九法訖。以是小煩惱攝一段明之。下有三法。皆通染心起。故在後簡。」(『述記』第六・八左。大正43・440b)

 (「不疑の三解も文の如く知る可し。瑜伽の第八に、疑とは謂く分別の異覺(イガクを)體と為す。覺とは即ち慧なり。(『瑜伽論』巻第五十八)に云く、簡擇し猶豫するが故に。正しく簡擇するは即ち正見なり。不疑を説いて正見の少分と為す。亦た此の理有り。然るに随煩悩に八のみ有って相翻して善の中に入る。謂く無慚・無愧・不信・懈怠・惛沈・掉擧・害・放逸となり。餘の十二は翻ぜず。前に九法を解し訖る。是れ小煩悩に摂むるを以て、一段として之を明かす。
 下に有る三法は皆な染心に通じて起る。故に後に在って簡ぶ。」)

 「(第一説)有義は、不疑は即ち信に摂めらる、謂く若し彼を信じぬるときには、猶豫すること無きが故にと云う。
 (第二説)有義は、不疑は即ち正勝解なり、決定の者は、猶豫すること無きを以ての故にと云う。
 
(第三説)有義は、不疑は即ち正慧に摂めらる、正見の者は、猶豫すること無きを以ての故にと云う。(『論』第六・八左)

    猶豫 = 疑 

    不疑(能対治) - 疑(所対治)

  •  (不疑の体は) 第一説 ー 信
  •  (不疑の体は) 第二説 - 正勝解
  •  (不疑の体は) 第三説 - 慧

 第三説を以て正義とする。


第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (13)

2013-11-08 21:24:17 | 心の構造について

第三は、不慢についての説明になります。

 「(第一説)有義は、不慢は信の一分に摂めらる、謂く、若し彼を信ずるときには彼を慢せざるが故にという。
 (第二説)有義は、不慢は捨の一分に摂めらる、心平等なる者は高慢せざるが故にという。
 (第三説)有義は、不慢は、慚の一分に摂めらる、若し彼を崇重(スウジュウ)するときは彼を慢ぜざるが故にと云う。」(『論』第六・八左)

 不慢については三説が述べられています。第三説が勝れているとされる。

 慢について少し説明します。(過去ログより)

 「慢と云う煩悩は慢心のことで、他人に対して自分をおごりたかぶる心のことです。「己を恃(タノ)んで他に於いて高擧(コウコ)するを以って性と為し。」といわれています。自分を頼りにして他人に対して高擧する、高慢です。思い上がってうぬぼれている心です。常に慢心を抱いて他に接しているのですね、善しにつけ、悪しきにつけですね。前者は増上慢ですし、後者は卑下慢です。へりくだった慢心ですね。「他の多勝に於いて己れ少劣と謂う」此れは世間に於いて自分と他者を比較することがよくあることですね。自分が明らかに劣っているとわかっていても認めません。自分もまんざら捨てたものではない、というわけです。子供と話をしていてもよく判るのですが、なかなか相手を認めません。「あいつは勉強できるかもしれないが、スポーツは俺の方がはるかに優れている」「あいつは数学が得意だけれど、俺は英語では負けない」とかですね、すべてに於いて自分が劣っているとわかっていても慢心が働いているのですね。また「我が身を下して(卑下して)高慢の人(思い上がって人をあなどること)を見ては不見の思いをなす」ともいわれています。このように見ていきますと、慢と云う心は自他差別の心だということがわかります。どこまでいっても自分優位であるということは動かせないのです。それが「能く不慢を障えて苦を生ずるを以って業と為す」と。自他差別の心が苦を生んでくるのですね。慢と云う煩悩は姿かたちを持ちませんから不気味ですね。見えないから本当に厄介な煩悩です。「邪見憍慢悪衆生」、邪な(わかっているつもりの)見解をもち、自らおもいあがって、他を見下して侮っている存在を悪衆生といっていますね。この悪衆生は「信楽受持すること、はなはだもって難し。難中の難、これに過ぎたるはなし」とといわれ、慢と云う煩悩はいかに厄介な煩悩かがよく伺えるのです。そしてこの慢には七慢あるいは九慢という分類、非常にきめこまやかな分類がなされています。

 

               七慢

 

