唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (17)

2013-11-14 23:34:29 | 心の構造について

P1010019
 不定の心所である悔(ケ)と眠(メン)と尋(ジン)と伺(シ)の場合はどうであるのかという問題が残ります。これを次科段で説明しています。
 
不定の心所については、『成唯識論』は巻第七に説かれています。
 「已に二十の随煩悩の相を説けり。不定に四有り。其の相如何。」(『論』)
 
「頌に曰く。不定とは謂わく悔(け)と眠(めん)と尋(じん)と伺(し)とのニに各々ニあり」(『論』)
 
「ニ各ニ」(ニに各々ニあり)は不定の意義を顕わしています。

 

 「論に曰く。悔(け)と眠(めん)と尋(じん)と伺(し)とは善・染等に於いて皆不定なるが故に。」(『論』)
 
初めに頌を釈し、後に意義を糺します。「善・染等皆不定」
とは、此の三界と性と識は皆、不定であるからと云われています。善・悪・無記の三性において、染は不善と有覆無記を表しますが、それが定まっていないということになります。不定の四は三性を通じて性格が定まっていないのです。「信等」は善の心所ですから、いつも善です。また「貪等」の煩悩は染の心所ですから、いつも染です。しかしここでいわれる不定の四はどちらにも動くのです。どのようにでも変わり得る性格をもっているのが、悔(け)と眠(めん)と尋(じん)と伺(し)の不定の心所であるといっているのです。善につけば善になり、染につけば染になるという性格です。

 

 不定の心所については、2010年3月21日から4月4日のブログを参照してください。

 「悔(け)と眠(めん)と尋(じん)と伺(し)とは染・不染に通ず、触・欲等の如し、別に翻対することは無し。」(『論』第六・九右)

 『述記』には「不定の四法は染と不染との三種の性に通ずるが故に」と説明されていますが、染とは不善と有覆無記・不染は善と無覆無記で、染と不染で三種の性である、善・悪(不善)・無記(有覆無記・無覆無記)を指しています。

 次に「触・欲等の如し」は「遍行の触等の如し、余の四法を等す。別境の中の欲等にも亦四法を等す、別に翻対すること無し。
 唯だ悪にして三性に通ぜざる法は、方に之を翻ずるなり。」

 ただ悪にして三性にわたることのない心所(貪・瞋・嫉等)はですね。所対治として翻対されるものを善の心所とする、と述べられています。     (つづく)

 「初めに悔眠を解す。・・・悔は謂く悪作というは、体(悔)をもって因(悪作)に即す。即ち諸論に説く悪作と云うは是なり。悪作は悔には非ず。悔の体性は追悔するもの是なり。・・・悪作の体は何を以って性と為す。悪とは嫌なり。即ち所作の業を嫌悪す。緒の所作の業を心に起こして嫌悪し(因)、已て之を追悔する(果)。方に是れ悔の性なり。若し所作是れ悪なるときは名づけて悪作と為せば、即ち悔の体は唯善なり。ただ悪事を悔するが故に。若し所作を嫌悪するならば、体、寧ぞ悔にあらざるや。これ悔の因といわんや、若し先に所作を悪むで、方に悔を生ぜば、悪作(因)は悔(果)にあらず。その悪作の体は何ぞや。この義まさに思うべし。」(『述記』)
 悪作(おさ)は「悪作は我作す所を悪しきことしたりとして後に悔やむ心」といわれ、自分がかって為した行為を嫌悪して追悔することなのです。作した事・作さなかったことに対して悪む作用をいい、嫌悪を因とし追悔は果となるのです。ここで倶舎と唯識の解釈の違いについて説明をしておきます。読み方は倶舎では「あくさ」と読み、唯識では「おさ」と読みます。その解釈は倶舎では「悪事をなした事を悔やむこと、即ち悪事の所作を後に追憶して後悔する、」と考えますが、唯識では「作した事を悪むこと、即ち自分の作した行為を憎む」と解釈します。悪むから後悔が生まれるのだと考えたのです。
 作したこと(悪事を作した事を嫌悪して後悔する)を嫌悪する。
 作さなかった事を後悔する(善・悪ともに作さなかった事を後悔する)
善の悪作と不善の悪作があるのです。悪を作さなかった事を後悔することは不善の悪作になります。
 唯識でいわれる「作したことを悪む」ということは大事なところですね。後悔すると云われるでしょう。悪むは後悔というわけにはいかにと思うのですね。もっと深い意味が有っていわれるのでしょう。後悔は自分にとって「しまった」という思いが残りますね。「すみません」と云う中に自分の思うように行かなかったという後悔です。どこまでも自己中心に考えます。「悪む」というのは懺悔という心が働きます。根底に無我の理が働いていて善悪共に後悔をするということなのではないでしょうか。親鸞聖人は『教行信証』の中で云います。
 「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、中に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行を作すは、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して頭燃を灸うがごとくするもの、すべて「雑毒の善」と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲するは、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心の中に作したまいしに由ってなり、と。おおよそ施したまうところ趣求をなす、またみな真実なり。」(『信巻』真聖p215)また『信巻』信楽釈に「雑毒の善・雑修の善」といわれるような自己の姿をみておいでになります。其の善行は「虚仮の行・諂偽の行」であるという確信を以って如来大悲の大海に身を任せておいでになる聖人のお姿を垣間みることができますね。『述記』に慚・愧についての記述があります。「悪作の善なるものは是れ愧なり。悪を拒むを以っての故に。不善なるものは是れ無慚なり。賢善を顧みざるが故に。無記なるものは是れ慧なり。」と。所作を嫌悪するということは、自分のなした悪の行為を後悔し憎むという意義があるのです。作すということは所作のことですが、所作が後悔を生みだしてくるのです。悪(お)が後悔の因になるのですね。因に依って(依因)悔を生じ、悔を生じてくるのが悪という構図になりますね。「其の実は悪とは即ち是れ悔なり」と悪即悔ということに、ただ反省・後悔ということではなく無限の大悲に自身を問う歩みをしていかなければならないという事を示唆しているのではないでしょうか。どちらにでも傾いていく後悔の心は、「この心を機縁として真実に触れていきなさい」という、後押しをされているのではないかと思います。

