唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (12)

2013-11-07 23:09:23 | 心の構造について

 第二説

 「有義は不覆は唯だ無癡の一分なり。處として覆は亦た貪の一分にもありと説けること無きが故に。」(『論』第六・八左)

 第二説は、不覆はただ無癡の一分であると主張している何故ならば、どこにも覆はまた貪の一分と説かれていないからである、と。教証を以て答えられています。「所治の覆は皆、癡が分と言て説いて貪の分と為さず。」と、『瑜伽論』・『対法論(雑集論)』を証として挙げています。

 「覆誑諂惛沈睡眠惡作是癡分」(『瑜伽論』巻第五十五。大正30・604b)

 「何等爲覆。謂於所作罪他正擧時。癡之一分隱藏爲體」(『阿毘達磨集論』巻第一。大正31・665a)

 第二説は、教証をもって、不覆はただ無癡の一分であると説かれているけれども、第一説には文献的根拠はないとして排斥しています。しかし第一説は理にかなうとして第一説を正義としています。その理由は、覆の存在理由に由るものです。

 「云何為覆。於自作罪、恐失利誉、隠蔵、為性、能障不覆悔悩、為業。」(云何なるをか覆と為す。自の作れる罪のうえに利誉を失はむかと恐て隠蔵するを以て性と為し、能く不覆を障へ悔悩(ケノウ)するを以て業と為す)

 名聞・利養を失うことを恐れると云う煩悩ですね、それを隠すのが覆の働きです。名聞・利養は貪欲の現れであり、また「自の作れる罪のうえに利誉を失はむかと恐て隠蔵する」するのは、未来に苦を招来することを知らないという、おろかな心ですね。覆は癡の一分であるということになります。これが「前の解(第一説)を勝と為す」という理由になります。

 「論。有義不覆至亦貪一分故 述曰。此教爲證。此唯無癡一分。此所治覆。瑜伽・對法皆言癡分。不説爲貪分故。貪名故覆。覆體亦癡。癡故然也。前解爲勝。雖無論文理故勝也 以前即忿等初九訖。以害有正翻故此中不出。上根本惑六中三根自有翻。餘三不翻。且翻不慢。」(『述記』第六本下・三十一左)

 (「述して曰く。此れは教を証と為す。此れは唯だ無癡の一分なり。此の所治の覆は瑜伽・對法に皆な癡が分と言て説いて貪の分と為さざるが故に、名を貪するが故に覆すという覆の體亦た癡なり。癡の故に然るなり。前解を勝と為す。論文無しと雖も理なる故に勝れたり。
 以前は即ち忿等の初の九訖る。害は正しく翻ずること有るを以て故にこの中に出さず。上には根本惑の六の中に三根は自ら翻ずること有り。余の三は翻ぜず、且らく不慢を翻ずれば、」)

 小随煩悩の害を除く十の小随煩悩の九つに翻じて立てた善の心所についての所論は説き終わった、と。

  •  不害は無瞋の一分である。
  •  不忿と不恨と不悩と不嫉は、無瞋の一分である。
  •  不慳と不憍は、無貪の一分である。
  •  不覆と不誑と不諂は、無貪と無癡の一分である。

 無瞋或は無貪或は無貪と無癡の働きの一分である分位仮立法であるということを明らかにしています。