 慢・過慢・慢過慢・卑慢・我慢(自らたのんで他に対して思い上がっていることー世間でいう辛抱とは違います)・増上慢(未だ取得していないけれど、既に取得していると嘘をつくことです。ー私もですね、このように唯識を読ませていただいているわけで。、いろんな書物を参考にしながら、わかったように書き込みをしていますが、本当の所は何もわかっていないのですね。嘘をついています。これが増上慢ですし、また卑下慢でもあるわけです。やっかいなのは増上慢・卑下慢ですといったとたんに慢心が働くと云うのですね。ですから何も判っていないと云うことなのでしょうね。書くと云うことはわかったつもりで書いていますかね。慢心です。)・邪慢(邪な慢心ですね。「己れ無きに己れ有と謂う」といわれ、増上慢と似通っていますが、自分には無いのに有ると謂う慢心です)

 

 この慢を翻じた善の心所が不慢です。真理や真実に対して謙虚な心の働きですね。この不慢の体について三説が述べられているのです。

 
  •  第一説 - 不慢の(体)は信
  •  

  •  第二説 - 不慢の(体)は行捨
  •  

  •  第三説 - 不慢の(体)は慚
 

 『述記』には、第三説の「此の中の第三の慚の一分と云うは勝れたり。慚は師長等を崇敬するを以ての故に」と、第一説及び第二説が第三説より劣っているという理由は述べられていません。しかし、「但だ不慢を障うると言う義は三に通ずべし」と、能対治は不慢・所対治は慢であるということは共通していることであると説明されています。

 

 また、『演秘』には「不敬とは謂ゆる師長及び有徳の所に於て憍傲(キョウゴウ)を生するなり、苦生ずと云うは謂ゆる後有に生ずるが故に」、と釈されています。

 

 不敬という、人を敬わない人は、師長や有徳の人から学ぶことが無く、反って、自己を高く評価し高慢に他を見下し、後に苦を生ずる因を造ることになると釈しています。


第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (12)

2013-11-07 23:09:23 | 心の構造について

 第二説

 「有義は不覆は唯だ無癡の一分なり。處として覆は亦た貪の一分にもありと説けること無きが故に。」(『論』第六・八左)

 第二説は、不覆はただ無癡の一分であると主張している何故ならば、どこにも覆はまた貪の一分と説かれていないからである、と。教証を以て答えられています。「所治の覆は皆、癡が分と言て説いて貪の分と為さず。」と、『瑜伽論』・『対法論(雑集論)』を証として挙げています。

 「覆誑諂惛沈睡眠惡作是癡分」(『瑜伽論』巻第五十五。大正30・604b)

 「何等爲覆。謂於所作罪他正擧時。癡之一分隱藏爲體」(『阿毘達磨集論』巻第一。大正31・665a)

 第二説は、教証をもって、不覆はただ無癡の一分であると説かれているけれども、第一説には文献的根拠はないとして排斥しています。しかし第一説は理にかなうとして第一説を正義としています。その理由は、覆の存在理由に由るものです。

 「云何為覆。於自作罪、恐失利誉、隠蔵、為性、能障不覆悔悩、為業。」(云何なるをか覆と為す。自の作れる罪のうえに利誉を失はむかと恐て隠蔵するを以て性と為し、能く不覆を障へ悔悩(ケノウ)するを以て業と為す)

 名聞・利養を失うことを恐れると云う煩悩ですね、それを隠すのが覆の働きです。名聞・利養は貪欲の現れであり、また「自の作れる罪のうえに利誉を失はむかと恐て隠蔵する」するのは、未来に苦を招来することを知らないという、おろかな心ですね。覆は癡の一分であるということになります。これが「前の解(第一説)を勝と為す」という理由になります。

 「論。有義不覆至亦貪一分故 述曰。此教爲證。此唯無癡一分。此所治覆。瑜伽・對法皆言癡分。不説爲貪分故。貪名故覆。覆體亦癡。癡故然也。前解爲勝。雖無論文理故勝也 以前即忿等初九訖。以害有正翻故此中不出。上根本惑六中三根自有翻。餘三不翻。且翻不慢。」(『述記』第六本下・三十一左)

 (「述して曰く。此れは教を証と為す。此れは唯だ無癡の一分なり。此の所治の覆は瑜伽・對法に皆な癡が分と言て説いて貪の分と為さざるが故に、名を貪するが故に覆すという覆の體亦た癡なり。癡の故に然るなり。前解を勝と為す。論文無しと雖も理なる故に勝れたり。
 以前は即ち忿等の初の九訖る。害は正しく翻ずること有るを以て故にこの中に出さず。上には根本惑の六の中に三根は自ら翻ずること有り。余の三は翻ぜず、且らく不慢を翻ずれば、」)