 

 「初めに悔眠を解す。・・・悔は謂く悪作というは、体(悔)をもって因(悪作)に即す。即ち諸論に説く悪作と云うは是なり。悪作は悔には非ず。悔の体性は追悔するもの是なり。・・・悪作の体は何を以って性と為す。悪とは嫌なり。即ち所作の業を嫌悪す。緒の所作の業を心に起こして嫌悪し(因)、已て之を追悔する(果)。方に是れ悔の性なり。若し所作是れ悪なるときは名づけて悪作と為せば、即ち悔の体は唯善なり。ただ悪事を悔するが故に。若し所作を嫌悪するならば、体、寧ぞ悔にあらざるや。これ悔の因といわんや、若し先に所作を悪むで、方に悔を生ぜば、悪作(因)は悔(果)にあらず。その悪作の体は何ぞや。この義まさに思うべし。」(『述記』)
 悪作(おさ)は「悪作は我作す所を悪しきことしたりとして後に悔やむ心」といわれ、自分がかって為した行為を嫌悪して追悔することなのです。作した事・作さなかったことに対して悪む作用をいい、嫌悪を因とし追悔は果となるのです。ここで倶舎と唯識の解釈の違いについて説明をしておきます。読み方は倶舎では「あくさ」と読み、唯識では「おさ」と読みます。その解釈は倶舎では「悪事をなした事を悔やむこと、即ち悪事の所作を後に追憶して後悔する、」と考えますが、唯識では「作した事を悪むこと、即ち自分の作した行為を憎む」と解釈します。悪むから後悔が生まれるのだと考えたのです。
 作したこと(悪事を作した事を嫌悪して後悔する)を嫌悪する。
 作さなかった事を後悔する(善・悪ともに作さなかった事を後悔する)
善の悪作と不善の悪作があるのです。悪を作さなかった事を後悔することは不善の悪作になります。
 唯識でいわれる「作したことを悪む」ということは大事なところですね。後悔すると云われるでしょう。悪むは後悔というわけにはいかにと思うのですね。もっと深い意味が有っていわれるのでしょう。後悔は自分にとって「しまった」という思いが残りますね。「すみません」と云う中に自分の思うように行かなかったという後悔です。どこまでも自己中心に考えます。「悪む」というのは懺悔という心が働きます。根底に無我の理が働いていて善悪共に後悔をするということなのではないでしょうか。親鸞聖人は『教行信証』の中で云います。
 「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、中に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行を作すは、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して頭燃を灸うがごとくするもの、すべて「雑毒の善」と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲するは、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心の中に作したまいしに由ってなり、と。おおよそ施したまうところ趣求をなす、またみな真実なり。」(『信巻』真聖p215)また『信巻』信楽釈に「雑毒の善・雑修の善」といわれるような自己の姿をみておいでになります。其の善行は「虚仮の行・諂偽の行」であるという確信を以って如来大悲の大海に身を任せておいでになる聖人のお姿を垣間みることができますね。『述記』に慚・愧についての記述があります。「悪作の善なるものは是れ愧なり。悪を拒むを以っての故に。不善なるものは是れ無慚なり。賢善を顧みざるが故に。無記なるものは是れ慧なり。」と。所作を嫌悪するということは、自分のなした悪の行為を後悔し憎むという意義があるのです。作すということは所作のことですが、所作が後悔を生みだしてくるのです。悪(お)が後悔の因になるのですね。因に依って(依因)悔を生じ、悔を生じてくるのが悪という構図になりますね。「其の実は悪とは即ち是れ悔なり」と悪即悔ということに、ただ反省・後悔ということではなく無限の大悲に自身を問う歩みをしていかなければならないという事を示唆しているのではないでしょうか。どちらにでも傾いていく後悔の心は、「この心を機縁として真実に触れていきなさい」という、後押しをされているのではないかと思います。