『群萌響命』 (「内と外」・「人間と生れて」・「邂逅」の三題) 発売中
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次は、不散乱と正見と正知と不妄念について。
これらは、別境(欲・勝解・念・定・慧)の分位としての善の心所であることを明らかにする。
「不散乱の体は、即ち正定に摂めらる。
正見と正知とは、倶に善の慧に摂めらる。
不妄念とは、即ち是れ正念なり。」(『論』第六・九左)
先ず、散乱について
「云何なるか散乱。諸の所縁に於いて心をして流蕩(るとうーほったらかしにすること)ならしむるを以って性と為し、能く正定を障えて悪慧の所依たるを以って業と為す」
といわれます。失念は意識の対象に於いて不能明記であると、記憶できずに正念を障えてしまうと言われていましたが、散乱は正念をもてないことから意識の対象に於いて心が散乱するのです。散乱した心をほったらかしにして正定を障えるのです。正定を障えることに於いて悪の知恵の依処となるのですね。仏陀の最後の説法は「自を灯とし、他を灯とすることなかれ。法を灯とし、他を灯とすることなかれ。」自灯明・法灯明と遺言されました。法に由って明らかにされた自己を灯として人生に立ち向かうのが善の方向だと教えられている。それに反し自我中心に人生を考えるあり方が悪の方向になるのでしょう。正念を障えて失念し、失念することに於いて散乱を招き正定を障えるのですが、そのことにより悪の知恵の依り処となるといわれるのです。
流蕩とは「流は馳流(ちる)なり。即ち是れ散の功能の義なり。蕩とは蕩逸(とういつ)。即ち是れ乱の功能の義なり。」
といわれます。心が川の流れのように、流れる様子を散といい、蕩はとろける・とろかすという意味があります。水がゆらゆら揺れ動く様子を言い、心がだらしなく、しまりがない状態を乱というのです。「散乱は、あまたの事に心の兎角(とかく)うつりてみだれたるなり」(『ニ巻抄』)
「散乱は別に自体有り。三の分と説けるは。是れ彼の等流なればなり。無慚等の如し。即ち彼に摂むるに非ず。他の相に随って説いて世俗有と名づけたり。」と、散乱と云う煩悩は独立して有ると言われます。三の分とは貪・瞋・癡の事ですが、この中に「散乱は有る」という説を退けるのです。「別に自体有り」と。散乱は仮法ではなく、実法である。
散乱の別相について「散乱の別相とは。謂く躁擾(そうにょうー心が落ち着かない、心を落ち着かせない事)なり。」(「躁とは散を謂う。擾とは乱を謂う。倶生の法をして流蕩ならしむ」)軽躁(キョウソウ)という言葉があります。こころが落ち着かず、あわただしくさわいでしまう。あるいは軽佻浮薄(けいちょうふはく・心がうわついて軽薄であるという意ー軽佻の佻は跳ね上がりで落ち着かない意)ともいわれます。
散乱とは、その性は心が散漫にして、きちんとしていないということである、と。正定を障へて不正見を起こす。掉挙(じょうこ)と散乱との用の違いは「掉挙(じょうこ)は心を挙す境はこれ一なりと雖も、倶生の心・心所の解をして縷縷転易せしむ。即ち一境に多解するなり。散乱の功は心をして別の境を縁ずることを易へしむ。即ち一心を多境に易へしむるなり。」(『述記』)
私は「今」を考える上で大切な指摘をいただいていると思うのです。ただ単に「今」は不連続のとぎれた「今」になりますでしょう。今を大切にと云った時、瞬時を大切にすることが、つながりを大切にしているのかという問題が残ります。ですから今は「永遠の今」でなければなりません。今だけという今は縁に由って対象が変わりますから落ちつきがありません。間断しています。本当に「今」といういことは「無間断」でしょうね。散乱は「相続するに於いて易わる義有るが故に」といわれることには故あるかな、ということです。
「染汚心の時には掉と乱との力に由って、常に念念に解を易え縁を易えしむべし。或いは念等の力に由って制伏(せいぶく)せらるること猨猴(えんこう)を繋ぐが如く暫時住せること有るが故に掉と乱とは倶に染心に遍ず。」