 小随煩悩の害を除く十の小随煩悩の九つに翻じて立てた善の心所についての所論は説き終わった、と。

  •  不害は無瞋の一分である。
  •  不忿と不恨と不悩と不嫉は、無瞋の一分である。
  •  不慳と不憍は、無貪の一分である。
  •  不覆と不誑と不諂は、無貪と無癡の一分である。

 無瞋或は無貪或は無貪と無癡の働きの一分である分位仮立法であるということを明らかにしています。

 

 


第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (11)

2013-11-06 23:21:45 | 心の構造について

 第一説・護法の説(正義とする)

 「論。不覆誑諂至貪癡一分故 述曰。不覆・不誑・不諂三法。是二善根一分。隨應正翻貪・癡一分。無貪即翻貪分等。故言隨應。者義更等取六十二中不憍・不詐等。此中不覆所治之覆。有貪著名故覆罪。有癡故覆罪故。今無貪癡一分。論唯説是癡分。起必有癡故。以理釋之。」(『述記』第六本下・三十一右・大正43・440a) 

 「論に不覆と誑と諂とは無貪・癡の一分なり、応に随って正しく貪・癡の一分に翻ぜるが故 に。
 述して曰く。不覆と不誑と不諂との三法は是れ二の善根の一分なり。応に随って正しく貪・癡の一分に翻ず。無貪は即ち貪の分等に翻ずるが故に。
 随応と言うは、義を以て更に六十二の中の不憍・不詐等を等取す。此の中に不覆の所治の覆は、有るは名に貪著するが故に罪を覆うなり。有るは癡なる故に罪を覆うなり。故に今は無貪癡の一分と云う。論に唯だ是れ癡の分と説けるは、起るとき必ず癡有るが故に、理を以て之を釈す。」

 覆・誑・諂については前回のべましたが、能治の、不覆は、自己の罪を隠さない心の働きであり、不誑(フオウ)は、自分に説くがあるように周囲を偽り欺くことがない心の働きです。また不諂(フテン)は、他に合せて自分を曲げて諂ったりしない心の働きになりますが、この三の善根は、無貪と無癡の一分であるから、十一の善の心所の中には説かれない、分位仮立法になります。

 「随応」の説明がされていますが、『述記』には詳しくは出ていません。『演秘』に詳細が記されています、後述します。等とは、他を含めるという意味になりますが、無貪・無癡の一分である他の善の心所に、憍(キョウ・おごり、たかぶること)・詐(サ・詐欺だますこと)を翻じた不憍・不詐を含めるということなのです。これは『瑜伽論』巻第六十二・八十九に説かれているものです。

 「論。不覆誑諂等者。即瑜伽論六十二中・及八十九憍許亦是入所翻中。六十二云。云何爲憍。謂於増上惑毀犯尸羅由見聞疑他所擧時。遂託餘事假他餘事惑設外言而相誘引。云何爲許。謂怖他故。或復於彼有所希故。雖有犯重而不發露。亦不現行。非實意樂詐於有智同梵行所現行。親愛恭敬耎善身・語二業。八十九云。心懷染汚爲顯己徳假現威儀故名爲憍。心懷染汚爲顯己徳。或現親事或行耎語故名爲詐 問二文何別 答初約覆罪。後爲顯徳。故二文別。」(『演秘』第五本・二十七右。大正43・915c)

 「論に不覆誑諂等とは、即ち瑜伽論の六十二の中、及び八十九に憍詐をも亦た是れ所翻の中に入る。六十二に云く、云何をか憍と為る。謂ゆる増上戒に於て尸羅(シラ・戒のこと)を毀犯(キホン・戒をやぶること)し、見聞疑に由りて他に挙せらるる時に遂に余事を許して他の余事を仮り、或は外の言を設けて相い誘引す。如何が詐と為る。謂く、他を怖るるが故に、或は復た彼に於て希う所有るが故に、重を犯すこと有りと雖も而も発露せず、亦た現行せず、実の意楽(イギョウ・欲、意欲)に非ずして詐って有智の同梵行(ドウボンギョウ・ともに清らかな修行をしていること)の所に於て親愛と恭敬と耎善(ネンゼン・やさしいこと)の身と語との二業を現行すと云えり。八十九に、心に染汚を懐き、己が徳を顕わさんが為に仮りに威儀を現ずるが故に、名づけて憍と為す。心に染汚を懐き、己が徳を顕わさんが為に或は親事を現し、或は耎語(軟語)を行ずるが故に名づけて詐と為すと云えり。
 問う、二文何ぞ別なる。
 答う、初は罪を覆うに約し、後は徳を顕わさんが為の故に二の文別なり。」

 


第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (10)

2013-11-04 21:45:06 | 心の構造について

後半は、不覆・不誑・不諂という三法は、二の善根(無貪・無癡)の一分であることを述べる。

 「不覆と誑と諂とは無貪癡の一分なり、応に随って正しく貪・癡の一分に翻ぜるが故に。」(『論』第六・八左)

 この三法は小随煩悩です。先ず少しこの三法について説明させていただきます。そしてこの三法は無貪と無癡の一分でることを述べます。

 諂(てんーへつらう心)『法相二巻抄』には「諂は、人をくらまかし迷はさんが為に、時に随ひ事に触れて、姦(かたま)しく方便を転(めぐ)らして人の心をとり、或いは我が過を隠す心也。世中に諂曲(てんごく)の者と云うは此心増せる人なり。」と述べられています。人を騙して迷わす為に、時に随っていろいろな方便を駆使して人を自分の方に惹きつけようとするのです。それは自分の過失を隠すためなのですね。人をまるめこみ、だますのです。人に近づいておべんちゃらを使いへつらう心をいうのですね。自分の本性を隠しているのが諂の特徴です。自分の本性を隠してのらりくらりとつきまとい相手に取りいろうとするのです。姦はよこしま・心がねじけて正しくないということ。姧と同字です。姧詐(かんさ)百端といいますが何処まで行っても悪賢く偽りしかないということなのです。諂曲は自分の本性を曲げて人の気に入るように心にもないことをいうことです。此れは自分に対する貪りと道理を無視した癡から引き起こされるのですね。

 『論』には
 「他を網せんが為の故に矯しく(かたましくーいつわって)異儀を設けて険曲(けんごくーよこしまに)なるを以って性と為し。能く不諂と教誨(きょうけー誤ったものを正しく直す)とを障うるをもって業と為す。謂わく諂曲の者は。他を網悁(もうけんー網でとらえること)せんが為に曲げて時宣(じき)に随って矯しく方便を設けて。他の意を取り或いは己が失を蔵(かく)さんが為に。師共の正しき教誨に任ぜざるに故に。此れも亦貪と癡との一分を体と為す」                        (「云何爲諂。爲網他故矯設異儀險曲爲性。能障不諂教誨爲業。謂
諂曲者爲網帽他曲順時宜矯設方便爲取他意或藏己失。不任師友正教誨
故。此亦貪癡一分爲體。離二無別諂相用故。」)

 『論』によりますと諂曲の者は師友ですね、師匠や友人の忠告を聞かない、聞く耳をもたないのです。獲物を捕えるためにじっと茂みに隠れているような猛獣みたいなもにです。言葉巧みに網をかけるのです。これがへつらう心だと言っているのですね。ここには自分は存在しません。他に気に入られようとする心でいっぱいなのです。険曲は相手を自分の思い通りにしようというのに油断がないような心といわれています。『述記』には「名利を貪るが故に諂する、是れ貪が分なり。無智の故に諂するならば癡が分なり。・・・謂わく自の過を覆蔵す。・・・覆の因なり・・・罪を覆う故に・・・」と、自分の罪を覆い隠してしまうという過失が諂であるといいます。