染汚心は末那識ですね。不善と有覆無記です。この心には掉挙と散乱との両方の力に由り、瞬時瞬時に解を変易し、縁を変易するのです。心が寂静でない状態では静かにものを考えるということはできないですね。また心が写り変わりますと落ち着かないでしょう。猨猴(えんこう)は猿です。大きな猿と、手長猿ですね。何を言っているのかといいますと、人の心は猿のようで、そわそわして落ち着きがないと。「繋ぐが如く」正念・正定・正見等の力に由って制するのですが、その間、暫らくは掉挙と散乱の状態が続くのであって、それは染心であり、煩悩だと云っているのです。掉挙は定心という禅定において心が落ち着かないという状態ですが、散乱は日常的に起こる何事にも集中できない状態をいうのでしょう。忙しい時には時間がない、時間がないといって苛立ちですね、暇な時はいくらでも時間が有るのに何事にも集中できずにですね、勝手なもんです。家に居てもですね、何かに集中しようとすると、これがですね、今まで何も思っていないことが次から次へと思いだして落ち着かず右往左往しています。
この散乱を対治する心所が不散乱で、その体は正定であると解しています。
後に随煩悩についての諸門分別が述べられますが、少し随煩悩を整理してみますと、
随煩悩は20、数えられるわけです。実の随煩悩が7・仮の随煩悩が13・悪の随煩悩が全部・有覆無記の性質をも持つ随煩悩が9、そして諸識との関係に於いてどのように働くのかという問題が述べられます。その前に随煩悩とはどのようなものかが述べられています。
「随煩悩と云う名は、亦煩悩をも摂む。是れ前の煩悩の等流性(同類因から生ずるもの)なるが故に。煩悩の同類たる余の染汚の法をば。但だ随煩悩とのみ名づく。煩悩の摂に非ざるが故に。唯だ二十の随煩悩のみと説けるは。謂わく煩悩に非ず、唯だ染なり、麤(そーあらい)なるが故なり。此の余の染法は。此の分位なり。或いは此の等流なり。皆此に摂めらる。其の類の別なるに随って理の如く応に知るべし。」
煩悩はすべて隋煩悩なのですが、随煩悩は煩悩とはいわないのです。随煩悩は染汚の法を云うのですね。染汚は煩悩によって清浄の心を穢すのですね。悪と有覆無記です。煩悩の因から生み出されたものなのです。そして随煩悩が煩悩と名づけられないのは根本では無いからなのだといわれています。
問。何が故に、此の中に唯だ二十とのみ説けるや。(『瑜伽論』などに多くの随煩悩が数えられているのですが『成唯識論』には何故に二十なのかという問いです)
「唯だ二十の随煩悩のみと説けるは。謂く煩悩に非ず。唯だ染なり、麤(そーあらい)なるが故なり」
? 煩悩に非ず(随煩悩は煩悩とはいわない)
? 唯だ染なり(それはただ染汚心だからである。)
? 麤なるが故に(あらあらしい煩悩であるから)
諸門分別
仮実分別
? 実有の随煩悩ー無慚・無愧・不信・懈怠・掉挙・惛沈・散乱(無慚・無愧・不信・懈怠とは定めて是れ実有なり。教と理とをもって成ずるが故に。掉挙・惛沈・散乱との三種をば、是れ仮と云う。是れ実と云う。)
? 仮有の随煩悩ー忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂・害・憍・放逸・失念・不正知(「小の十と・大の三、失念・放逸・不正知とは定めて是れ仮有なり」)
三性(悪と有覆無記)による分別
? 悪の随煩悩ー二十、すべてが悪・不善
? 有覆無記の性質も備える随煩悩ー誑・諂・憍・不信・懈怠・放逸・失念・不正知・散乱
八識との関係
? 前五識ー無慚・無愧・不信・懈怠・掉挙・惛沈・放逸・失念・散乱・不正知
? 第六意識ーすべての随煩悩
? 第七末那識ー不信・懈怠・掉挙・惛沈・放逸・失念・散乱・不正知
? 第八阿頼耶識ーすべて無し(第八阿頼耶識には煩悩は働かないという事)
倶生分別
二十の随煩悩は倶生(生まれながらの煩悩))と分別(後天的な煩悩)とに通ず。(分別・倶生)ニの煩悩の勢力に随って起こるるが故に。 (つづく)