 「誑」(おうーたぶらかす) 
 『述記』には、誑と云う心は、「自ら徳無きを偽って徳有りと詐す。」と。 詐はいつわる、あざむくという虚言です。何故起こるのかと言いますと「利誉を貪するが故に。」といわれているのです。自分の利益と栄誉を貪る、つまり利誉を獲るために偽って自分には徳が有るのだというような顔をするのですね。要するに人々を欺いているわけです。「邪命を依と為す」 間違った生き方ですから邪命といいます。そのような生き方を依り処としているのですね。『論』には「利誉を獲んが為に矯しく(かたましく)徳有りと詭詐(きさ)するを以って性と為し。能く不誑を障えて邪命なるを以って業と為す。」といわれています。「あるがままの人生をあるがままに生きればいい」のですがそれができない自分がいるのです。「私はわたしになればいい」のです。それが道理なのですが、それに背いていろいろなものを身につけて自分を大きく見せようとしています。それもですね。できるだけ人の上に立ちたいからです。自分に自信をもてないのです。ですからいろいろな物を着飾って武装するのです。曽我先生は信心を「自信力」とお教えくださいましたが、その自信力がもてないのですね。何故かといいますと世間の富と栄誉に目が眩むのです。それが絶対の価値だと思い込むのですね。これが顛倒といわれることなのです。裸で生まれてきたのですから裸で生きればいいのです。ありのままの人生とはそのようなことなのではないでしょうか。それがなかなかできないのですね。自分をよく見せたいんです。これが「誑」ということです。私の心が言い当てられています。「心に異謀を懐いて多く不実邪命の事を現ずるが故に。此れは即ち貪と癡との一分を体と為す」と。心に自分を偽って他人をたぶらかすために謀略・謀を懐いて多く間違った生き方をするのですね。「心に意、同じきに非る異の謀計を懐いて。詐(いつわっ)て精進の儀を現ず」るのです。親鸞聖人は「愚禿が心は内は愚にして外は賢なり」と自身をみつめておられますね。「内は愚にて」ということが謀計を懐いてということでしょうし、「外は賢なり」が精進の儀を現すということでしょう。そして「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ。内に虚仮を懐きて」とあるがままに生きることを宣言なさいます。それは「貪瞋邪偽姧詐百端(とんじんじゃぎかんさひゃくたん)にして悪性侵めがたし、事蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり」(真聖P215・436)という心の中に渦巻く様々な煩悩を見切っておいでになるのです。私たちははこのことがわからないのですね。ですから煩悩に翻弄されるのです。翻って真実の業に目覚めなさいと教えて頂いているのです。

 「覆」について
 「云何なるか覆と為す」。「覆」はおおうということですが、何を覆うのでしょうか。自分にとって都合の悪いことを覆うのですね。身に覚えがありますね。隠しますわ、追求されると余計に隠します。どうにもならなくなった時に観念するのですが、ただ観念するのでは無いですね。怒り、腹立ち、恨みが心の中に芽生えます。どうにもこうにも救われがたいですね。そのような私ですが「覆」について考えてみたいと思います。ここは本当に大事なところですのでじっくりと考えたいのです。何が本当か、嘘か誠かを知っているのは自分なのですね。それを自分の都合、自分にとって何が利益をもたらすかを判断して真実を覆い隠してしまうのです。自分の心の中に閉じ込めてしまうと言った方がいいのかもしれません。ばれる時のことを思うとハラハラドキドキです。すでにここで後悔し、悩んでいるのです。後でばれると「あの時本当のことを言えばよかったと」後悔し悩むのですけれどね。くよくよしますね。心は悶々状態です。いつばれるか判らない悶々と、ばれてしまったという悶々で身動きが出来ない状態になりますね。これが「覆」という随煩悩なのです。 

 「自の作れる罪に於いて利誉(りよ)を失うを恐れて隠蔵するを以って性と為し。能く不覆を障へて悔悩(けのうー後悔して悩むこと)するを以って業と為す。謂く罪を覆う者は。後に必ず悔悩して安穏ならざるが故に。」といわれています。『述記』によりますと「自ら罪を造りおわって財利・名誉を失うことを恐れるが故に、隠蔵を以って性と為す。・・・罪を覆う者、心憂悔す。此れに由って安穏にして住することを得ず」

 自分が築きあげてきた財産や名誉が一たびの罪に依って失ってしまう恐れがある時に、やっぱり守りたいですよね。ですからひたすら隠すのです。しかし心は憂い後悔するのですから平穏ではいられないのです。そしてこの「覆」は貪と癡のとの一分に摂めるといわれるのです。これはですね。因縁の道理を無視していますから惑・業・苦の法、セオリーです。こうすればこうなるのだという縁起の理を無視をして罪を隠すのですから癡の一分に摂められるのですね。そして財利や名誉に執着していますから貪の一分にも摂められるのではないでしょうか。自分を守りたいが為に嘘をついたり隠し立てをしたりするとですね、自分が安穏といわれる、安らかに穏やかに生活が出来ない状況に追い込まれるということになるのでしょう。

 すべては自己中心に回っているのですが、そうは思えないんですね。問題は他にあって自分は唯だ翻弄されているだけである、と。この解決法はどこまでいっても解決はつかないですね。何故かというと、覆・誑・諂は貪・癡の一分を仮に立てた法、分位仮立法であるからである、と説いています。これを翻じたものが不覆・不誑・不諂であるということになります。

 本論に戻って考えていきます。  (つづく)